20_青年の優しさと胸のざわめき
しかしその翌日。ペリューシアの舞い上がっていた心はぽっきりと折られることになる。
セドリックからクッキーを作ってほしいと頼まれたペリューシアは、早速その夜に作った。一つ一つ丁寧に作っていたら、つい夜更かしをしてしまったのだが、かわいらしい箱に、隙間なく七種類のクッキーを収めておいた。粉糖をまぶした丸いクッキーや絞り出しクッキー、フロランタンに、アイシングクッキー。
学園に来て朝一番に、手作りのクッキーをセドリックの教室に届けに行くと、彼は笑顔で受け取ってくれた。
そんな、手間暇をかけて作ってきたこだわりのクッキーだが……。
(あら……セドリック様?)
旧校舎に行く途中、セドリックの後ろ姿を見かけて目で追うと、彼は芝生の水溜まりの上にぽいっと何かを投げ捨てて行った。
見覚えのある柄だったので確認すると、彼にあげたクッキーの箱が――捨てられていた。
「そんな、どうして……」
中身はろくに減っていない。ほとんど残したまま捨てられた箱を見下ろし、ショックを受ける。
(もしかしてお口に合わなかったのかしら? でも、だからって、こんな風に捨てるなんて……。セドリック様はこういうことをなさらない方だと思っていたのに)
最初にクッキーを作ってほしいと頼んできたのはセドリックの方なのに、こういう形で好意を無下にされたことで胸が痛んだ。もし捨てるとしても、屋敷に持ち帰って捨てるなり、本人の目に留まらないように配慮するべきではないか。
あまりの事態に、どうしていいか分からず、茫然自失となる。
「そんなとこで何してるんだ?」
どれほど時間が経ったのか分からないないが、足を地面に縫い付けられたように立ち尽くしていたペリューシアのもとにネロがやってきて、ぽんと肩を叩いた。
「ね、ねろぉ……」
「お、おい、どうしてまた泣いたりして……」
振り返ってネロの顔を見た途端に、堪えていた涙がだばっと滝のように零れ出した。ペリューシアの瞳から止め処なく溢れる涙を見て、彼はぎょっとする。
「一体、何があったんだ?」
「これ……。わたくしがセドリック様にお作りしたクッキーが、捨てられていたの」
「……!」
「お口に……合わなかったのかしら。それとも迷惑だったのかしら。理由は分からないのだけれど、すごく悲しくて……っ」
汚い水溜まりに浮かぶかわいらしいクッキーの詰め合わせ。するとネロは、手が汚れるのも構わずに泥水の中から箱を取り出した。
「ネロ!? ちょっと何して――」
そして彼は、ひとつ摘んだクッキーを一切の迷いもなく口に入れた。泥水に浸かっていた不衛生なものを口に含んだ彼に戸惑う。
「それは汚いわ、食べてはだめよ」
「不味くなんかねーよ」
「………」
「あんたがそいつのために、真心を込めたんだって分かる味。だが、その好意を踏みにじるような奴に、食う資格はない」
ネロは箱ごとペリューシアから取り上げて、黙々とクッキーを口に運び始めた。彼の優しさに、傷ついた心にじわりと温かいものが広がっていく。気づけば、すっかり涙も止まっていた。
ペリューシアは両手を伸ばして箱に蓋をし、首を横に振る。
「もういいわ、ネロ。……あなたがわたくしの想いを大切にしようとしてくれてるのはよく分かったから。ありがとう。でもそれはもう捨ててちょうだい。お腹を壊すといけないもの」
「……あんたが、そう言うなら」
「ありがとう。今度はネロのために、もっとすごいクッキーを作ってくるわね!」
ぐっと拳を握り、気合を入れるペリューシア。
ネロを喜ばせるためにどんなクッキーを作ろうかとわくわくしながら構想を練る。
するとネロは突然、真剣な顔を浮かべてこちらを見つめた。
「――俺にしろよ」
「え……?」
「俺なら絶対、あんたを泣かせたりしない。そんな男よりずっと、大切にする」
「……!」
彼が言っている言葉の意味を理解できないほど、ペリューシアは鈍感ではない。
長いまつ毛に縁取られた赤い双眸に射抜かれ、胸の奥がきゅうと甘やかに締め付けられる。どきどきと心臓が加速していき、言うことを聞いてくれない。
「わたくしは……」
ペリューシアは戸惑い、一歩後退する。
ふと、頭の中にセドリックの存在が思い浮かんだ。自分にとって彼は初恋だった。手放しでずっと慕い続けてきた相手。……けれどここに来て、盲目的に恋していたせいで気づかないふりをしてきた冷たい一面をありありと思い知った。
彼は野心のためにペリューシアと結婚し、入れ替わっても全く気づかず、遂には家を追い出した。困ったときに頼りにならず、自分のことを愛してもいない相手と結婚することが、本当に幸せなのだろうか。
セドリックへの思いで揺らぐ心に、今度はネロが入り込んでこようとしている。
ペリューシアはもう、いっぱいいっぱいだった。
(馬鹿ねペリューシア。セドリック様と結婚するって自分で決めたことでしょう。今更揺らいではだめよ)
当惑するペリューシアをよそに、彼はこちらにずいっと近づいてきて、頬に手を添えた。泣いていたせいで赤く腫れてしまった瞼を、きわめて慎重に親指の腹でなぞる。
「――なんてな。冗談だよ、そうやってすぐに真に受けんな。前から言ってるだろ? すぐ人のこと信用して、壺でも買わされるんじゃねーかってさ」
ネロはゆるりと唇で半円を描く。けれどその微笑みに、どこか寂しさが乗っていた。
(なんだ、またいつものタチの悪い冗談……だったのね)
冗談だと分かったのに、胸のざわめきは一向に収まらない。
くらくらと目眩がして、頭の中を真っ白な絵の具で塗り潰されたように、思考がおぼつかなくなる。
「……ひでー顔」
悪口を言われているはずなのに、胸は高なり、頭の先までのぼせ上がるくらいに身体が熱い。触れられている場所から、甘い痺れが全身に広がっていく。
彼に言い返す言葉は何ひとつとして見つからず、ペリューシアは精一杯の力でネロの身体を押し離した。
「……ごめんなさい、ネロ。わたくし、急用を思い出したの。だから今日のお昼は、ひとりで食べて」
「急用?」
「それじゃあ、また……」
バスケットを押し付け、慌てた様子で走り去る。ペリューシアの顔は、耳の先まで余すことなく赤く色づいていた。火照った頬に触れながら、ペリューシアは思う。
(わたくし………ネロに、どきどきしている……)




