第十話 エブリシング#B
「お疲れ様」
驚いたのは、突如声をかけてきたのが朝波海月だったから。
|Legato a Due《レガート ア ドゥエ》の二人が密着取材で本選への意気込みを語ったあとの空き時間に、飲み物を買っているところで偶然出くわした。
その緊張感に、思わず冷や汗をかく涼穂と対照的に、歌音は元気よく挨拶を返す。
「お疲れ様です!」
「ふふ、元気がよくてよろしい。密着、初めてだと結構疲れるでしょ。しっかりとお休みは取らないとダメだよ」
さり気ない会話からも、密着くらいは慣れているという風格を見せつけられる。しかし、重要なのはそこではない。
告知なし、かつ変装しての二次審査参加。そこから得た情報というものは間違いなくあるだろう。今、彼女たちの目から自分たちはどう見えているのか。それが恐怖にすら思えて仕方がない。
自販機を離れてスポーツドリンクに口をつける歌音にも気付いていない様を見て、海月はその心中を察した。
―――そっか。気付いてたって美桜さん言ってたっけ。
人差し指を顎に当て、視線をずらしてわざとらしく悩む。先輩としてこの場で助言を残すのは簡単だ。しかし、それをやってしまうとフェアでない、という思いも確かにある。
ただのオーディションであれば気にすることではない。しかし、今回に限って言えば自分もいち審査員だ。特定のユニットに対し不公平に情報をもたらすのはいただけない。
という理性的な思いとは裏腹に、ちょっと世話を焼きたいという個人的な感情もかなり大きい。
内容は長くも思考時間はごく短く。最終的に出した結論は、「まあ、バレなきゃいいよね」だった。
「二次予選、頑張ったね。どう、準決勝自信ある?」
それとなく探りを入れてみる。自分であれば、多少なり話しやすいだろうという計算もあった。
他のメンバーでは癖が強いイメージが先行しがちで……実際そうなのだが……警戒を強めてしまう部分もあるだろう。
だからこれは、私の仕事。
「……正直、難しい部分の方が大きい、と私は思います」
「わたしはきっと大丈夫だと思います! スズちゃんと一緒だし!」
冷静に厳しい現実を受け止めている涼穂と、明るく前向きな答えを返す歌音。うんうんと頷きながらも、内心で分析を重ねていく。
今の二人がどの程度の実力なのか、必要なものは何か、従って自分がかけるべき言葉は何か。
準決勝はこれまでのパフォーマンスが審査対象、つまり生放送が始まる前には既に結果が決まっている。もし負けだとすれば、今しているレッスンの成果を披露することはできない。
しかし、それでも。レッスンは実力を伸ばし、敗北の経験は今後に活かすことができる。であれば、勝ち負けに関わらずアドバイスを送るのも先達としての務めだろう。
「そっか。仲良しなのはいいことだね」
そう言って歩き出す。緊張のためかその場から動けずにいる涼穂の横を通る瞬間、聞こえるようにこう残した。
「ちょっと、玲良ちゃんを見習った方がいいかもね」
反応を見ることもなく、立ち止まらずに歩いていく。その途中で、少し言い過ぎたかも知れないな、とも思った。
とは言え、彼女たちに何が足りていないのか、それを突きつけるのだとしたら、この表現以外には思いつかなかったことも確かだ。
頭角を現している後輩であれば、出来る限りは頑張って欲しい。自分たちに近づいてくるその努力を応援したい。それが、国民的アイドルと呼ばれるに至った朝波海月の嘘偽りない現在だった。
足取りは軽く、背負うものは大きく多く。後輩の行く末を楽しみにしながら、鼻歌交じりに呟いた。
「ふふ、がんばれ若人ー、なんちゃって」
☆
街並みから離れた山。取材の合間を縫った今日この日に、稔と蘭子は数か月ぶりの登山に訪れていた。体力と持久力を伸ばすためのトレーニングと趣味を兼ね、前回よりも荷物の重量を増やして臨んでいる。
元より、時には望遠鏡を背負って何年もこの場所を訪れている稔からすれば、もはや慣れたものだ。しかし、登山などほとんどしたことのない蘭子は違う。だからこそ、稔についていける持久力を育むという意味ではこれ以上ない特訓となっていた。
一方の稔も、他のアイドルのパフォーマンスを寸分違えずコピーする蘭子の観察眼と瞬発力、物覚えの良さについて行こうと、今までは基礎トレーニングしかしていなかった自宅でも様々な形の自主トレーニングに挑戦するようになっていた。
図らずとも、互いの互いをよく見る姿勢が、自分にないものを見抜いて変化を与えることに繋がったのだ。
いつも通り、自分の調子で歩みを進めながらも、稔はたまに背後を振り返る。気合を入れすぎたのか、はたまた本番が近づく焦りからか。今日の蘭子は少し無理をして荷物を重くしているように見えていた。普段の彼女であれば、ペース配分までしっかりと管理することからも、疲弊に近い状態に陥った顔が殊更珍しく映る。息は荒く、足取りも良くない。というより、力づくで浮かせて荷物の重さで下ろしているような感覚だ。
しかし、あえて稔はそのことに言及しなかった。そうさせたのは経験から来る、蘭子であればその重さに耐えて登り切れるだろうという確信めいたもの。それと、自分なりの考えで努力する彼女に水を差すようなことを言いたくないという気持ちだった。
本当に危ないようであればいつでも止めに入る。荷物だって半分は自分が持ったとしても問題ない。そう心の中で繰り返しながら、稔は前へ歩みを進める。
「正っ……直」
ふと、蘭子が言葉を吐き出す。重い一歩を踏み出しながら、気付けのように。
「今、でもっ! 稔、ちゃんっ、の……隣、が! ランで、いい、のか……わから、なく、なるん、です」
息遣い荒く吐露したのは、その心中にある不安。何を今さら、と言いかけて稔は言葉を飲み込んだ。
今ここで言うからには、蘭子なりの意味がある。そう思って、振り返らないことで続きを促す。
「ですけどっ、稔ちゃん、言った、じゃない、ですか。一等星、に、なれるか、って。だっ、たら……ラン、も! 主人公に、なるっ、くらいの、気概が、なきゃ! ダメ、だなって!」
そう言うと同時に、ロープウェイ乗り場横の自販機にたどり着く。さすがに登頂成功で気が抜けたのか蘭子はゆっくりと座り込んで一度荷物を下ろした。
浅く早い呼吸を、意識して長く深く整えていく。赤みを帯び始めた空を眺めながら、少し人心地を手放してその空に浮かぶような感覚に身を任せる。
たっぷり一分ほどかけて普段通りの呼吸に戻してから、蘭子はぽつりと呟く。
「……もしかしてさっきの、口に出てました?」
「ええ、はっきり」
含みある得意げな笑顔で返される。視線は空へ固定したまま、蘭子は続けた。全身を締め付ける疲れや痛みや凝りのせいか、恥じらいの介在する余地は頭になかった。
「でも本当ですよ。稔ちゃん、ミステリアスなお姉さんで売ってるのに心持ちがしっかり乙女なところとか、それはもう推せるんで。そんなお人と並んで立つなら、ランだって相応に立派な目標を立てないとなって」
「ふぅん?」
わざわざ回り込んで、いつかのように顔を寄せる。視界いっぱいに広がった稔の嬉しくてたまらないという表情に、しかし蘭子は咎めるようなテンションで返した。
「その手は通じませんよ。もう驚いたりしませんからね」
「あらそう」
言うが早いか、稔は両手で蘭子の頭を思い切り撫でまわした。これは予想外だったのか蘭子も「えぶぁ!?」と素っ頓狂な声を上げてされるがままになる。
ひとしきり楽しんでから両手を離すと、稔は満面の笑みで聞き直した。
「これはどう?」
「……それはズルです」
数分後、開けたスペースで軽いストレッチをしながら稔が話を戻す。
「私からすれば、蘭子ほど主人公みたいな子もあまりいないと思うけど」
「掘り返すんですか……べつに、ランはごくごく普通のオタクですよ。今でこそアイドルになりましたけど」
踊れる時点で普通ではない、と突っ込むべきか迷って辞めた。稔からすれば、否、事務所の誰に問うても信じられないと言うだろうが、恐らく蘭子は本気で言っている。
であれば、かけるべきは否定ではなく誘導の言葉。
「キュートな笑顔、趣味はお菓子作り、努力は欠かさず夢にひたむき、加えて言えば美人のヒロイン。条件は揃ってると思わない?」
「それは……それらしく言えばそうなりますけども」
少し、満更でもないといった感情が口角に出た。好感触を得て、稔も僅かに饒舌になる。
「いいじゃない。このままオーディションに優勝すれば見事なサクセスストーリーよ?」
嬉しさと恥ずかしさが同時に頭に昇ったか、蘭子は誤魔化すように大きな声を上げた。
「あーもう! ダメですそういう甘い言葉は! 真剣に現実を受け止めて、精進しないといけないんですから! んもう!」
正面から褒められるのが苦手、それも稔が蘭子を好きなポイントのひとつだった。
一通りのストレッチを終えると、ロープウェイに乗って下山する。今日は天体観測が目的でないことに加え、単に稔の気が違う方を向いていたのだ。
「ね、ラン。今日はこのあとお風呂に入りましょ」
「……それは公衆浴場的な意味合いでよろしいでしょうか?」
恐る恐る聞き返すと、稔は例によって意地の悪い笑みを浮かべた。
「私はそのつもりだったんだけど……ランがどうしてもって」
「いえタオルが汗吸ってるのが心配だっただけですから! 別に深い意味とかないんで!!」




