三十八本目 蕾香刀ハイエルン
幸せになれよと貴方は言った。
この世界で、貴方がいなくなったこの世界で。
私は本当に幸せになんてなれるのですか?
貴方がいない幸せを、幸せと呼んでいいのですか?
蕾香刀ハイエルンは二千七百年頃に誕生したと思われる魔剣である。
当時北コヘレント大陸には三つの国が並び立っていた。その中の一つがアカシャ国である。アカシャ国は共和制であったものの、国民全体が拝華教という宗教の信徒であったため、実質的には拝華教の長である近衛守護と呼ばれる人物による独裁が敷かれていた。
七代近衛守護のカルマヘルムという男も、例に漏れずアカシャ国の統治を行う立場にあった。
さて、この拝華教は自然信仰の一種である。具体的には首都の外れにある聖地と呼ばれていた場所に存在した一輪の真紅の華を信仰する宗教であった。
その華がいつから咲いていたのかは誰も知らない。最も古い文献によると、紀元前六千九百年ごろには既に咲いていたという。驚異的なことに、以来一度も枯れることなく咲き続けていたのだ。
その華を、拝華教の人々は聖華と呼び、敬っていた。
北コヘレント大陸には一つの伝承があった。
華を枯らせば世界に歪みが現れる。
カルマヘルムの代にそれは起こった。
史上最悪の大旱魃、大飢饉。それは不衰のはずの聖華にすら影響を与え、一度たりとも色褪せたことがなかったはずの聖華はその花弁を曇らせた。
カルマヘルムは拝華教の長として行動を迫られた。
そして、その身を削り、自身の血を全て聖華に捧げた。
人の血を吸った聖華は、瞬く間にその鮮やかさを取り戻し、そして再び人々の信仰対象として咲き誇ったのだ。
カルマヘルムの死後、その妻であるニヘイヤが近衛守護としてアカシャ国の統治を始めたが、その翌年に聖華は消失し、信仰対象を失った拝華教の分裂と共にアカシャ国は消滅した。
八代近衛守護ニヘイヤの死後、その私室から蕾香刀ハイエルンが発見された。
蕾香刀ハイエルンは人を斬ると、傷口から華を咲かせる。
血のように赤い、一輪の華を。
斬られた人間は体内から血液を一滴残らず失い、干からびる。
貴方を失ったこの世界に意味はあるのでしょうか。
歪むのならば歪めばいい。壊れるのなら壊れればいい。
貴方に犠牲を強いた幸せなんて要らない。
私の幸せは貴方の幸せだったのだから。
未検閲
→十一本目、十二本目
ここからは『千の魔剣の物語』の筆者に語らせるわけにはいかないので少し補足を
紀元前七千年ごろに起こった人類の危機はイザナギによって収束し、イザナミの殆どは幽世刀イザナミとして封印されていますが、彼女はほんの一部取り残されてしまいました。それが聖華になりました。
聖華は信心ではなく、愛情を求めていました。成り立ちから考えれば当然ですね。ただ信心にも温もりはあったため、咲き続けられたわけです。
聖華が枯れ始めたのは旱魃とは関係なく、ただ温もりが冷め始めたことが原因でした。
そこにニヘイヤへの愛情を抱えたカルマヘイムの血を流し込まれたため、再び咲くことができました。
また、聖華には力が殆ど残っていないため、枯れたとしても世界に歪みはできません。そんな危険な代物であったなら均衡塔が見逃すはずがありません。
カルマヘルムとニヘイヤの間に子供は産まれませんでしたが、産まれたとしたら、ハイエルンと名付けようと決めていました。




