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ライフ イズ ビューティフル

作者: さかなで

日常に起きる不幸は、やがて精神を蝕み、人生を蝕む。ゲームの世界に逃げ込もうとするが、やがて現実の世界に引き戻される。さらなる不幸の入口へ。

雨の銀座、並木通りは傘さす人であふれていた。


夕方5時半。界隈の会社の退社時間だ。


小野宮悦子もそんな人たちの列となって、地下鉄の入り口に向かって歩き始めた。

学生の頃は、しょっちゅう銀座に来ていた。とくに買い物も、用もなかったのだが、この雰囲気が好きだった。美しく整えられて飾られたショーウィンドーに、そしていくつものそれが入っている大きなビル。


銀座のビルに入っている、ちいさな貿易会社に勤めるのも、もう2年目となっていた。

28歳までには結婚して、郊外に家を買って。そんな思いを漠然と学生時代から思い描いていたが、今は出会いもなければ、暇も、ない。


父はもうすでに他界して、母と二人暮らし。母は重度の糖尿病を患い、いまはほとんど寝たきりだ。ふたつ上の兄がいるが、外国に勉強しに行くと言ったきり、ずっと帰ってこない。2度ほどスペインとポルトガルから絵葉書がきたが、何をしているかは書かれていない。


6時半までに帰らないとヘルパーが帰ってしまう。悦子は少し速足で地下鉄の駅に向かった。


階段を降りて地下の通路から改札口に向かう。帰宅する人たちが流れていく。全体が生き物のように動いている中、立ち止まって辺りをうかがうようにしている二人の男が立っている。

昨日、いや何日か前から見かけていた。とくに気にもしなかったが、今はハッキリと、その男たちの視線が自分に向けられている、と感じられた。


その二人に見覚えはない。仕事関係の人間を思い浮かべたが、該当するような人はいないのだ。


改札を通り、ホームを歩くと、もうその二人は見えなくなっていた。電車を待つ間、いったい何だったんだろうと考えたが、ちゃんとした答えは出てこない。やがて満員の電車の中で、それも忘れた。


駅前のコンビニで夕飯の弁当を買う。作った方が安上がりなのだが、疲れがたまっていて、最近はすべてコンビニで済ませている。


古びたマンションの階段を上る。エレベーターもないのにマンションと言うのはおかしいと、悦子はいつも思う。3階の一番端に母と自分の部屋がある。ちょうどヘルパーさんが帰るところだった。いくつか母のことを聞いた。かわりはないようだ。


ドアを開けようとしたとき、声をかけられた。少し驚いた。


「小野宮悦子さん、ですね?」

「え?はい」

「わたしたちは丸の内署のもので、佐藤と申します」

二人の男がバッチのようなものがついた身分証をみせた。さっき改札にいた男たちだ。


「すこし聞きたいことがあるので、署までご足労ねがえませんか?」


おねがい、と一応は言っているが、有無を言わさぬような言い方だった。


「なんでしょう?わたし、警察に聞かれるようなことなにも知りませんよ」

「それは署の方でお答えします」

「でも、母が」

「お手間はとらせません」

「ちょっと待っていただけます?母に言ってこなければ」

「いえ、直ぐですので」


そのまま強引に階下まで歩かされ、車に乗せられていた。屋根に赤いライトのある黒い車。


小さな部屋に入れられて、事務机の椅子に座らされた。制服を着た女性の警官が書類のようなものを前に座っている。

「あの、何なんでしょうか?」


聞いてもその警官は答えない。黙っているだけだ。

時間ばかりが経っていく。母のことが心配になった。トイレの世話もしなくてはならない。


やがて佐藤と名乗った男が入ってきた。中年で目つきが悪い感じがした。一緒にさっきいた男もいる。まだ若そうだ。中年の男が正面に座ると、若い男になにか耳打ちをした。若い男は腰をかがめ、はいはいと返事をしている。何を話しているかは聞き取れない。


「すいませんね、いろいろ忙しくて。最近はけっこう凶悪な事件もあって、さっきも銀座の裏通りで殺傷事件が起きて、まったく物騒な話ですよ」

「あの、お話って?母の世話をしなければなりません。早く帰りたいんですけど」

「ああ、そうですね。まあ、あなた次第で早く済みますよ」


わたし次第?わけがわからなかった。まるでわたしが何かの容疑者のような口ぶりだ。


「一週間ほど前、正確には8月7日の夜。あなたはどこにいましたか?」


一週間前のことを聞かれて、どれだけの人間が正確に答えられるんだろうか。この佐藤という男だって、ちゃんと答えられるのか?悦子はなにか底知れない憤りを感じていた。しかし、悦子は答えられる。


「8月7日は6時半に会社から帰って、ずっと家にいました」

「なにか証明できるものは?」


家にいた証明なんて、誰ができるんだろう。


「帰って来たとき、ヘルパーさんに会いました。それから母をずっとみてます。母といっしょですから」

「母親は証人になれないんですよ」

「ちょっと待ってください。証人て何ですか?まるであたしが犯罪者みたいじゃないですか」

「いえ、犯罪者と決まってるわけではありませんよ。今はあくまで参考人です」

「今はって、何なんですか」

「だからあなた次第で、その呼び名が変わると、申し上げているんです」

「わたし次第って、わたし何もしてません」


いきなりドン、と机を叩かれた。若いほうの男だ。


「いい加減しらきるのはやめろよ、おいっ。みんなわかってんだ。悪あがきしたっていいことなんかないぞ」

「加藤、まあ、静かに話そう。時間はたくさんあるんだ」


なんだかわからなかった。混乱が混乱を呼んだ。今あたしはなにをしているんだろう?なにをされているんだろう?なにもわからない。なにも考えられない。そうだ、これはゲームなのだ。ゲームなど学生の時少しやったが、今は全然やらない。そうだ、最近はきっとバーチャル何とかと言って、リアルなゲームがあると聞いたことがある。きっとそれに間違って入り込んだんだ。


「何をブツブツ言ってんだっ」加藤という男がまた机を叩いた。


それからはゲームの仕組みやストーリーを見ようと思った。ここは警察署の中。取調室というとこらしい。わたしは容疑者で、何かを自白させられるらしい。このゲームはどんな罪をあたしに用意しているんだろう?強盗はムリがある。殺人?まさか。窃盗?それならなんとか説得力がある。勤めている会社にはそれなりのお金もあるし、貴金属だってある。そんなものは上司の管理で、あたしは触れもしないが、どうやってか盗んだことにするのだろう。どうすればいい?脱出?それとも自白?ゲームオーバーまでどうすればいい?なんかわくわくしてきた。


「おいっ、あんたっ」

「だめだ。こりゃまいった。狂っちまった」


半目でよだれを垂れ流す自分の顔が、鏡の向こうで笑っている。



長く霧の中をさまよった。ゲームはまだ続いている。ときおりかすかに光のようなものが見えて、白い服を着た人たちの歩くのが見えたが、すぐに霧の中に消えた。


ふわふわした気持ち。とても心地よかった。思考がゆっくりと行ったり来たりしているだけで、寒さも温かさも時間もわからない。自分が何者かさえもどうでもよくなった。たまになにか口に突っ込まれるが、たいして苦痛ではなかった。苦痛と言えばたったひとつ。においだ。息をするたび嫌なにおいが鼻につく。それは四六時中感じる、ただひとつの苦痛。そしてそれは現実とつながっている唯一まともなあたしの器官のせいでもあった。


永遠に続くと思われた心地よさが、あるときからなにかに引きずり出される感覚に気づき、それに悩まされるようになった。白い手が伸びてくる。目に光が入ってくる。


「だいぶ改善されてきたようだ」

「そうですね。先週まで唸ったり暴れたりしていましたが、ずいぶんおとなしくなりました」

「拘束衣もいらないな」

「新薬、すごいですね」

「先輩の臨床試験の手伝いだが、これほどの結果は予想してなかったよ」

「じゃあ、正常に戻るんですか?」

「そうなるね。ただ」

「ただ、なんです?」

「僕は医者だから治療し治すのが務めだ。だがそれが果たして患者のためになるのかと、思うことがある」

「そんな。治って喜ばない患者などいませんよ」

「彼女の場合、本当に治ってよかったのかな」



強烈な吐き気が襲ってきた。とめどもなく続く吐き気は、すべての胃液を吐き出してもおさまらなかった。痙攣がおきる。自覚できる。苦しい。なにかが生まれようとしているのだ。そうだ。失った自分が再び生まれ出ようとしている。あたしの中から。


ひどい頭痛と、続く吐き気と同時に、わたしは頭の中の霧が晴れていくのを感じていた。

まわりがなんとなく見えてくる。いえ、認識できてくる。


ここは病室らしい。周りをマットのようなもので囲まれた白い病室。白い鉄格子がドアの代わりのようだ。声を出そうとしたが、うまく出せない。起き上がろうとしたがうまく起き上がることができないでいた。

何があったか考えてみた。が、何も思い出せなかった。いや、自分が誰なのかも思い出せなかった。


ようやく話せるようになったのは、それからしばらくしてからだった。自分の名前も思い出すことが出来た。


「1年以上もきみはずっとさまよっていたんだよ」


精神科の医師で曽根崎という名だった。いまは普通病棟に移されて、比較的自由にトイレやラウンジに行けるようになった。看護師たちとも普通に会話し、本を読んだりして1日を過ごした。

診察を終えると、曽根崎は心配そうな顔をして、大事な話がある、と言った。


「きみのお母さんのことなんだけどね」


母はどうなったか、ずっと気がかりだった。だけど誰も教えてくれない。だが、この医師は知っている。いや、わたしは知っている。


「亡くなったんですね」

「そう。きみがここに入ってすぐ。ヘルパーさんが見つけたらしい」


ぽろぽろと涙がこぼれた。泣き声はでなかった。


「なにかほかに御存じですか」


医師は訥々(とつとつ)と話してくれた。言いにくそうだったが、知らせなければならないと言う義務感みたいなものがあったのかも知れない。


わたしが警察に連行されたのはコンビニでの万引き、しかも常習ということでだ。店員のアルバイトの大学生がわたしがやったと言い、防犯カメラにも映っていたことから疑われた。後の捜査で大学生が店の商品を盗んでいることがわかり、わたしに罪を着せたこともわかったそうだ。

会社はすでに解雇の手続きをしていたらしく、それは医師が問い合わせてくれていた。社会に戻れるよう、彼は色々とやってくれたらしい。


自宅のマンションはそのままになっているそうで、電気や水道は連絡すればすぐに通るらしい。


「家に戻れるんですか」

「そうですよ。経過もいいので、今週中には。まあ、しばらく通院はしてもらいますが、リハビリだと思って気軽に来て下さい」


次の日、警察の人が来た。あの佐藤という男ではなく、別の少し年取った男だ。この件は警察の落ち度はなく、わたしがこういうことになってしまったのは、不可抗力ということで、取り調べに際しても問題はなかったこと。大学生に関しては店との示談が済んでいるので、わたしが仮に訴えても、有罪にまで持ち込むことは難しいし、大学生にもこれからがあるので、騒ぐのは得策ではないと言われた。


大学生のこれからと、わたしのこれからは違うんですか、と思ったが、なにか無駄なような気がして、黙った。何もかも失った自分に、これからなんてあるわけがなかった。


自宅のマンションに帰ると、何も変わっていなかった。管理人さんがたまに換気をしてくれていたおかげで、カビ臭くはなく、ただあちこちホコリがたまっていた。

布団がなくなっていた母のベッドは、なるべく見ないようにしていたが、つい見てしまい、その度涙があふれてしまう。飲みかけだった湯呑も、かたづけられない。


何度目かの病院の診察で、曽根崎が思い出したように言った。


「きみがここに入って間もなく、お兄さんと言う人が電話をかけてきたよ。なんでも外国にいるらしく、きみの様子を聞いていた。お兄さんとは連絡は取ったの?」

「そうですか、兄が。連絡は取れていないんです」

「生活の方はどう?」

「仕事を探しているんですが、なかなか」

「そう。いつでも力になるから、相談してね」

「ありがとうございます」


兄は知っているのだ。わたしのこと、母のこと。でも帰ってこない。猛烈な寂しさが襲ってきた。家で泣いた。


そろそろ本気で仕事を探さないと、お金も少なくなってきている。節約しながら暮らさないと。

仕事はなかなか見つからなかった。正直に精神科に通院しているというと、やんわりと断られる。言わなくてもいいのかもと思ったが、あとで知られてしまったとき、迷惑をかけるかもしれないと、言わずにはいられなかった。


なんとか、製菓工場の製造現場で働くことが出来た。菓子の袋詰めなどをする工程に就かされた。周りは年をとった女の人が多く、なじめなかった。そのうちお茶にゴミを入れられたり、ロッカーのものが捨てられたりし始めた。やがてそれはエスカレートし、わざと袋に入れた菓子をぶちまけて、わたしのせいにしたり、工程をわたしの前で滞らせもした。その度工場長に呼び出され叱られた。半月もしないうちに首になった。抗議したが、試用期間中だからと受けつけて貰えなかった。


どうしてこんなことになってしまったんだろう。わたしが何をしたんだろう。どこでわたしは間違えたんだろう。


家の中でぼんやりとしていた。薄暗いなか、時計の音だけが聞こえる。

あれから何日が経ったろう。また頭の中に霧が出てきた。今度は黒い霧だ。寒くて仕方がなかった。


むかし借りた映画のDVDを思い出した。収容所に入れられたユダヤ人の親子の話だったと思う。父が子供に、これはゲームだと言って、希望を与え続けた話しだった。救われないと思った。あのときは、少年が生き残ってよかったと考えていたが、やはり誰も救われないと、いまは思う。


わたしはゲームに戻っていた。





救われない人生を、美しいと呼ぶには、人々はまだゲームの世界に入っていない。

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