表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

紙片

 遅くなると妻にメールを入れて、パチンコ屋へ寄った。

 金の装飾を施した、派手な台に座った。千円札を脇の機械に入れて、ハンドルを回した。電飾がチカチカ光って、ときおり音が鳴った。私は同じ姿勢で三時間ほど球をはじき続けた。その日は好調だった。たった三時間で、台は山盛りの球を吐き出し、だいたい五万円ほどの稼ぎになった。毎度毎度こうならいいな、と私は思った。私は帰りにケーキを買って、いい気分で家へ帰った。妻も息子もあまり喜ばなかったが、私としては満足だった。


 一日限りのものではなく、幸運は長く続いた。次の日も、その次の日もギャンブルによる収入があった。私はそのことを妻に話した。当然、いい顔はしなかった。妻は稼いだ金を子供の学資金に回すように言った。珍しく、私はその通りにした。きっと一生分の運を使ったのよ、だからもうギャンブルはやめてね、と妻は言った。

 だが私はまったくへこたれなかった。これでもかとしつこいくらいに、ギャンブルに勤しんだ。パチンコだけでなく、麻雀と競馬にも手を出した。どちらも私の不得意分野である。感情的に行動する癖がついており、冷静に判断を下せない。しかし私は普段とは打って変わって、勝ち続けた。なにをやっても、私の選んだ選択が、結果的に正しい選択となった。


 だが、高揚感があったのは最初だけで、それから少しずつ、なにかがおかしくなっていった。気が付くと、私はパチンコ台に座っていた。しかしなにか、視界が変だ。まるでテレビ画面を見ているような感じで、奥行きはあるが、距離感がない。だんだん気分が悪くなってきて、私は当たりのついたパチンコ台を放棄して、店をでることにした。いいんですか、と店員は念を押した。べつの用事がある、と私は説明した。当然、別の誰かがその台に座った。そいつは私のほうをチラチラ見た。そして私が戻ってこれないように、さっさと遊戯を始めた。

 視界の不調はしばらく続いた。常にというわけではないが、時折襲ってきて、しばらく引かない。熱っぽいからきっとそのせいだと思ったが、二日たっても治ることはなかった。平衡感覚もおかしくなり、どこかへ体をぶつけたりすることが増えた。大丈夫か、と同僚は聞いた。言葉の意味を理解するのに時間がかかって、ますます心配された。


 幸運のせいだろう、と私は結論づけた。これほどの幸運に恵まれたことは、今まで一度もなかったから、頭が混乱してしまっているのだ。まぁ、仕方ない。たぶん二日酔いみたいなもので、すぐに治るはずだ。そう思った。

 私はしばらくギャンブルから離れた。しかし、感覚はどんどんおかしくなっていった。魚眼レンズを目の中にはめ込まれたみたいで、目を開けていると吐き気がした。私は何日か仕事を休んだ。布団からでることができなかったのだ。職場の人間たちは精神科へ行くように言った。私はその通りにしたが、質疑応答には嫌気がさしたし、処方された精神安定剤はこれっぽっちも利かなかった。私は負けを経験する必要があるような気がしてきた。とにかくもう幸運を脱したと自覚できれば、それで治るのではないか?


 私はさっそくその考えを実行に移すことにした。妻がでかけた隙に布団を抜け出し、パチンコ屋へ行った。ハイリスク・ハイリターンの台に座り、一万円札を突っ込んだ。あっというまに資金は溶けていき、五万円分の球が消えた。五万円となると、そう簡単には取り返せない。私はホッとしていた。視界が広がっていくのを感じて、嬉しくなった。私は完全に治ったような気がした。なんなら今から出勤したっていい、と思った。私は外れに外れた台を見て一人でニタニタしていたが、気にはならなかった。そのまま隣に座っていた中年男性に話しかけた。こりゃ一生当たりそうにないね、と私は言った。だが、私はすぐに笑うのをやめた。小汚いその中年男は、驚いてこっちを見ていた。そいつは中学の同級生だった。もしかして、キムラか、とそいつは聞いた。私はうなずいた。パチンコの音がうるさくて、我々は大きな声を出さなくてはならなかった。ひさしぶりだな、とそいつは言った。まさかこんなところで出会うとはな、今なにをしてるんだ、とそいつは聞いた。私は唾を飲みこんだ。頭の中になにか冷たいものが滲んでいくように思った。こんな騒音の中で座り続けていると、気を失いそうだった。外へでないか、と私は辛うじて口にした。そうしよう、とそいつは答えた。


 コンビニでビールとつまみを買って、近所にある大きな公園へ行き、広場のベンチに座った。私は頭がクラクラしていて、酒など飲みたくなかった。しかし乾杯をしたので、飲まないのも具合が悪かった。だから私は一応プルタブを引いて、一口だけ飲むことにした。

 私はそいつの名前を思い出せなかった。髭面だが、なんとなく顔はわかる。平べったくて、唇が薄い。今よりもっとチビだったはずだ。だが名前はなんだったか。二人とも野球部に所属していて、同じ学年だった。それだけ思い出せたが、名前はわからない。

 またあの感覚がきた。私は頭を振った。だが無駄だった。だんだんと、私は知らない男と二人で飲んでいるような気がしてきた。私は自分たちを遠くから見ているように感じた。小汚い男と苦痛に顔を歪める男が、ベンチに座ってビールを飲んでいる。そいつらがどういう関係なのかは、よくわからない。たまたま隣合わせになったようにも見える。

 私はもう一度頭を振って、なんとか正常な感覚を取り戻そうとした。だが、本当にこいつが同級生なのかどうか、確信が持てなくなってきた。

「悪いが名前を思い出せないんだ」と私は言った。

「森田だよ。いや、気にすんな。覚えてるほうがどうかしてるよ」と森田は答えた。

 森田はニッコリ笑っていた。口角がぐいっと上がって、ときどき目線はそっぽを向いた。なにかを企んでいるような、奇妙な笑顔だ。どこか暴力的な印象を受ける。だが、たしかにその笑い方には、見覚えがあるように思えた。

「それで、今、なにをしてるんだ?」と森田は聞いた。

 私は口を動かして説明した。設計事務所で働いている。待遇は悪くない。八年前に結婚して、今は息子もいる。「お前は?」

「実は家出中なんだ」と森田は答えた。「色々あってな」

 そうか、と私は言った。

 森田はなにか言いかけて、やめた。森田は長く、時間をかけて考えた。私は待った。別に苦痛ではなかった。「なにも聞かないのか?」と森田は聞いた。

 まぁ、と私は言った。私はそれどころではなかった。あえて感想を述べさせて頂くならば、興味がない。だいたい、四十二年も生きていれば、いろいろあるに決まっている。不思議なことではない。

 森田はまじまじと私を眺めた。「お前って、そんなにクールだったっけ」

 クール、という言葉に違和感を覚えた。私は頭の中で繰り返した。クール。

「色々あって」と私は答えた。「最近、ちょっと変わった」

「五月病か?」

「いや」と私は答えた。

 森田は何度かうなずいた。よくわからないが、一応納得した、という風に見えた。


 それからしばらく会話が途切れた。冷静に考えると、我々には共通の思い出というものがほとんどなかった。顧問の教師もどこにでもいるごく普通の男だったし、我々の野球部には語るに足るだけのエピソードもなかった。特別に仲良くしていたという記憶はなく、なにかを一緒にやったこともない。とりあえず、何人かの野球部員の名前が出た。覚えている奴もいれば、思い出せない奴もいた。しかし、我々は誰がどこで何をしているのか、まったく知らなかった。森田は自分が、最後の試合のラストバッターだったと言った。レギュラーではなかったが三年生だったので、代打で出場したのだ。私は三番センターだった。打率は一割そこそこ。二塁打を二本を打ったことを覚えている。それ以外の記憶はほとんどない。

 私はビールをもう一口だけ飲んだ。

「パチンコ、好きなのか?」と森田は聞いた。

「わからない」と私は答えた。

「調子はどうだ?」

「ここ二週間、負けなしだ」

 森田は例の笑顔を浮かべて聞いた。「ツキ過ぎて、おかしくなっちまったのか?」

 そうだ、と私は思った。そうだ、と私は答えた。

「それで、オレと再会した。幸運の力によって」

 私は首をかしげて、それからうなずいた。まぁなんでもよかった。

 森田は顎のあたりをさすって、なにか考えていた。

「面白い話だな」と森田は言った。「幸運で、おかしくなる奴がいる」

 私はうなずいた。

 森田はため息をついて、それから語気を強めて話しだした。「今はそういう時代からな。ある程度みんな幸せなはずなのに、誰もが不幸ぶってんだ。お前も同じだろ。自分が不幸だと思ってるんだろ。だから、幸運を信じられない」

 そうかもな、と私は言った。

「お前は今までだって、十分ツイてたんだよ。だって、世間の連中に比べたら、幸せだろうが」

 そうかもな、と私は言った。私はその手の話に興味がなかった。まず、幸せという言葉の定義がわからない。

「どうしてお前と出会ったのか、ようやくわかったよ」

 なんでだ、と私は聞いた。

「オレたちは真逆だからだ。出発点は同じだが、結果が違う」

「だから?」と私は聞いた。理由になっていない。「それに、真逆ってどういうことだ?」

 森田は私を見たままため息をつき、立ち上がった。

「行くのか?」と私は聞いた。

 森田はなにも答えず、ただ首を横に振った。元気でな、と言った。そして去っていった。私は追わなかった。私はしばらくそこに座っていて、缶に残ったビールを飲んだ。


 家へ帰ると、普段通りだった。私はテーブルについて、家の様子を眺めた。妻はソファに座ってスマホを弄っていて、息子はテレビゲームをやっていた。幸福かどうか、私は自分の胸に問うてみた。わからないし、なによりバカバカしい。やろうと思えば誰だって、自分は幸福だと宣言することができる。誰にもそれは否定できない。ただ単に、価値観の違いだからだ。要するに、質問が悪いのだ。不幸かどうかを聞けば、うなずく人間は少ないだろう。しかしそんなことはどうでもいい。大事なことは選択だ。そして抽選を受ける。ギャンブルと同じだ。

 治ったの、と妻は聞いた。

 ああ、と私は答えた。

 私は通販のチラシを手にとった。冷蔵庫やパソコンや、掃除機などが並んでいた。私はそれをハサミで二つに切った。切れ端をまた半分に切った。同じことを何度も繰り返し、紙片の山を作った。真っ白な紙片を一つを選びだして、『あたり』と書いた。光っているような模様もつけた。そして出来上がった七十二枚の紙片を空いたテイッシュ箱の中に入れて、混ぜた。


 家族に声をかけたが、無視された。私はとりあえず息子に声をかけた。父さんと勝負して当たりを引いたら、なんでも好きなものを買ってやると言った。息子は画面を見ながらなにか言った。なんでもだ、と私は念を押した。息子の要求は新しいゲーム機だった。今とは別の、新しい種類のものだ。価格は四万円。子供には過ぎた額ではあるが、仕方あるまい。続いて妻にも声をかけた。息子と同じく、なんでも、と繰り返した。妻は懐疑的で、説得するのに時間がかかった。彼女は私が、冗談を言っているのだと考えているようだった。やがて妻は腹立たし気に要求を提示した。家事の分担を百パーセント私に預ける、というものだった。私がそれを承諾すると、半ば反抗的にソファから立ち上がった。聞いたわよね、と息子に聞いた。聞いた、と息子は答えた。

 二人はお互いに約束の保証人となることを決めて、私の向かいに並んで座った。私は子供の学資金口座の通帳を持ってきて、開いた。「私が勝った場合は、勝ち分の40万をすべて取り返して、その金で一週間、豪遊する」と私は宣言した。「もちろん私一人でだ。そしてそれに関して、一切の文句を言わないこと」

 いいわよ、と言って、妻は袖をまくった。「パパッとやるわよ」

 我々はじゃんけんをして、順番を決めた。私が最初で、次が息子だ。

「ねぇ」と息子は楽しそうに聞いた。「40万って、何に使うの?」

 秘密だ、と私は答えた。「お前が勝ったら、教えてやろう」

 それから私はティッシュ箱に手を突っ込み、紙の山に触れた。私は真剣だった。私は自分の指先に神経を集中させた。二人は私が当たりを引かないよう、念を送っていた。大丈夫だよ、と自分に言い聞かせた。私は幸運の真っただ中にいるのだ。私はそっと紙片の束をつまんだ。紙片は自然に落下していき、一枚だけが残った。それに決めた。私はそれを闇の中で愛でた。そしてティッシュ箱から取りだした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ