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水本は梅雨時期の天然パーマみたいにうねる山道に車を走らせた。かつては週末になると近隣の走り自慢たちが集まることで名を馳せた峠だが、危険運転の取り締まりで減速帯が設置されると走り屋たちは潮が退くように姿を消した。走り屋が根城にするような峠だから、元々一般車の利用はほとんどない。今となっては夜中にこの峠を走るのは、仲介者と落ち合う殺し屋ぐらいのものである。
黒澤道治殺害のニュースは新聞、テレビで大きく取り上げられた。台所事情は別として、大手企業の社長が自宅で殺害された事件はそれなりにニュースバリューがあるので仕方がない。どの報道も強盗による犯行という見解で一致していた。
犯行を気付かれた強盗が格闘の末に黒澤道治を殺害した。争いの音を聞きつけた道治の妻である滋子が起きてきてしまったので、何も取らずに寝室の窓を破って逃走した。
という筋書きを犯罪ジャーナリストを称する人物が推理した。元空き巣経験者からいわせてもらえば、そんなバカな話はあり得ない。物取りの犯行なら、進入経路である書斎を物色していないのはおかしい。それに空き巣なら寝ているとはいえ、いきなり家人のいる部屋に足を踏み入れる蛮行は犯さない。現場の状況を見れば、物取りの犯行じゃないことは明白である。しかし、肩書きだけの犯罪ジャーナリストや手が届く範囲の容疑者だけ捕まえていれば給料がもらえる警察官では、犯人にたどり着くことはないだろう。まあ、そのおかげで真相は藪の中に消えてくれるのは、水本としてもありがたい。ただ、真相の藪に迷い込んでいるのは水本も同じだった。
凶器のサバイバルナイフは、この業界ではよく使われる物だった。暗視ゴーグルといい、仕事道具の分別がつくほどの経験はあるようだ。そうなると知っている人物の可能性もある。殺し屋の数はそれほど多くない。会員組織があるわけではないので正確な数字はわからないが、昨日今日のぽっと出を除けば調べられない数ではない。もちろん調べるのが水本ではなくプロならばの話だ。
寂れた峠道とはいえ対向車と一台もすれ違わなかった。闇の中、水本の運転するレンタカーのヘッドライトが、十数メートル向こうのひび割れたアスファルトを照らした。
あの男の目的は何だったのだろうか。黒澤道治の誘拐か。しかし、結果的にあいつは道治の胸にナイフを突き立てた。逡巡する素振りはなかった。非常の際はそうする予定だったのか。それともパニックになっての失策だったのか。暗視ゴーグルをつけていたせいで表情は読み取れなかった。
左肩の傷は想像以上の深手だった。傷は腱にまで達していた。一週間近く経った今もしびれが残っている。それでもあと二週間もすれば腱は修復され、リハビリをすればこれまでと変わらない機能を取り戻せるようだ。法外な費用を飲んで業界人御用達のモグリの医者に応急処置してもらったおかげだ。仕事での怪我はターゲットの予期せぬ反撃により切り傷や打ち身を負う程度が関の山で、第三者にいきなり襲われて肉を抉られたのは長い仕事の中で初めてのことだ。水本だけのことではない。仕事中に殺し屋が強襲されるだなんて話は聞いたことがない。
まったく何がなんだかわからない。
わからないならわかっている人間に聞けばいいのだ。そのために水本は車を走らせていた。
鹿島はあの日どうしてあんなことが起きたのかわかっているはずだ。わかっているからこそ、あれだけ黒澤道治の案件にこだわったのだ。遺産目当てのケチな殺人依頼ではない裏がある。いや、そちらが表、革張り箔押しの豪華装丁表紙だ。水本は事情を知らないままいいように利用されたのだ。
傷口が疼くのに合わせて憤りがふつふつとわき上がった。
ハンドルを切って斜面沿いのわき道に逸れた。しばらく進むとアスファルトから砂利道に変わった。もうしばらく進めば行き止まりになっている。そこが鹿島との待ち合わせ場所だ。
約束の時間ちょうどに到着したが、鹿島の姿はなかった。行き止まりに相手より先に到着して自ら退路を塞ぐほど南国的な脳味噌をしていない。それは水本も同じだが、立場が弱い方がリスクを負わねばならない。
ほどなくして重厚な外車が砂利道にタイヤを軋ませて近づいてきた。水本の到着をどこかから監視していたのだろう。今からナイター野球を始めようかという強烈なヘッドライトが光彩に突き刺さった。水本から少し離れたところで停まる。車から二つの影が降りてくる。逆光でもそれが誰なのかわかった。あれほどでかい塊はあの二人以外に考えられない。また一回り太くなったのではと思わせる腕で水本のボディチェックを済ませると車に向かって合図を送った。ヘッドライトが消えて後部座席のドアが開いた。ゆっくりとした動作で鹿島が降りてきた。影はボディガードの二人より二周り以上小さいが、放たれる威圧感は二人を凌駕していた。
「君のことは信用していたんだがな」
「それはこちらも同じくですよ」
水本がにじり寄るとボディガードの二人が立ち塞がった。鹿島が二人に下がるよう合図した。鹿島の背は、決して長躯ではない水本よりも頭一つ低い。それでも鹿島を殺せるかと問われれば、悔しいが首を横に振る。歩く兵器である二人のボディガードが脇を固めているからではない。鹿島が纏う絶対的強者の雰囲気に気圧されて、間合いに入ったとしても手が出なかった。人間の強さは肉体的な優劣ではなく、生と欲への執着の強さで決まる。身体を鍛えて技を磨いて身に付くのは、メダルを競ううまさだけである。世界選手権を何連覇しようが、生と欲に執着が薄い人間は簡単に殺せる。逆に寝ても冷めても己の生と欲が頭から離れない権力者の類は、怠惰で肉体が腐りかけていても殺すのに骨が折れる。これまで数知れないほどの生と欲を奪ってきたが、鹿島ほど強い力を放つ相手はいなかった。
「今回のこと、どこまで知っていたんですか。いや、どうして事前に教えてくれなかったんですか」
水本は確信していた。鹿島は間違いなく事前に全てを知っていた上で敢えて教えなかったのだ。どうしてと訊いておきながら理由はわかっている。教えると不都合があったからだ。知りたいのはその不都合の内容だ。複雑な事情を伝えると仕事を引き受けないと考えたからか。それだけのことなら他の手を使って仕事を受けざるを得ない状況に追い込めばいいだけのことだ。それくらいのことは鹿島なら容易い。
「何のことを言っているのかわからないな。私は君よりも長く生きているし、この世界の経験も長い。当然、君よりも知識は豊富だ。しかし、予言者ではない。いつどの家に空き巣が入るか事前に知ることはできない」
鹿島の表情は少しも変わらない。視線は水本の目を正面から捉えて離さなかった。プロボクサー、暴走族のニイチャン、闘犬、野良猫、どの世界でも先に目を逸らした方が負けと決まっている。事実とは、真実のことではなく勝者の言い分のことである。見え透いた嘘も勝者が断定すれば、それが事実になる。
「躊躇なくサバイバルナイフで切りつけてきて、家主をスタンガンで気絶させて連れ去ろうとする空き巣がどこにいるっていうんですか」
「どこにいるかはわからない。私は予言者ではない。どこにいるかを見つけだすのは警察の仕事だ。まあ、この国の警察のことだからどうせ見つけられないだろう。でもそれは、私と君の話には関係のないことだ」
「そういう意味のどこにいるかを訊いているわけじゃない。あいつの狙いは金でも貴金属でもなく、明らかに黒澤道治だった。あいつはただの空き巣じゃない。そもそも今回の案件の依頼者は、本当に黒澤俊治なんですか」
水本は怪しいと疑っていた。案件の依頼者が黒澤俊治だというのは、鹿島から渡されたDVDからの情報でしかない。どうとだって捏造可能だ。黒澤俊治の協力を頑として拒んだのは、嫌疑うんぬんではなくそもそも部外者だからではないか。鹿島は遺産に目が眩む黒澤俊治を隠れ蓑にし、水本に黒澤道治を殺害させようとしたのだ。
「まだ、わからないのか。君が遭遇したのが空き巣かどうかはどうでもいいことなのだよ。それどころかそんな人物が存在しようとしまいと関係ない。依頼者についても同じだ。大事なことは、君が仕事に失敗したという結果だけだ」
水本は視線をうつむけた。言葉が喉の奥でまごついた。
「いや、でも、それは、邪魔が入ったからであって……」
「君の言い分がどうであろうと結果は変わらない。黒澤道治を自然死に見せて殺害するという仕事が失敗に終わった。私が関心があるのはそれだけだ」
鹿島は水本の反論を許さなかった。自分の間合いで言葉を続ける。
「仕事を失敗したのだからもちろん報酬はなしだ」
「ちょっと待ってくださいよ。それは勘弁してください。準備に相当な費用がかかっているんです」
怒りはすっかり消えて頭の中は金の事情で満たされた。事件の裏の事情なんてどうだっていい。そんなことよりも懐事情だ。凶器の毒薬を始め仕事道具を一式揃えて、情報屋にだって金を支払っている。その上、左肩の治療で法外な治療費がかかっている。せめて報酬の一部だけでももらわないと大赤字だ。
「言ったはずだ。報酬は成功報酬一括払いだ。持ち出しがいくらあろうと関係ない」
左肩の傷口が疼いた。視界が霞んで鹿島との距離感がぼやけた。
「でも、自然死にはならなかったけど、黒澤道治は死んで、遺産だって無事黒澤俊治に入ったわけでしょ。方法はどうあれ、目的だった黒澤道治の殺害は達成したんですから結果オーライでしょ」
「残念だ。君の口からそんな言葉を聞くだなんて」
鹿島はため息をもらして憐憫の視線を水本に向けた。
「方法はどうあれ死んだのだから結果オーライ。そんないい加減な殺しを仕事と称するならわざわざ高い金を払って君に仕事を依頼しない。いい加減な仕事でいいなら安い中国人にやらせる」
延髄を十六文の足でガツンとやられたような衝撃が身体を貫いた。背中から生と欲に対する渇望が抜けていくのがわかった。ボディガードの一人が鹿島に耳打ちした。
「放っておけ。自分で自分を否定した殺し屋なんて相手にする価値もない」
鹿島は車に引き返していった。二人のボディーガードが後を追う。水本は脱力したままその場で立ち尽くした。
「長い付き合いだから今回のことはなかったことにしてやろう。また、仕事がしたくなったら連絡するんだな。その時、殺し屋として仕事をするのか、出稼ぎの中国人として仕事をするのかは自分で決めろ」
重厚なエンジン音を残して、鹿島の車が走り出した。強烈なヘッドライトとテールランプの赤色が、残像となって闇の中をいつまでも漂った。