8
情報屋が持ってきたリストの中から利用させてもらう相手はすぐに決まった。黒澤道治の妻が月に数回頼んでいる訪問介護業者だ。道治の妻、滋子は介護が必要なレベルではないが、年齢なりに身の回りの雑事をこなすのが大儀になっていた。エステにネイルにランチ会にと昼間ほとんど家にいない黒澤敏治の嫁には期待できない。そこで滋子は、金持ちほど金に細かい本性を丸出しにし、去年から家政婦よりも割安の訪問介護に来てもらっていた。滋子は介護員を二人頼み、時間いっぱいハウスキーパーとして利用した。本来の利用規約から外れる使い方だが、零細かつ苦しい台所事情を宿命づけられた介護業者が断れるはずない。呼ばれるままに黒澤家を訪問し、滋子の命じるままに家事をこなした。その作業は庭の草むしりからあの大型犬の世話にまで及んだ。介護業者からすれば厄介な話だが、水本にしてみれば監視を逃れて黒澤家で自由に動ける最適な環境といえた。
身分屋で入手した白石雅人の身分を使って介護業者に潜入するのは容易かった。ものの数分足らずの面接が済んだらその場で採用が決まった。介護業者はどこも猫の手も借りたい人不足である。身分がはっきりしていてまともそうに見えれば誰でも構わない。求められるまとものハードルも西部のならず者と見間違わないだけの身なりとすこぶる低い。
採用の翌々日から水本は、サンサン介護の一員として働き出した。介護の仕事は聞きしに勝る重労働だったが、これも仕事のためと歯を食いしばって堪えた。仕事柄体力にはそれなりに自信があったが、初出勤の翌日にはひどい筋肉痛に襲われた。SF格闘マンガのプロテクターみたいに湿布とサポーターで武装しながら働く先輩社員たちを見る限り、慣れでどうにかなるものでもないようである。そもそも、慣れるまで続けるつもりはない。
「仕事はどう」
現場に移動する車内で株式会社サンサン介護の先輩に訊かれた。とっさのことで、危うく本職の話をしそうになった。頭を水本から白石に切り替えて答える。
「まだまだ慣れないことも多いですが、先輩に助けていただきながらなんとかがんばらせてもらっています」
先輩は満足げに頷いた。悪くない回答だったようだ。
「まあ、慣れは続ければなんとかなることだから。僕だって始めは慣れないことばっかりで大変だったよ。社長は白石君に期待しているみたいだよ。社長はああ見えて人を見抜く能力が高いんだ」
でたらめの履歴書と他人の身分証を携えた男を雇い入れた人間が、人を見る目に長けているとは思えない。あんまり期待させるのも罪だからもう少し素行を悪くしようか。仕事が終わればサンサン介護は速やかに辞める。離職率の高い介護職だから新入りがすぐに辞めても不思議がられることはない。入りやすくて抜けやすい。介護職ほど訳ありの人間が身を寄せるのに適した仕事はない。
「僕も白石君には期待しているから。絶対辞めないでよ。うちは新しい子が入ってもすぐ辞めちゃうから、いつまで経っても僕が一番下でさ。そろそろ先輩面させてくれよ」
冗談めかして笑うと顔の筋肉に沿って細かい皺がくっきり浮かんだ。短く刈った頭には白髪が目立った。童顔で若く見えるがそこそこ歳はいっているようだ。
童顔先輩のまっすぐな笑顔を見ていると、自分でも意外なことに胸が痛んだ。
いつもより一時間早く起床し、昨晩済ませた仕事の準備を再度点検した。現場に行ってからあれが足りないという事態にならないよう入念にチェックする。道具に欠損がないかもう一つずつ確かめる。もちろん介護の道具じゃなく殺しの道具のことだ。
鞄に入れる順番や場所にも気を払う。適当に詰め込んで、緊急時に必要な物がすぐに取り出せないようでは困る。ただ、優柔不断なキャバクラ嬢の一泊二日熱海旅行の荷物じゃないので、使わない物はそもそも入っていない。そこで水本は、収納箇所と取り出し口が上部だけでなく側面や背面にも複数作られた特注のリュックを使用していた。慣れれば背負ったまますべての中身を取り出すことができる。使用するシチュエーションを想定し、どこに何を入れるか熟考する。詰め終わったリュックを背負って、淀みなく任意の道具が取り出せるか試す。うまくいかなければ、慣れるまで練習するか収納箇所を入れ替える。ここ数日、サンサン介護から帰ってくるとひたすら繰り返し、昨日の深夜やっと完成型をみた。仕事の成否を決めるのは、派手な射撃の精度やナイフ扱いの巧みさではなくこういう細かい準備である。
今日の二時から四時まで黒澤家で仕事の予定が入っている。
これはサンサン介護の仕事だ。
堂々と玄関からあがり、自由に黒澤家を物色することができる。老婆一人の監視などないに等しい。訪問介護業者として仕事をこなしながら黒澤家の間取りとターゲットである道治の寝室を確認し、侵入のために普段使われていない部屋の窓に細工を施す。それが済めば、仕事道具を手に改めて黒澤家を訪ねる。黒澤俊治とロスで話題の朝食に目がない若妻は、一昨日から仕事の出張と旅行を兼ねて北海道に行っている。仕事の決行日を鹿島に伝えて、家を空けてもらえるよう手を回してもらった。借りられない手ならない方がいい。黒澤俊治としても嫌疑をかけられる心配がなくなるので好都合だろう。
年老いた老人二人の広い洋館に潜り込み、寝込みを待ってターゲットに注射針を刺す。
水本好みのシンプルな計画である。
「今日の現場は介護っていうよりも雑用みたいな感じになっちゃうかもしれないけど気分を悪くしないでね」
黒澤家の仕事の同行者は童顔先輩だ。他のスタッフと仕事をしたこともあるが、ほとんどが童顔先輩といっしょだ。他のスタッフと仕事をするのも童顔先輩が別の現場に行っているからであって、童顔先輩自体はここ二週間休みなしで働き続けている。
「介護者の身の回りの世話以外の家事を依頼するのは、規約違反なんだけどね。どこかの会社の社長らしくてさ。金があれば何でもできると思っている。そういう勘違いをした金持ちってある意味憐れだよね」
勘違いしているのはお金持ちではなく暫定先輩の方だ。この世界はどうだかわからないが、少なくともこの国は金があれば何だってできるし許される。愛はもちろん健康や夢も金で買える。幸福に至っては金の同義語とさえいえる。この国で生きるということは、金に支配されて金のために命を消費していくということなのだ。ただ、憐れだというのは、童顔先輩の言う通りだ。
インターホン越しにサンサン介護の名前を名乗ると門扉の鍵が開錠された。頭上の監視カメラのレンズが水本と童顔先輩の動きを追ったが、顔を伏せる必要はない。サンサン介護の制服を着た水本は、出入り業者として招かれて入るのである。あとで確認されても不審な点は一切ない。それにそもそも今回の仕事は自然死として処理されるので、この防犯カメラの映像が照会されることはない。
門を潜るなりブルジョアの権化がけたたましく吠えたてた。耳を塞いで足早に通り過ぎる。
「毎回こうなんだ。まったく、飼い主が金持ちだと思って誰彼構わずうるさく吠える」
黒澤滋子は老舗企業の社長夫人を絵に描いたような人物だった。多年に渡る嗜好品の摂取により体型の割に頬肉が弛緩していた。丁寧な言葉遣いに反して向けられる視線は冷ややかである。髪の毛は見事な紫色に染められていた。
滋子がまず依頼したのが、庭の草むしりと二階の物置部屋の掃除だった。この二択なら誰でも物置部屋の掃除を選ぶ。夏の盛りにはまだ早いが、梅雨が残っている分余計に蒸し暑い。汗まみれで、あの犬に吠えられながら広い庭の草むしりをしたがる人間はいない。もちろん水本には物置の掃除を担当したい別の理由があった。
二階の物置部屋。
これほど潜入の細工を施すのに最適な場所はない。ここはどうしても譲れない。場合によっては経費を使っての買収もやむを得ない場面である。ただ、童顔先輩が楽な仕事を金で売り買いすることに乗って来るかどうかという心配はある。金の力を過信する愚か者扱いされて余計頑なになられたら厄介だ。
「じゃあ、僕が草むしりをやるから白石君は物置の掃除よろしく」
水本の覚悟と心配に反して、童顔先輩は自ら庭の草むしりを買って出た。
「いいんですか」
あまりに願ったり叶ったりの展開に思わず聞き返してしまった。
「いいよ、いいよ。僕の方が先輩だからね。それに、僕はどうもあの人が苦手なんだ」
童顔先輩は水本だけに聞こえるよう耳元に口を近づけた。
「ありがとうございます。先輩」
童顔先輩は満面の笑みを浮かべて、ゴミ袋と軍手を受け取り庭に出た。壁の向こうで犬がけたたましく吠えた。
「それじゃあ、あなた、お二階の掃除よろしく。階段をあがって右に曲がった突き当たりの部屋よ。何かあったら呼んでちょうだい」
滋子はリビング戻っていった。あの警戒心の薄さを見ると物置に金目のものはないのだろう。ますます潜入ルートに使うのに好都合である。
二階の物置部屋は、普段使わないものが一切合切詰め込まれていた。取り出すことを一切考えずに、パズルゲームの要領で隙間なく物が積み上げられている。窓は半分荷物で覆われていた。窓の鍵は旧式のクレセント錠だ。しばらく開け閉めされた形跡がない。水本はポケットに入れておいた工具を使って鍵を細工した。作業時間ものの一分足らず。こうしておけば、見た目には施錠されているように見えるが、外からすぐに開けることができる。ひとまず潜入の準備はこれで完了だ。
それから水本はおざなりに物置部屋の掃除を済ませると、部屋を抜け出し音を立てないように二階を詮索した。江戸川的洋館とは比べるまでもないが、外から見ていたよりも黒澤家の屋敷は広かった。趣味がいいとはいえない絨毯が敷かれた廊下の両側に扉が並ぶ。どの部屋にも鍵がかけられていた。介護業者の人間を信用するようなお人好しな連中ならこんなに広い屋敷を建てることはできない。しかし、水本にとっては内部屋の鍵程度はあってないようなものである。針金を加工した自前の仕事道具で鍵を開けた。
書斎や賓客用のベッドルーム、ビリヤード台が置かれた遊戯室と金持ちが住む洋館のイメージを裏切らない部屋が続く。黒澤道治の寝室は物置部屋と真反対の、階段を上がって左側の角部屋だった。他の部屋よりもひと際広く、南と東側に大きな窓がある。東向きの窓の外に、マロニエの木が枝を伸ばしていた。部屋の真ん中にプレスリー級のキングサイズベッドが置かれている。ベッドサイドのナイトテーブルでさえ、貧乏長屋の四人家族が夕餉を共にするちゃぶ台ぐらいの大きさがある。もちろんちゃぶ台とは使っている木材に雲泥の差がある。吸い込まれるような鈍い輝きを放っていた。マホガニーだかブビンガだかわからないが、とにかく水本が行くホームセンターでは見かけることのない高級な木材であることは間違いなかった。照明、椅子、寝具、どれも主婦なら一点だけで目の玉が飛び出るほどの高級品だというのは一目でわかったが、これだけ一同に会すと知性を感じさせなかった。寝室はその人の人となりを表す、という空き巣業界の格言があるが、それに照らし合わせれば、黒澤道治は知性を感じさせない成金趣味のじいさんというところか。
二階に滋子の寝室はなかった。滋子は一階で寝ているのだろう。長年連れ添った夫婦関係の冷え込みを嘆く必要はない。むしろ好都合この上なし。ビバ、仮面夫婦。こいつはいい風が吹いてきた。陸上競技なら追い風参考で公式記録扱いされないほどの強い追い風である。
追加で指示を受けたそこだけ純和風に設えられた桧の風呂場と経営者らしく壁にドアに所狭しと格言の貼られた便所の掃除を済ませると介護の仕事は終わりとなった。作業完了の報告を受けた滋子は、労いの言葉やお礼を口にするどころかこちらを振り返ることもなく、膝関節の痛みには魚由来のグルコサミンが効くという情報番組を観ながら手で屋敷から出ていくよう伝えた。
「おじゃましました」
あとでまたおじゃまします、と心の中で呟いて玄関を出た。そして、童顔先輩といっしょにブルジョアの権化にこっぴどく吠えられた。
「僕はこれから事務所に帰って事務仕事をするけど、白石君は今日はこれでもう終わりだからこのまま帰って大丈夫だよ」
まだ入社間もない水本は、夕方の現場が終わるとたいていそのまま家に帰らせてもらえる。社長の指示ではなく童顔先輩の気遣いだろう。現に他の先輩と現場を回ったときは、社長に挨拶しないと帰ってはいけないと言われて「今日はこれで帰らせていただきます」の一言を社長に伝えるためだけに事務所に戻らされた。
「白石君って家はどの辺なの。会社の車で近くまで送ってあげるよ」
毎回訊かれるがさすがに正直に答えるほど殺し屋は不用心ではない。
「いえ、ここから一番近い駅で降ろしてもらったらそこからは電車で帰るから大丈夫ですよ」
「いつもそう言うけど、ほんとにいいの? あっ、白石君って案外鉄道オタクだったりして。それなら電車で帰りたいよね。でも、もし僕が先輩だからって遠慮しているんだったら、そういうのなしでいいからね。僕と白石君とはフランクな間柄でいこうよ。僕はやっと仲良くできる同僚ができたと思っているんだ。正直な話、あの職場にいる人たちって、別に介護の仕事がしたいんじゃなくて他に雇ってもらえる場所がないからやっている人ばっかりでしょ。時間が過ぎることだけ考えて仕事をしている。でも、白石君はそうじゃない気がするんだ。ちゃんと目的があってこの仕事をしている」
買い被りすぎだ。確かに目的はあるが、謙遜ではなく心底誉められた目的ではない。
「そんな立派なものじゃないですよ」
三叉路の信号待ちで童顔先輩が訥々と身の上話を始めた。
「僕は、前職でシステムのプログラマーをしていたんだけどね。プログラマーって、名前は偉そうだけど、実際にやっているのは、朝から晩までひたすらパソコンのキーボードを叩き続ける肉体労働なんだ。そうやって完成したシステムが、本当にお客さんの役に立っているのか確認する機会はない。プロジェクトが終われば次のプロジェクトが始まり、また朝から夜遅くまでディスプレイに並ぶソースコードを追いかける。あるとき思ったんだ。これって、毎日意味のないレポートを書かせて退職に追いやる追い込み部屋とどこが違うんだって。そして僕は、プログラマーを辞めてお客さんの顔が見える仕事を選んだんだ。お客さんに喜ばれるのはもちろん、不満を言われたり怒鳴られたりしても不思議と楽しいんだよね。だって、自分の行動が誰かと繋がっているって素敵なことじゃないか」
個人の考えだからとやかくは言わない。ただ、水本には共感のできない話だ。これまで誰かのためにという想いで仕事をしたことはない。仕事だからやるのだ。与えられた仕事を滞りなくやり遂げる。そして、対価として報酬を手にする。仕事なんてそんなものだ。そんなもので構わない。
駅前のロータリーで車を降ろしてもらった。駅は学校帰りの高校生で賑わっていた。高級住宅街にある高校に通っているとはいえ、高校生は高校生である。太平洋沿岸の夕立を一カ所に集めたような騒がしさである。水本は童顔先輩の運転する車が見えなくなるまで見送って改札を潜った。
部屋に帰った水本は、まずシャワーで汗を洗い流した。ほとんど水のシャワーを頭からかぶりながら仕事の段取りをシミュレーションする。実際に現場で確認してきた情報を整理して仕事の手順を組み立てた。下見ができたのは大きかった。侵入経路、ターゲットである黒沢道治の居場所、寝室の作りから黒沢家の導線まで、頭の中で正確に描き出せた。計画のすべてが今や水本の手の中であった。
大丈夫。この仕事はうまくいく。
念のためにインターネットで今日これまでのニュースを調べた。仕事に支障を及ぼすような事件は起きていない。
仕事着に着替えると、たっぷり時間をかけてタバコを一本吸った。これから仕事を終えるまでタバコを吸う機会はない。
日は大きく西に傾いているがまだ明るい。仕事を実行するのは真夜中の予定だが、足がかりとしての侵入は夜になる前に済ませておきたかった。
さっき乗り継いだ電車を今度は反対方面に乗り継いだ。駅から洋館までは少し距離があったがタクシーは使わずに歩いた。道の入り組んだ住宅地を走るタクシーは目に付きやすい。そのタクシーから近隣で見かけない顔が降りてくれば、日常に飽いて金魚すくいほどの刺激でさえ身を打ち振るわせかねない有閑マダムたちなら、心の不審者アルバムに保存する。
黒沢家の洋館にたどり着いた水本は、計画通り洋館裏側の塀をよじ登った。正面玄関に貼られたセキュリティ会社のホームセキュリティは、夜間と長期不在時のみしか作動しない。よくあるパターンだ。情報屋に追加料金を支払って契約内容を調べさせた。空き巣の多くが日中を狙い、家人の在不在に関係なく仕事をしているというのに、就寝時と不在時以外は自力で防犯できると過信しいているのだからヘソで茶だ。現にこうして、通販番組に夢中になっている隙に殺し屋の侵入を許している。
窓の細工はそのままになっていた。外側から鍵を開け、あっという間もなく窓から物置部屋と身体を滑り込ませた。
あとはここで、夜が更け、黒澤道治と滋子が寝静まるのを待つだけだ。
水本は物陰に隠れてじっと息を殺した。
殺し屋の仕事は派手なものではない。準備を怠らず、仕事のタイミングが来るのをひたすら待ち続ける。そして、チャンスがくれば、速やかに正確に仕事を実行に移す。それだけだ。
空が夜に覆われると部屋から色が失せた。窓から差し込む仄かな月明かりが、部屋に積まれた不要品の輪郭をぼんやりと映し出す。水本はじっと自分の手の陰を見つめて時間が過ぎるのを待った。
九時すぎに黒沢道治が帰ってきた。道治は自宅だというのに大声で話した。老人らしく嗄れていたが、声量は大戦を前にした結党演説さながらである。そういえば、前に手をかけた中小企業の二代目社長も声がでかかった。二世議員の薮田も声がでかい。日本式の帝王学には、横隔膜を鍛えて地声をでかくするというカリキュラムがあるに違いない。道治は階段を上がってきて二階にある書斎に入ったが、三十分もしないで再び階下に降りた。次に道治が二階に上がってきたのは夜中の一時前だった。
深夜まで元気なじいさんだ。もうすぐ、じいさんだった、と存在自体が過去形になる。
水本は寝室に入った道治が眠るのを待った。寝室にはワインとグラスが置いてあった。寝る前に飲む習慣があると考えておいた方がいい。二時間は余裕を見るのが安全だ。
水本は仕事の実行を三時に定めた。
物置部屋に潜入して既に六時間以上が経過している。もう窓に月明かりさえ届かない。目の前に広がるのは輪郭のぼやけた薄闇だけである。仕事鞄から暗視ゴーグルを取り出してかけた。公園に潜む出歯亀なら泣いて喜ぶ高性能品である。ただ、値段を聞いたら出歯亀は喜びを引っ込めてただただ泣くことだろう。長時間同じ姿勢をとっていたせいで固まった関節と筋肉を伸ばしていく。仕事の時間が刻一刻と近づいてくる。
三時になった。
水本は全神経を耳に集中させた。物音は聞こえない。屋敷全体が夜と同化したように静まりかえっている。音をたてないように物置部屋から滑り出た。廊下の電気は消されていたが高性能暗視ゴーグルのおかげで視界ははっきりとしている。水本は慎重な足取りで道治の寝室に向かった。
そのとき、どこかからボーっという低い音が聞こえた気がした。足を止めて音の出所を探った。
書斎からぴきっと鈍い音がした。
この音は、焼き破りの音だ。
誰かが書斎の窓を焼き切って屋敷に侵入してきたのだ。
程なくして書斎の扉が開いた。水本は床に伏せて息を殺した。部屋から出てきたのは道治でも滋子でもない、黒ずくめの男だった。その格好は水本とほとんど変わらない。水本は腹の底で古今東西の罵りをアナウンサー試験の早口言葉並のスピードで連呼した。
黒ずくめの男はまっすぐ道治の寝室に向かった。水本は男の背中を追った。ケチな空き巣に荒らされてしまうと自然死を装う計画がすべてパーだ。鞄に手を入れてロープを掴んだ。絞殺なら痕跡を残さず排除できる。
あと一歩で手が首に届くという距離まで近づいた瞬間、黒ずくめがおもむろに振り返った。
水本と同じ暗視ゴーグルを付けていた。かといって、のんきに暗視ゴーグルの性能と価格の高さを共感し合う状況ではなかった。黒ずくめは手にしたサバイバルナイフを水本の心臓めがけて突き出した。水本はなりふりかまわず横っ飛びに転がって刃先を避けた。サバイバルナイフの刃は避けた水本の肩口を抉った。焼けるような痛みが傷口を襲った。
ただの空き巣じゃない。迷いなく急所を狙ってきた。
黒ずくめは水本に追い打ちをかけることなく寝室のドアに手をかけた。ドアはすんなりと開いた。黒ずくめは水本を振り返り唇の端で笑った。昼間の細工が裏目に出た。
血痕を廊下に残さないよう傷口を押さえながら黒ずくめのあとを追った。寝室に入ると、変事におののき逃れようとする黒澤道治に黒ずくめがロス市警愛用のスタンガンを押し当てたところだった。青白い閃光が弾ける。道治は断末魔の叫び声をあげてベッドから転げ落ちた。その拍子にナイトテーブルのワイングラスが床に落ちて砕けた。
騒ぎに気づいた滋子が一階の寝室から起き出してきた。
「あなた、どうかしたんですか」
階下から呼びかける。回答はない。回答するべき人間はスタンガンで気を失っている。滋子は尚も「何もない」という言葉が帰ってくることを願って呼びかけ続ける。
黒ずくめは昏睡状態の黒澤道治を肩に担いだ。
連れ去ろうというのか。いったいこいつの目的は何だ。タンス貯金や貴金属でないのは明らかだ。
緊急事態用に入れておいた小型ボウガンを抜き出した。影に照準を合わせて引き金を引く。もう、血痕を気にしている場合じゃない。矢は黒ずくめの肩に深く突き刺さった。黒ずくめの肩から道治が転げ落ちる。短いうめき声を漏らしたが意識は戻らなかった。
「たまぁだびい」
黒ずくめは何かしらわめきちらした。興奮のせいか言葉になっていない。
「あなた、大丈夫ですか?」
滋子の声が近づいてくる。
「つぁお」
黒ずくめはサバイバルナイフを道治の背中に突き立てた。黒澤道治は一度びくんと仰け反って脱力した。黒ずくめは足で道治の絶命を確かめると寝室の窓を叩き割って逃げていった。ホームセキュリティのアラームが屋敷に鳴り響いた。
もう完全にアウトだ。自然死どころか誰が見ても殺人事件だ。
水本は道治の背中に刺さったままになっていたサバイバルナイフを抜いた。いったいあいつは何者だ。同業者とは思えない。殺し屋なら決して凶器を現場に残すようなことはしない。
「あなた、入りますよ」
寝室のドアが恐る恐る開けられた。水本は急いで割れた窓から飛び出した。マロニエの枝に絡まりながら庭に転がり落ちる。背後で滋子の叫び声が弾けた。