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ジョブチェンジ  作者: アンドロメダ亭X
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 黒澤道治の殺害を請け負った水本は、早速仕事の準備に取りかかった。指定された仕事の期限はいつもより短い。

 マッシュと呼ばれる男の店で、取り置きしておいてもらった薬物を購入する。予備と予備の予備として三つ買っておく。この仕事では生半可な不測の事態は認められない。停電は当然として自然災害でさえ許されない。近隣の電気工事のスケジュール、天気予報、台風情報、活断層の有無、緊急避難場所を調べ、対応の仕方を想定しておかなければならない。毒薬の成分が変質していたために効かなかったという言い訳は到底通用しない。効かなければ効く毒薬を再度盛る。効くまで盛る。いかなる不測の事態にも対応できるだけの準備が求められる。

 水本の場合は凶器の予備は二つ、それ以外の道具の予備は一つと決めている。それで足りなくなるような技術なら仕事を辞めてしまった方がいい。それに保険をかけ出せばきりがなくなる。ある殺し屋は、予備の予備の予備の予備の予備のとエスカレートしていき、いつしか富士登山に出かけるかのような大荷物で仕事を行うようになった。結局その殺し屋は、深夜の繁華街を冬登山用の大型リュックを前と後ろに二つ担いで歩いているところを警察に職務質問されたのをきっかけにこの業界から足を洗った。

 予備の道具はたいてい使うことなく捨ててしまう。物によっては次の仕事に使い回せないこともないが、この業界には仕事道具にはターゲットの怨念が籠もるというジンクスがあり、バールやピッキング道具のような基礎道具以外の消耗品の類は仕事の度に新品を買い揃えるのが通例となっている。

 この慣習が経費が膨れる一因である。きっと中国系の殺し屋は擦り切れてぼろぼろになるまで同じ道具を使い回すことだろう。ターゲットの怨念うんぬんなんて非科学的な迷信なのはわかっている。しかし、長年担いできた験を降ろすとなると、悪い予感がどこからか忍び寄ってきてケツの穴付近をぞわぞわとさせる。出費は抑えたいが、悪い予感と取っ組み合ってまでジンクスの正体を暴く気にはならない。きっとマーフィー氏も薦めないだろう。悪い予感というのは高確率で的中してしまうものだ。

 仕事毎に道具を廃棄する理由はジンクスばかりではない。劇薬や拳銃といった所持しているだけで法に触れる物を長く手元に置いておくと警察にたれ込まれる恐れがある。競合相手を蹴落とすために警察にチクる同業者は少なくない。妬みという漢字の左側は、女じゃなくて男の方がふさわしいと思わされるようなできごとがこの業界では日常茶飯事だ。住む世界が住む世界なので、靴を隠すや悪評を流すという法定速度内の嫌がらせ行為はない。妬みによって血の雨が降り、パトカーのサイレンが鳴り響く。幸か不幸か長く仕事を続けているが、水本は周囲から妬まれるような大仕事とは無縁である。おかげで同業者にはめられて血を流すことも塀の向こうに落とされることもない。しかし、どこで誰がビニルハウス式の促成栽培で妬みの種を育てているかわからない。隙を与えないよう用心にこしたことはない。

 無許可営業のヘルスが集まるマンションの一室で、今回の仕事に使う名前を仕入れた。仕事の前に縁もゆかりもない人物の身分証を入手し、仕事の間はその人物として生活する。他人として動けば万が一の際にも捜査線上に浮かび上がるのは、自分ではなく金で身分を買った第三者である。

 ファイルから適当な人物を探す。

「こいつは前科なしか」

 今回の計画では、犯行後の保険としてではなく実際に誰かの身分を使って仕事を進める必要がある。そうなるとあまりに自身とかけ離れている人物の身分では用をなさない。その上、軽く叩いただけで埃が立つようでも困る。平日の昼間に市民生活を送れるだけの健全な人物でないといけない。

「真っ白。保証しますよ。でも、借金はたんまりありますけどね」

 この人物の身分がどういう事情でこのファイルに綴じられることになったのか容易に想像できた。

 金銭の関わることに使うことはないから借金は気にしなくていい。そりゃ恋人の両親に紹介されても安心の清廉潔白な身分が理想だ。しかし、そうなると値段がぐんとあがる。費用対効果を考えれば。この辺りが頃合いである。

「じゃあ、こいつにする。免許証は正規品をつけてくれ」

 偽造に比して正規品は価格の桁が一つ違ってくる。ただ、今回の計画では身分証明書として免許証は必須になるので背に腹は替えられない。

「買い取りですか」

「バカ言うな。仕事が終わったら返しに来る」

 身分を買い取るには、以降その人物の身分で商売できなくなることで失われる予定売り上げ分を購入者が負担しなければいけない。吉原の水揚げ代と同じである。火葬炉に片足つっこんだじいさんの身分ならまだしも、これからいくらも利用価値のある三十代の身分となるといくらかかるか想像しただけで寝付きが悪くなる。

「わかってますよ。下手打って高飛びするようなことがあれば、是非うちで買ってくださいね」

 戯れ言ではなく、冗談めかした身分屋の本音である。身分屋の本業は買い取りだ。身分の貸し出しは、小銭を稼ぎながら見込み顧客との顔を繋いでおくついでの商売でしかない。それまでの人生を捨てたい、もしくは捨てなければいけない人間に新しい身分を提供する。新しい人生へのパスポートなのだからもちろん高額である。命に等しい商品だ。家やマンションより安いはずがない。それでもそれ以外に生きる道がない人間に選択肢はない。身分屋はそういう客に対して割の悪いローンを組ませて身分を売りつける。そして、少しでも返済が滞れば実力行使で身分を取り返す。その身分をまた別の藁にも縋る誰かに売りつける。できればお世話になりたくないビジネスモデルである。

 身分屋をあとにした水本は近郊のホームセンターを巡った。殺し屋の仕事道具の多くはホームセンターで調達できる。複数の店を回るのは、価格比較はもちろん購入店を分散させることで捜査の的を絞らせない狙いがある。

 毒薬を買って身分証を仕入れてからホームセンターに来ると、良心的な価格設定にほっとする。良い物を安く。企業努力が伺えてすばらしい。

 水本は店をぐるりと一周した。店内に同業者は三人とみた。

 縄、ロープコーナーで素材と太さの違う商品を片っ端から手に取り、強度と手触りを確かめている若者はまず間違いない。ロープを選ぶときに手にした際の感触を重視するのは、この仕事に携わる人間しかいない。何を買うでもなく足取り軽く店内を見て回っている男もおそらく同業者だろう。ウインドウショッピングを楽しんでいるのだ。殺し屋にとってのホームセンターは、社長令嬢にとっての銀座三越、マイルドヤンキーにとってのショッピングモールに匹敵する。さっきすれ違ったハンチング帽の男も怪しい。砂丘に紛れた油揚げみたいに地味な服装をしているが、平日昼間のホームセンターに買い物に来る一般市民とは纏っている空気が異なる。

 ハンチングは、冷却スプレーと小型のトーチバーナーをカゴに入れてレジに向かった。

 訂正、この店にいる同業者は二人だ。ハンチングは同業じゃなくて空き巣だ。

 バーナーと冷却スプレーでガラスを焼き破る侵入方法は空き巣の定番である。冷却スプレーで冷やした部分にバーナーの火をあてれば、大抵のガラスはものの十数秒で割れる。音もほとんど鳴らない。あのトーチバーナーはジャケットの胸ポケットに収まるコンパクトサイズながら火力は申し分ない。水本も空き巣稼業のころよくお世話になった。

 懐かしさに誘われてトーチバーナーを手に取ったが、カゴに入れずに棚に戻した。

 使い勝手のいい裏家業モンドセレクション金賞の優れものであることは間違いないが、今回の仕事では使えない。

 使いそうなものと使えそうなものと使ってみたいものをカゴいっぱいに詰め込む。一つ一つの値段はしれているが、これを三軒に渡ってやれば総額はなかなかの金額となる。仕事の経費が嵩む一因がこの無駄遣いだ。

 わかっちゃいるが止められない。備えあれば憂いはなくなり、買い物は快楽に直結する。どんな仕事に携わる人間にも息抜きが必要だ。

 せめてもの経費削減にガムテープを布から紙に変えようかと少し迷ったが、結局布の強度と千切るときの感触が捨て難く、棚に並ぶだけのガムテープ(布)をカゴに入れた。キャバクラ嬢がメンソールのタバコをブランド物のケースに入れるのやシングルになかなか手が届かないおじさんゴルファーがドライバーに自己主張の強いカバーをつけるのと同じことだ。お気に入りの道具でも作らないとモチベーションを維持できない。

 道具が揃えば次は下見だ。

 黒澤家が住む洋館は、水本の想像とは大きくかけ離れていた。白を基調としたシンガポール辺りにありそうな瀟洒な建物だった。江戸川的なまがまがしさとは無縁である。蔦が屋敷を飲み込むように生い茂るわけでもなければ、不吉の使者であるカラスがからくりを施された時計台の上を旋回していることもない。おそらく地下室に出生から秘匿とされている双生児がひそんでいることもないだろう。

 至って健康的かつブルジョア的な洋館だった。

 門扉の横には本来なら競合するはずのセキュリティ会社のシールがずらりと並んでいた。複数台のカメラが監視している。熱と動きを感知して監視対象を追尾する高級品だ。庭にはブルジョアの権化のような大型犬が繋がれていた。獰猛かつとにかくでかい声で吠える犬種だ。

 古典的な対策だが番犬は侮れない。監視カメラやオートロックよりずっとやっかいだ。王国を作るほどの動物愛がない限りは、犬と意志の疎通を計ることは難しい。デジタル製品と違って、どういう動きをするか読めない。仕事をする上で不確定要素は極力排除しなければいけない。いっそ殺してしまえば簡単なのだが、たとえ犬であろうと当主の死と同日に死んだとなると不自然な印象を与えかねない。今回の案件は自然死が必須条件だ。疑念が入りこむ余地を与える方法はとれない。

 そうとなれば、正面からの侵入は諦めるしかない。水本は洋館の周りをぐるりと一周した。ニットキャップを目深にかぶって赤ふんひと締め、いわゆる頭隠して尻隠さずへの期待は脆くも崩れた。ボクサーパンツの上にコーデュロイのパンツ着用の隙がないセキュリティ体制である。金をかければ無力化可能な防犯ばかりだが、痕跡を一切残さないとなるとできるかどうか。

 こういうときに、役に立つかは眉唾だが頼らざるを得なくなるのが情報屋である。

「新しい仕事を頼みたい」

「毎度おおきに。助かります」

 携帯電話のスピーカー越しに揉み手をする情報屋の姿が透けて見えた。揉み手をする殺し屋を見たことがないのに反して、揉み手をしない情報屋を聞いたことがない。

「その前に、前回依頼した仕事の件だけど、いつからあんないい加減な仕事をするようになったんだ」

「あら、ほんまでっか。そりゃご迷惑おかけしました。実は心配してたんですわ。と言いますんも、あの仕事を任せてたメンバーの一人に新人がおりましてな。どうもこいつがええ加減な奴やったんですわ。いや、おたくさんの次に任せた仕事でわかったんです。だから、もしかしたらおたくの仕事でもええ加減な報告しとったんちゃうかと心配してたんですわ。やっぱり、やらかしてましたか。えろう、すんまへん。本人を煮るなり焼くなりしてもろて結構です。と言いたいとこなんですが、そのことでちょっと叱りつけたらどっか行ってまいよったんですわ。まったく最近の若い奴は無責任でっせ」

 仕事のいい加減な新人がよく入る組織だ。毎度毎度、いい加減な新人が仕事をミスし、こちらがクレームを入れるころにはいなくなっている。水本とは比較にならない危険な相手を前にしても同じ言い訳で煙に巻いているのだろう。それくらい心臓が毛深くないと情報屋は務まらない。

「前回のあの金額やと、どうしても下に任せんとあかんのですわ。もちろん値段に合わせて手を抜いとるってわけやおまへんで。せやかてうちも商売ですさかい、価格にあった体制を取らなあきまへんのや。もう少しもらえたらワテが責任もってやりますさかい安心してください。で、どんな依頼でっか」

 水本は情報屋に依頼する仕事内容を伝えた。情報屋に頼むのは、黒澤家に出入りする人間、業者を一人残らず調べることだ。

「お安い御用でっせ」

 と言っておきながら、主婦目線では到底お安いとは言い難い金額を提示してきた。水本は頭の中で電卓を叩いて渋々了承した。

「支払いはいつもと同じく報告から一週間以内でお願いしまっせ」

 情報屋からの報告が仕事の役に立とうが立ちまいが、もっといえば仕事自体の成否に関係なく、情報を受け取った時点で支払いの義務が発生する。殺し屋と違っていい商売である。十八歳に戻れるなら高取ではなく情報屋に師事したい。

 仕事道具を揃えて情報屋への発注も済ませた。このあと万が一、黒澤道治が病死するようなことになれば、これまで使った金がすべてパーになるのだ。やはり前金なしの仕事はリスクが高い。近所の稲荷大社に黒澤道治の健康を祈願にでも行こうか。自分が殺害する相手の健康を願うというのもおかしな話だが、おかしなことをしたくなるほどの金を既に使っているのだ。

 情報屋からの報告は約束の期日よりも早く来た。夕飯の買い物から帰って来てポストを覗くと宛名も差出人もない封筒が投函されていた。部屋に持ち帰って封を切った瞬間に携帯電話が鳴った。

「おばんです。無事受け取らはりましたか」

 偶然ではない。どこかから水本のポストを監視していたのだ。情報屋は依頼相手であろうと直接顔を合わせない。依頼人がいつ情報収集対象になるかわからないから自分の顔を知られないようにするためだ。流暢な関西弁が水本用に作られたキャラクターだとしても驚かない。別の依頼人に対してはきれいな山の手言葉を使っていてもおかしくない。そこまでするのが情報屋だ。

「早かったじゃないか」

 封筒の中には分厚い報告書が入っていた。ぱらぱらとページをめくる。一目見ただけでお座なりなやっつけ仕事じゃないことはわかった。

「本気出したらこんなもんですわ」

「毎回本気を出してもらいたいものだ」

「そりゃもう金額次第で」

 報告書には黒澤家に出入りする人物や業者の子細が記されているだけじゃなく、次回の訪問予定日時まで書き込まれていた。この中から頃合いの人物を捜して利用させてもらう算段だ。

「ほな、入金の方よろしくお願いしまっせ」

 また持ち出しが増えた。稲荷大社への祈願のおかげか今のところ黒澤道治が病に倒れたという情報は入っていない。

「それはそうと、今回の仕事はどういう内容ですねん。黒澤道治やけど、ありゃただもんやないで。黒澤建設資材もただの資材屋やないで。ちょっと調べただけでやばい話がごろごろ出てきよる」

「おいおい、情報屋。オレが頼んだのは黒澤家に出入りする人間のリストだ。そして、その報告はしっかりと受け取った。入金も期日までに済ませる。これで仕事は完了だ。余計なことには深入りしなくていい」

 黒澤道治や黒澤建設資材の裏の顔がどれほどの悪相であろうと水本の仕事には関係ない。水本の仕事は、黒澤敏治が親子ほども離れた若妻と海外で悠々自適な生活を送るために、黒澤道治を自然死に見せかけて殺すだけだ。それ以外のことに首を突っ込んで面倒に巻き込まれるのは御免だ。ただでさえ、鹿島が異常な執着を見せている時点でイヤな予感が漂っているのだ。これ以上不安要素が見えてくると夜もおちおち寝られなくなる。目を閉じて耳を塞いで、余計なことは無関係を決め込むに限る。


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