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ジョブチェンジ  作者: アンドロメダ亭X
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6

 新しい仕事の話があると呼び出されたときから悪い予感はしていた。そのころ仕事を回してくれていたボディローションの替わりにラードを風呂上がりに塗っているとしか思えないほど脂ぎったオヤジが、妙によそよそしく「悪い話じゃないから」と繰り返して、それまで入ったことのないいつもの店のVIPルームに水本を連れて行った。部屋は明日にでもラストエンペラーを招聘しようとしているかのような内装で飾られていた。趣味がいいかは置いておくとして度を越して華美であることは間違いなかった。脂ぎったオヤジと二人でしばらく待っていると、小柄で浅黒い男が部屋に入ってきた。脂ぎったオヤジは直立不動で額から大粒の汗を噴出させた。「金を借りてでも虎の威を借る」が座右の銘である脂ぎったオヤジがここまで緊張するということは、相当にこの世界で力を持っている人間に違いない。男は全身から尊大な気配が滲ませていた。背は高くないが、胸板は全盛期のデトロイトで造られたアメリカ車並みに分厚かった。年齢は三十代か四十歳になっているのか。まだ十八歳の水本には大人の年齢を見極める能力がなかった。さすがに脂ぎったオヤジより年上ということはないだろう。といっても脂ぎったオヤジが幾つなのかも知らなかった。

 男はソファーに深々と腰を降ろした。水本と脂ぎったオヤジは立ったままだ。脂ぎったオヤジは男に向かって、いかに水本が仕事を誠実にこなすか人物かというのを嘘たっぷり隠し味に真実をパッパというレシピで説明した。男は聞いているのか聞いていないのか、表情ひとつ変えず相づちも打たなかった。

「おまえが水本か。活躍の噂はいろいろと聞いている。随分と威勢が良いらしいじゃないか。若いうちはそうじゃないとな」

 油の切れた工業用機械のような不穏な声だった。男は胸ポケットから取り出した物をテーブルに置いた。

 拳銃だった。

 ここは胸ポケットから拳銃が出てきても何ら不思議ではない世界である。しかし、実際に目の前にすると、その暴力的な存在感に圧倒された。

「最近うちのシマに行儀の悪い中国人がしゃしゃり出てきていて迷惑している。全面的に事を構えるつもりはない。ただ、舐められるわけにはいかないから、挨拶されればきっちり挨拶を返さなきゃいけない。わかるだろ」

 正直なところわからなかったが、男の迫力に押されて頷いた。

「宋春平って三下がうちのシマで勝手に商売を始めやがった。わかるだろ」

「その宋なんとかって奴に仕事を止めさせたらいいんですか」

 この銃は脅しに使うということだろう。きっとそうに違いない。と思いたい。

「まさか。そんなわけがないだろ。宋春平には、死んでもらう」

 安っぽいアニメの演出みたいに最後の六文字が頭の中でリフレインされた。

「心配することはない。手はずはこちらで整えてやる。おまえがやるのは拳銃の引き金を引くだけだ。水鉄砲で遊ぶのと大差ない」

 男は満面の笑みで拳銃を水本の手に握らせた。始めて手にした拳銃は、月並みだが、実際の重量以上にずしりと重かった。

 VIPルームを出たところを呼び止められた。誰かと思って振り返ると高取が立っていた。脂ぎったオヤジは高取を見るなり悲鳴をあげて逃げていった。水本はジーンズの尻ポケットにねじ込んだ拳銃を気づかれないよう身体を捻った。

「貧乏くじを引いたな」

「な、なんのことっすか」

 十八歳のガキにすっとぼけるだけの胆力があろうはずない。目はバタフライで泳ぎ、言葉は声帯の隅っこでしどろもどろにビバークした。

「鷹尾に何を指示された」

 あの男が鷹尾か。鷹尾の名前は知っている。この辺りを取り仕切っている広域指定暴力団亀田組の幹部だ。泣く子も黙るや血も涙もないといったありがちな肩書きを欲しいままにする武闘派である。

「べべべ、別に何もないっすよ。すいません、急いでいるんで」

 鷹尾からの依頼となれば失敗は許されない。内容が内容だけに失敗すれば水本の命が危うい。敵か味方かわからない相手に軽々しく教えられるはずがない。

 水本はそそくさと立ち去ろうとした。高取の腕が伸びてきて水本の右腕を掴んだ。次の瞬間には抵抗する隙もなく、右腕を後ろ手に決められて壁に押しつけられていた。

「死にたくなかったら教えろ」

 首筋にナイフが突きつけられた。手際の見事さと淡々とした動作が、はったりじゃないことを物語っていた。

「わかりました。教えます。教えます」

 どうせ殺されるなら少しでも先延ばししたい。

 水本は頸動脈にナイフの刃を向けられたまま鷹尾とのやりとりを洗いざらいしゃべった。

「なるほど。そりゃとんだ貧乏くじだな」

 高取は笑いながら水本の右腕を捻り上げていた力を抜いた。首筋からナイフの刃が離される。水本は安堵で小さい方を湿らす程度に漏らした。

「鷹尾の考えそうな話だ。あいつは乱暴なだけじゃなく悪知恵も働く。どこの世界もああいうのが出世するんだろうな」

 悪知恵を働かした部分がわからない。シマを荒らした見せしめに殺す。小細工抜きのど真ん中直球勝負じゃないか。

「宋春平なんて中国マフィアは存在しない。強いていうなら宋春平はおまえだ」

 こんがらがっていた話が霧に包まれて全く見えなくなった。

「案外、勘が悪いんだな。鷹尾がおまえにした話は真っ赤な嘘だ。最近、鷹尾のシマに中国系マフィアが進出してきているというのは確かだ。ただ、鷹尾が迷惑しているというのは大嘘だ。鷹尾は奴らと裏で繋がっている。鷹尾は自ら中国マフィアを自分のシマに引き入れている。もちろん親筋に当たる亀田組には内緒でな」

「なんでそんなことをするんですか」

「中国マフィアの力を使ってのし上がるために決まっているだろ。ヤクザの関心事は三つだけだ。網タイツを履いた女とワニ革と出世だ。出世を妨げるものがあれば、他人の力を借りてでも排除する。それが正しいヤクザだ。しかし、機が熟す前に問題が発生した。鷹尾の怪しい動きを嗅ぎ取った亀田組が探りを入れてきたというわけだ。中国マフィアとの関係がばれるわけにはいかない鷹尾は、言われたとおりに中国マフィアの一人を見せしめとして殺す」

「それが、宋春平ってことですよね」

 宋春平はおまえだ、という言葉が蘇った。

「手はずが整ったと告げられたおまえは、鷹尾に言われるまま宋春平のアパートを襲う。しかし、そこで待っているのは睾丸マッサージの仕事から帰ってくる恋人を待つ中国人ではなく、拳銃もしくは鋭利な刃物を構えたプロだ。素人のおまえがプロの相手になるはずがない。争うまでもなくおまえは殺される。鷹尾が整えた手はずは、おまえの顔写真と宋春平という名前の入った身分証の偽造ってわけだ。これで鷹尾も中国マフィアも損害を出さずに亀田組からの牽制をかわすことができる」

 みるみると血の気が引いていく。ポケットに入った拳銃の重さに耐えきれず崩れ墜ちそうになった。

「どうして、そこまでわかっているんですか」

「オレも鷹尾から仕事を依頼されたんだ。指定されたアパートにみすみす殺されにやってくる宋春平役のバカを殺せってな」

 にやりと笑って一端納めたナイフの刃先をちらつかせた。殺意は感じなかったが安心はできない。日常の延長線上で人を殺せるのがプロだ。

「安心しろ。ここでは殺さない。オレの仕事はおまえを殺すことではなく、宋春平に仕立て上げられた人間を殺すことだ」

 硬直して動けない水本の肩をナイフの柄で小突いた。

「とことん勘の悪い奴だな。それとも存在しない中国人にされて殺されたいのか」

 水本は外国人助っ人への初級にど真ん中のストレートを要求するキャッチャーのサインに返すよりも素早くかつ頑なに首を横に振った。花粉症気味で緩んだ鼻汁が、鼻と唇との間の溝の部分に垂れたが振り続けた。

「なら、おまえが別の奴を宋春平に仕立て上げて始末するんだな。鷹尾が望んでいるのは、宋春平という中国マフィアが殺されて亀田組に自身の潔白を証明することだ。宋春平が誰でも構いやしない。調子に乗っているガキの予定が脂ぎったオヤジに替わっても何も言わない」

 脂ぎったオヤジの顔が頭に浮かんだ。あの男は世話を焼くふりをして上前をはねることを生業にしている。自己紹介のときは自分の名前の前に「誰々にかわいがってもらっている」や「どこそこ会と懇意にしている」という前置きをつける。前世はプランテーション農場で奴隷をこき使う地方の小役人だったに違いないと陰で言われている。人徳はない。人脈も本人が吹聴するほどはない。出世の目はそれ以上にない。いわば業界底辺の鼻つまみ者だ。しかし、水本は嫌いじゃなかった。あれほど己の欲に素直でありながら欲にうだつの上がらない人間はそうはいない。しかし、自分の命と天秤にかければ、相手方に楽しい実験分銅セット一ダースのハンディをやろうと結果は歴然としている。

「死にたくなけりゃ、おまえが宋春平をヤルことだ。仕事の仕方はオレが教えてやる」

「お願いします。是非。是非」

 深々と頭を下げる。これほどちゃんと腰を折って頭を下げるのは、幼稚園のお遊戯発表会以来である。あのときは、猿に芸を教えるのと同じやり方と執拗さで仕込まれた。おかげでピアノの音に合わせて旧国鉄の座席のような直角のおじぎができるようになったが、両親も親戚も誰も水本のその姿を見に来る者はなかった。

「ところで、貧乏くじを引かされた心当たりはあるのか」

 鷹尾に目を付けられるようなことがあったか思い出す。側頭葉に問い合わせるまでもなく、海馬にごろごろと思い当たるところが節くれ立っていた。

「鷹尾がやっているカジノの負け分を踏み倒したからでしょうか。もしくは、鷹尾の舎弟筋から仕事を横取りしたからかも知れないです。ああ、この前横流しした偽造携帯電話の出元がもしかしたら鷹尾だったのかも」

 そのころ、水本自身でもどうしてそんなことをするのかわからないままトラブルに繋がる行動を繰り返していた。 

「なるほど。そこだけは見込んだ通りのようだな」

 授業料替わりにウイスキーのダブルを二杯おごらされて、それから仕事を叩き込まれた。

 一ヶ月後、繁華街の外れにある古びたアパートの一室で、宋春平という脂ぎった中国系暴力団の構成員の刺殺体が発見された。現場の状況と犯行の手際からプロの手によるものだと推定された。警察は暴力団通しの縄張り争いによる殺人として捜査を進める一方、大がかりな抗争に発展することを懸念し両団体への監視を強化した。犯人の手がかりとなる証拠は残されておらず捜査は進展しなかった。また、当初心配された両団体による抗争に発展することはなかった。そうして、事件発生から数ヶ月で、ケチなチンピラが殺された犯人不明の未解決事件として捜査一課のファイルに片付けられた。

 それから十五年、水本は今も殺し屋として仕事を続けている。


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