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水本はオフィスビルの一角にある部屋のインターホンを鳴らした。表向きは貿易会社ということになっており、入り口に横文字の社名が掲げられている。しかし、入り口は堅く閉ざされている。
インターホンのカメラ越しにこちらを伺う気配が伝わった。無言のまま軽く頭を下げる。ジーっと低い機械音をさせてオートロックが解錠された。
狭い部屋の半分は、段ボールが足の踏み場なく積み重ねられている。足を踏めるもう半分のスペースに事務机が一つあり、そこにマッシュと呼ばれる男が座っていた。
「よお、久しぶりじゃないか。あまりに来ないんで、てっきりどこかの仕事でしくじったんだと思ってた」
マッシュと呼ばれる男の本名は誰も知らない。マッシュトレーディングカンパニーという看板から、誰かがマッシュと呼び出し、いつしかマッシュと呼ばれる男、という呼称が定着した。長ったらしい呼び方だが、本人と話をするときに使うわけではないのでそれほど気にならない。この世界で誰かと誰かが顔を合わせたときに重要なのは、親が画数を計算してつけた名前や本人が呼んで欲しいニックネームではなく互いの役割だ。仕事にパーソナルな情報はいらない。マッシュと呼ばれる男は水本のことを殺し屋と呼び、水本は毒薬を扱うマッシュと呼ばれる男のことを薬屋と呼ぶ。
「仕事でしくじるようなマヌケだと思われていたとは心外だな。オレの方こそまさかまだここに店を構えているとは思わなかった」
「最近はこの手のワンフロアに十も二十も部屋がある無駄にでかいオフィスビルが減ってしまったからな」
この業界では賃貸オフィスビルに店を構えるケースが多い。この手のオフィス向け大型ビルは人の出入りが多く、目つきどころか服装から殺し屋でございという輩でさえ雑踏に紛れることができる。クレーム対応と上司からの叱責に右往左往するサラリーマンは、全身黒ずくめの仕事服のまま仕事道具を買いに来た殺し屋とエレベーターでいっしょになっても「ああ、百も二百も会社があれば、殺し屋みたいな相手と仕事をする会社もあるんだな。うちはまだましな方だ」と自分を慰める道具に使ってすぐに忘れてしまう。
「それにここはターミナル駅から近いから設備が古い割に賃料が高い。おかげで会社の入れ替わりが激しい。社会の隙間で仕事するにはもってこいだ」
マッシュと呼ばれる男は段ボールの山から茶封筒を一つ抜き取って持ってきた。封筒には粉の入った小袋が詰められていた。
「ロシアからの新製品だ。六時間経てば、解剖しても服用の痕跡が見つからない。水にもすぐ溶け、その上無味無臭だ。これさえあれば定食屋のおばちゃんだって大統領を暗殺可能という代物だ」
ターゲットと直接格闘する必要のない毒殺は、殺し屋に人気の殺害方法である。中には毒殺専門の殺し屋もいる。あまりの容易さから職人気質の古い業界人は、毒殺に頼る殺し屋のことを保健所と呼んで、一段下に見る風潮さえある。
しかし、最近の毒殺事情は、十字キーとボタン二つでポチポチとテレビゲームに興じていた時代ほど簡単ではない。司法解剖の技術は急速に進歩し、かつては検出されなかった薬が検出されるようになっている。一年前まで検出されなかった薬が通用しなくなるようなこともざらである。薬物の成分が特定されると、場合によってはそこから入手経路が特定され業界全体に被害が及ぶこともある。そうなれば、ごめんなさいだけでは済まされない。仕事の道具の薬を一つダメにした殺し屋に、どんまいと声をかけてやるほどこの業界は青春していない。己の命がかかっていると考えれば、毒殺もそれなりにリスキーなやり方なのである。
それでも毒殺に頼る殺し屋が多い理由は、彼らに他のスキルがないからだ。ターゲットを殺すという点だけで見れば、やはり毒殺は他のどの手口よりも簡単かつ罪悪感が残らない。この薬のような無味無臭となると、甘いカクテルに目薬を混ぜて女の子をお持ち帰りしようとするのと難易度も覚悟も大差ない。
水本は毒殺を好まない。ただ、依頼によってはどうしても薬を使わなければいけないことがある。遺産目的だったり、保険金目的だったりで、遺体は見つかるが病死に見せかけて欲しいという仕事だ。自殺でもいいなら他にやり方があるが、病死に限定されてしまうと薬を盛るしかない。
「いくらだ」
マッシュと呼ばれる男は、にこやかに指を四本立てた。
水本が毒殺を好まない最たる理由がこれだ。毒薬はとにかく高い。いくら優れ物といえども四百万円は払えない。その他の経費を入れたら利益がほとんど残らない。それどころか下手すれば赤字である。遺産や保険金目当てで仕事を頼む依頼者は総じて金払いが渋い。金に困っているか汚いから、他人を殺してでも金を得ようと目論むのだ。そんな人間の金払いがいいはずない。そのくせ、保険の免責事項に引っかかるから遺体は見つからないといけないだとか、万が一にも疑われないよう何時から何時の間に殺してくれだとか面倒な注文をしてくる。そういうことは、金を払った客が口にしていいことだ。回転寿司で包丁を入れる角度がなっていないと文句が言えるか。素泊まり四千円のビジネスホテルでシャワーの水圧が弱いとフロントを呼びつけられるか。四十五分七千円の風俗店でパネル写真と実物が違うと言えるか。いや、なんだかどれも言っている人はいそうだ。どこの世界も最近は金を出さないくせに口ばかり出す人間に溢れている。嘆かわしい限りだ。
「もっと安いのはないのか」
マッシュと呼ばれる男の店は、世の中に存在する薬物なら手に入らないものはないと言われるほどの品揃いを誇る。その上、他の薬屋と違い混ぜ物を入れた粗悪品を掴まされる心配もない。ただ、その分値が張る。
「安物が欲しければ他の店に行ってもらった方がいい」
言い値での商売を信条としていて誰が相手でも安売りはしない。それが通じるだけの値打ちがこの店にはあるのだ。
「安物を買いたいと言っているわけじゃない。それほど神経質になるような案件じゃないから、できれば経費を抑えたいと思っているんだ」
経費を抑えたいというのはひとくさりの偽りもない本心だが、前段のそれほど神経質になる必要がないというのは、異人に連れられていった女の子の靴よりも真っ赤な嘘である。
依頼金は必殺の仕事人におっかさんの仇討ちを頼む小童かというくらい少ないのに、宮沢さんのレストランのように注文が多い。さらに依頼の内容から厄介事の臭いがプンプンと漂った。ターゲットは翳りゆく老舗企業のワンマン社長。遺産と会社を巡って子が父に刃を向ける。父と子は血のつながりのない母親の連れ子である。その父親は亡くなった先代ではないかという噂もあるとかないとか。そして、舞台は昭和初期に立てられた古びた洋館。これで面倒が起きない方がおかしい。これが江戸川界隈の話だったら間違いなく謎の怪人が出て来るところだ。何より、これだけ不穏な条件が揃っていながら依頼金額が小童なのだ。脱藩した食い詰め浪人でさえ手を出さない案件である。
もちろん水本も話を聞くなり限りなく断りに近い形で回答の保留を告げた。そこで仲介者から替わりにと紹介されたのが岩下の案件だった。政治家の絡む仕事は後々面倒になることがあるのでできれば受けたくなかったが、背に腹は替えられず受けることにした。腹ぺこなのに高楊枝をくわえていられるほどサムライ気質ではない。預金額が減ってくると不安になって金が欲しくなる。
にもかかわらず、岩下の案件が思ったよりも利益があがらなかったせいで、こうして厄介覚悟でその案件を受けようかどうか逡巡し、仕事道具の下見に来ているのだ。
「そういうことなら、これなんてどうだ」
マッシュと呼ばれる男は、今度は小さなガラス瓶に入った無色の液剤を紹介した。
「眠るように死ぬから遺体はきれいなままだ。一日もすれば司法解剖しても証拠は出てこない。ただし、強烈な臭いがあり熱に弱いから、食べ物に混ぜて使うのはオススメできない。やるなら静脈注射だな」
注射系の毒薬は、いくら効果が強力でも人気がない。毒殺の一番の利点は、繰り返しになるがターゲットに直接手を下さなくて済むことだ。静脈注射が必要となるとそのメリットがなくなる。それどころか、静かに近づき打ち損じることなく的確に静脈に毒薬を注入するのは、強引に首を絞めるのやアルコールの勢いでナイフでめった刺しにするのよりずっと難易度が高い。毒殺に容易さのみを求める保健所殺し屋は絶対に手を出さない。日曜大工と同じだ。技術がないにわかパパは高額な最新工具を買い漁るが、腕に覚えのあるドゥ・イット・ユアセルフパパは、そこら辺に転がっている道具をうまく活用する。
「いくらだ」
マッシュと呼ばれる男が示した金額は水本の予想よりもかなり安価だった。
「その金額だったら売れているだろ」
静脈注射とはいえ毒薬だ。この金額はヒンドゥーのシヴァもびっくりの価格破壊である。
「それがそうでもない。最近の若い殺し屋は静脈注射も覚束ない。みんなあんたくらい腕がしっかりしていればこっちも助かるんだけどな」
マッシュと呼ばれる男が水本の仕事ぶりを見たことがあるわけではない。購入する道具を見れば、仕事の仕方や技術は自ずと推し量れるものだ。そしてこの世界で長く仕事をしているということが何よりの証明だ。下手クソやバカは、ナタデココや食べるラー油みたいにポッと出てきてすぐに消えていく。
別段殺し屋の才能があったわけではない。他の新人と違って、水本は高取から徹底的に仕事を叩き込まれてからデビューしただけだ。右も左も上座も下座もわからないまま、墜ちる勢いに任せて殺し屋になっていたら、水本も下手すれば一年、持って数年だっただろう。
「どうする。買って帰るか」
「いや、今日はやめておく。まだ本決定じゃないんだ。正式に受注すればお願いするよ」
「わかった。いつ来てもらっても大丈夫なように取り置きしておくよ」
「あまり期待しないで待っていてくれ」
そう口にしたが、内心ではすっかりその気になっていた。あの薬を使えば、安い依頼料でもそれなりに利益が残せそうだ。金が入るとなれば、厄介の臭いも香水の香りに早変わりする。
女も仕事もちょっと手を焼くくらいがちょうどいいのだ。
なんて、たいして女を知っているわけでもないのに語ってしまうくらいに気分が高揚していた。
似たような色のスーツを着て、違いのわからない黒いバッグを持ったサラリーマンたちとエレベーターに乗りながら、頭の中で仕事の計画を練った。