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水本は計算結果に首をひねって、また始めから領収書をめくった。カタタカタタと電卓を叩く。これで四回目だ。入力ミスをした自覚はない。これまで三回の計算結果はいずれも同じだ。それでも四回目の計算に取り掛かるのを止められなかった。
情報屋への依頼料に監視用の部屋代、マンションのスペアキー、それもエントランスのオートロックと部屋用の二本分、監視カメラへの細工、始末屋への支払い、その他もろもろにもう一つもろが付くぐらい大量の雑費。そしてまったくもって余計な出費となったタクシーの領収書を打ち込み、最後に高級クラブのフルーツよりもぼったくりなドアチェーンの取り換え費用を入力する。
計算結果はやはり同じだった。
水本は現実を受け入れた。受け入れたからと言って表情が晴れるわけではない。
一仕事終えて残るのがこれっぱかしじゃ割に合わない。
深い深いため息がこぼれた。
かつて日本人が印象派の絵画やニューヨークのビルを買い漁っていた時代は、この業界もブクブクと泡にまみれていた。まず報酬の桁が一つ違った。その上、経費別だ。さらに場合によっては依頼主からの特別ボーナスまで出た。それだけ世の中に金が溢れていて競合相手がいなかったのだ。古株連中から聞いた話で、水本はその時代を経験していない。そのころはまだ、ランドセルを背負っていた。バブルが弾けて経費別の特別ボーナス支給は幻の理想郷エルドラドと化したが、それでも数年前まではここまでひどくなかった。一仕事すれば一年間は海外で遊んで暮らせた。それが今となっては、二泊三日で韓国に行ってエステしてコスメ買って焼き肉を食べたらおしまいだ。どこぞのOLのプチ贅沢旅行か。
さすがに二泊三日韓国ツアーですっからかんというのは言い過ぎだが、ここ数年で仕事の報酬が大きく値崩れしたのは嘘ではない。価格破壊の元凶は、大陸から渡ってきた中国系組織だ。やつらは世界中にチャイナタウンを作ったのと同じ勢いと強引さでこの業界に参入してきた。
やつらのウリは単純明快で、とにかく安い。もちろん安かろう悪かろうのご多分に漏れず仕事は雑である。依頼主からどう注文されようと全てが荒仕事になる。現場に証拠を残さず失踪に見せかけるような繊細な仕事はできない。なぜなら、やつらの実行者は素人ばかりだからだ。大陸から出稼ぎ感覚で実行者を呼び寄せ、仕事が済めば速やかに国に帰す。もちろん入国も出国も中国マフィアが手を回す。入出国や仕事の手配の手数料が差し引かれれば、報酬の内どれだけが実行者に渡されるのだろうか。本当に二泊三日で韓国旅行程度かもしれない。それでも仕事を引き受ける人間がいるから成り立つのだ。搾取を承知で汚れ仕事に手を貸すしか生きる術のない大陸の誰かのことは不憫に思わなくもないが、その煽りを食ってデフレ競争に巻き込まれるのはたまったもんじゃない。
あんな素人集団に仕事を頼む方も頼む方だ。多少金がかかろうとプロの仕事に金を払ってもらいたい。
顔見知りの同業者が集まると決まって同じ愚痴をこぼす。
水本はリモコンでテレビをつけた。ニュースキャスターが深刻な顔で原稿を読んでいる。
「午後十時半ごろ飲食店から岩下氏の自宅マンション近くまで乗せたタクシー運転手の証言を最後に、その後の足取りは依然としてわからないままです」
渦中の議員秘書が忽然と姿を消したニュースは、ここ数日テレビと新聞紙面を賑わせているが捜査に進展はなく同じ情報を繰り返すばかりだ。このまま続報がなければ一週間も経たずに忘れ去られるだろう。一人の人間が消えた程度の話題を報じ続けるほど世の中は平和ではない。
「部屋に争われた形跡がないということは、岩下氏が自らの意思で姿を消したという可能性も考えられますね」
コメンテーター席に座る若い大学教授が、昨日と同じコメントを昨日と同じ口調で言った。違うのはネクタイの色だけである。
「警察は岩下氏が何らかの事件に巻き込まれたことも想定し捜査を続ける方針です」
警察がいくら捜そうと生きた岩下はもちろん、かつて岩下だった形跡すら見つけられないはずだ。金にはシビアだが始末屋の仕事は信頼できる。これまで始末屋が依頼した仕事をしくじったことは一度としてない。毎度、あの手この手で請求金額を釣り上げようとしてくるが、依頼した仕事はきっちりとこなす。だから、多少割高でもあの始末屋に仕事を頼むのだ。粗悪な業者を使って失敗されたら元も子もない。
始末屋がどうやって潜入の形跡を消し、岩下の遺体を遺棄したのかは知らない。今回に限らずこれまでもずっとだ。依頼した仕事をやってくれればやり方は詮索しない。それが業界のルールだ。
「続いてのニュースは富山県の一家惨殺事件の続報です」
水本はテレビを消した。富山県の弁護士一家が殺された事件だ。遺体はめった刺しにされ、折り重ねるようにして押入に入れられていたという。
まったくの素人仕事だ。イヤになる。
水本も三十歳を越えて、殺し屋業界ではベテランの域に入っているが、一度たりともこういう雑な仕事をしたことはない。もちろん依頼主からの指示もあったが、自分の仕事に矜持を持っていた。
「職業に貴賤はない。あるのは志の差だ。自分の価値を決めるのは他人ではなく自分だ。自分自身に誇れない仕事はするな」
高い酒を飲もうと安い酒を飲もうと、酔うと水本に仕事を教えてくれた高取がいつも口にした。高取とは十八歳からのしばらくの間は、多いときで週に八回飲みに行くこともあったが、水本が一人で仕事をするようになってからはいっしょに酒を酌み交わすことはおろか顔を合わせる機会もほとんどなくなった。風の噂では数年前にこの仕事を引退したらしい。年齢を考えれば不思議な話ではない。殺し屋の現役寿命はせいぜいサッカー選手より少し長く、野球選手よりちょっと短い程度が相場だ。老眼や関節痛を抱えた中年が人を殺せるか考えてみればわかるだろう。殺し屋というのは、若いうちだけやれる肉体労働なのだ。だからこそ若い内に稼ぐためにも、この実入りでは到底割に合わない。
精算結果を思い出して水本は顔をしかめた。