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ジョブチェンジ  作者: アンドロメダ亭X
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 どうした。どうした。どうして出てきた。どうして出てきちゃったんだ。話が違うじゃないか。

 水本はマンションから出てきた岩下の地肌が透ける頭頂部に向かって舌打ちした。

 毎週水曜日は、一度マンションに帰ってきたら外出しないんじゃなかったのかよ。あの情報屋め。高い金ふんだくるくせにいい加減な仕事しやがって。

 水本は監視用の部屋を飛び出して、岩下のあとを追った。

 こちらの監視に勘付いて逃げ出したとは思いづらい。時間がなかったからここ数日多少強引に尾行をしたが、それでも素人に気づかれるほどマヌケではない。今夜はさっさと仕事を終わらせて、家でビール片手に撮り溜めてあるドラマでも観ようと思っていたのに。

 岩下は大通りに出てタクシーを止めた。急いでいる風はない。後ろを気にする素振りも見せなかった。やはりこちらの動きがばれたわけではないようだ。

 そうなるとますますいい加減な情報を持ってきた情報屋が腹立たしくなる。返金はかなわないとしてもこの仕事が済んだら小言の一つでも言ってやらないと気が済まない。

 岩下が乗ったタクシーが走り出したのをしっかりと確認してからタクシーを止めた。

 水本はいつだったかいっしょに仕事をしたマヌケのことを思い出した。

 昭和の怪奇派レスラーのような容姿と聞きもしないのに腕っ節自慢を始めた時点でハズレくじを引いたと肩を落とした。その怪奇派レスラーがまんまと引っ掛かったのが、タクシーに乗ったと見せかけてすぐに降りるという尾行を巻く初歩中の初歩の技だった。しかも、尾行をあきらめてそのままタクシーを走らせればいいものを御丁寧に慌ててタクシーから降りると来たもんだ。見事ターゲットに、私が尾行者ですよと自己紹介完了。一撃必殺でそれまでの準備が御破算。信頼を回復するのにどれほど骨を折ったことか。今度会ったらタダじゃおかないリストに入れているが、それ以降どこの現場でも見かけることはない。わざわざ探し出すほど暇じゃないのでそのままだ。

「前のタクシーを追ってくれ」

 バックミラー越しに運転手の目が光ったのがわかった。また、このパターンだ。どうしてタクシーの運転手というのは、あの手の映画好きが多いのだろうか。

「いやー、こういうのって本当にあるんですね。私ら運転手の間では、前のタクシーを追いかけてくれ、は映画では良く観るけど実際にはあり得ないことだって半ばネタにされているんですよ。でも本当にあるんですね」

 そして、この手の運転手は決まっておしゃべりだ。もちろん、相手をする気はない。知らないおじさんと談笑しながらやり遂げられるほど仕事は甘くない。

「お客さん、やっぱり刑事さんですか。でも刑事だったらパトカーに乗っているか。ほら、覆面のやつ。それじゃあ、探偵さんかな」

 一人で青天井に盛り上がっていく。いい加減釘を刺しておかないと、タクシーのスーパーサインに「尾行」と点灯されかねない。  

「大事な仕事なんだ。集中して運転してくれ」

 こういうことは無感情に伝えた方が迫力を増す。しかし、だからといって誰にでも通じるというわけではない。

「大丈夫ですよ。この辺の道なら路地までばっちり頭に入ってますから」

 前のタクシーを見失わないように追ってくれればいいのだ。抜け道の知識は必要ない。

「いやー、でもやっぱり刑事さんかな。犯人を追いかけるようなハードボイルドな探偵なんて実際にはいませんよね」

 あいにくこの世に存在しないのは、ツチノコと食べるだけで痩せる食品ぐらいのもので、それ以外の人間が想像しうるものはたいてい実在する。

「この仕事を長くやってると大概のことでは驚かないですけど、これはさすがに驚いたな。犯人追跡に一役買えるだなんて運転手冥利に尽きますよ」

 存在しないものリストのツチノコの隣に無口なタクシードライバーを追加しておこう。

 水本は運転手の軽口をFMラジオのパーソナリティが語る先週の放送終わりに番組スタッフとスペインバルでワインを飲んだという近況報告よりも適当に聞き流して、頭を仕事モードに戻した。

 岩下が立ち寄りそうな場所としてまず考えられるのが、彼が秘書を務める昨今政治献金がらみで新聞紙上を賑わせている衆議院議員の薮田のところだ。薮田は足りない政策力を二世特権の選挙地盤と資金力で埋め、次期大臣候補に名を連ねるまでに成り上がった典型的な悪徳政治家である。岩下はその薮田の私設秘書を長年勤め、灰色の帳簿作りを一手に担っている。その帳簿が白日の下に晒されれば、薮田の政治生命はおろか、政界、財界の首がどれだけ飛ぶかわからない。歴史に残る一大汚職事件に発展することは確実だ。だからこそ、岩下を逃がすわけにはいかない。

 水本は胸ポケットから携帯電話を取り出した。

「少しばかり予定が変更になった。対応については改めて連絡するから、しばらくそのまま待機しておいてくれ」

 一方的にそれだけ伝えて切った。部外者の前で長々と電話をするほど迂闊ではない。

 水本の脳裏にいつだったかいっしょに仕事をした軍事オタクのことが甦った。まったく、あいつは底なしの迂闊野郎だった。実際の戦場に行ったら顔を洗って歯磨きをする前に塵にされてしまうことだろう。この仕事を長くやっているといろんな奴と遭遇する。そして、そのほとんどが碌でもない奴だ。

 岩下の乗るタクシーが交差点を左に曲がった。

 水本はひとまず胸を撫で下ろした。薮田の事務所に行くならさっきの交差点を右に曲がるはずだ。今夜、薮田に会われては面倒なことになる。岩下を乗せたタクシーはそのまましばらく走ると、スナックの看板がずらりと並ぶ雑居ビルの前で止まった。

「ははあん、ここで取引が行われるというわけですね。どうしますか。踏み込みますか」

 はったい粉を頭からかぶったようなババアがやっているスナックで何を取り引きするというのだ。

「来た道を戻ってくれ」

 飲み屋に行っただけなら焦ることはない。岩下の酒は適量で、長くて二時間である。深酒して外泊するようなことはない。それは情報屋からの報告だけでなく実際に水本自身が尾行して確認済みだ。岩下がマンションに戻ってくるのを待つことにした。

「踏み込まなくていいんですか」 

 何を期待していたのか運転手は露骨に落胆した。

「いいんだ。オレは刑事でも探偵でもないから」

 お釣りと領収書をもらってタクシーを降りた。監視用の部屋に戻って電話を入れる。

「やはり計画通りでいく。ただ時間が多少後ろにズレることになりそうだ」

「それは困りましたね。時間がズレるならその分のお金をいただかないと」

 独特な低く粘っこい声は何度聞いても慣れない。カナブンくらいならこいつの声だけで身動き取れなくなるだろう。カブトムシだって、オスはまだしもメスの力なら危ないかもしれない。 

「おいおい、いつから時給いくらのアルバイトになったんだ。オレは仕事を依頼したんだ。仕事の対価にしか金を払うつもりはない」

「相変わらず堅いですね。他の人は残業代くらい払ってくれますよ」

「嘘をつけ。このご時世にそんな豪奢な奴がいるはずないだろ」

 耳障りな粘っこい笑いの途中で電話を切った。向こうだって残業代なんてふざけたものが通るとは思っていない。もらえればめっけものぐらいのつもりで、とりあえずふっかけているだけだ。どこも台所事情が厳しいのはいっしょだ。

 予想通り二時間足らずで岩下が戻ってきた。スナックのチーママをお持ち帰りすることもなく、出かけたときと変わらぬ足取りだった。酒量も予想通りの適量だ。酔っていようといまいと仕事の段取りに大差はないが、予期しない行動をとられる心配がいらない分泥酔していないのはありがたい。

 煙草に火をつけて煙をゆっくりと吸い込む。

 水本は仕事に取り掛かる前に煙草を一本燻らせ、これからの仕事の段取りを頭に思い描く。どんなに簡単な仕事でも、家庭用サウナみたいな狭い喫煙スペースに外回りの営業マンとすし詰めにされようとも欠かさない。「煙草一本を吸い終わるまでの時間でまとめられない計画はうまくいかない」一からこの仕事を叩きこんでくれた人物の教えを律義に守っているのだ。「計画はシンプルに実行は冷静に」が口癖だった。

 指が焦げるほど短くなった煙草を携帯灰皿にねじ込んだ。ぎりぎりまで吸うのは誰かに教えられたのではなく、生まれ持っての貧乏症のせいだ。

 岩下の住むマンションは監視カメラ、オートロック完備だが気にする必要はない。オートロックは用意してある合い鍵で開けられる。エントランスの出入りを監視するカメラは、電源は入っているが録画されていない。事前に細工済みだ。何か事件でもなければマンションの監視カメラの録画内容が確認されることはまずない。それはつまり、監視カメラに細工をしても何か事件が起きるまで誰にも気づかれないということだ。鍵もカメラへの細工もその筋の専門家に依頼すれば難なくやってくれる。もちろんそれ相応の金を払えばのことだが。

 非常階段で岩下の住む十五階まで上がる。住人と鉢合わせになる可能性があるのでエレベーターは使えない。十五階とはいえ階段を昇ったぐらいで息が切れるようではこの仕事は勤まらない。

 鍵穴に鍵を差し込んでゆっくりと回す。情報屋と違って鍵屋は相変わらずいい仕事をする。オートロックに続いて岩下の部屋も少しのひっかかりもない。お値段以上の仕事ぶりだ。チェーンロックがかかっていないことを祈ってゆっくりとドアを引く。十センチほど開いたところで止まった。水本はため息を漏らした。

 ドアチェーンがかかっている。また、出費だ。

 水本は仕事鞄からチェーンカッターを取り出した。小さいのに良く切れる。ただ、そこそこ値が張ったからお値段通りくらいの評価だ。

 クン、と短い音を残してあっさりとドアチェーンが切れた。

 これだけあっさり切れるチェーンなのだからきっと安物に違いない。

 自分に言い聞かせて、水本は岩下の部屋にあがった。まっすぐリビングに向かう。部屋の間取りも調査済みだ。音を立てずリビングのドアを押し開ける。

 岩下は二十畳近いリビングのソファーに寝転がってテレビを観ていた。テーブルにはワインのボトルとグラスが置かれている。横にすれば卓球ができそうなくらいでかい壁掛け薄型テレビでは、でかでかと美白の女と毛深い男のまぐわりが映されていた。

 なんともまあお盛んなことである。高層マンションに住む四十歳を越えた独身男が、スナックで飲んで、寝る前にアダルトビデオでワインを傾ける。結構な生き方じゃないか。本心からそう思うが、罪悪感は湧かない。

 なぜなら仕事だからだ。

 このままそっと近づいていって仕事を終わらせてもよかったが、ワイン片手にアダルトビデオ鑑賞する四十男というおもしろいものを見せてくれたので、知らない間に終わってしまうというのは勘弁してやろう。

「おい、鼻息を荒くするにはまだ早いと思うぞ。最近のこの手の作品はここからクライマックスまでが長いからな。上になったり下になったり、下手したら横になることだってある」

 いきなり声をかけられた岩下は、マンガみたいにソファーの上で跳ね上がった。慌てて水本の方を振り返り、輪をかけた慌てようでアダルトビデオを停止させた。夜中に不審者が部屋に入ってきて一番に気にするのがアダルトビデオとは。水本は岩下に好感を抱いた。だからといってどうということはない。水本は頼まれた仕事をするだけだ。 

「誰だ」

 岩下はソファーを盾にするように座り直し、ワインボトルを手に取って構えた。

「あいにくそれは答えられない。誰かはわからなくても、オレのこの格好を見てもらえれば、どういう類の用件かくらいはわかるだろ」

 黒ずくめの服に黒の帽子を目深にかぶり、手には皮の手袋。この姿を見れば、ピザの宅配でも警察でもないことは明らかだ。もちろん、法を度外視して犯人を追いつめるハードボイルドな探偵でもない。タクシーの運転手が言った通り、そういう探偵は物語の中にしかない。リストのツチノコの前のページに載っている。

「ま、まさか」

 察したとして、己の身に危険及ぼす存在というところまでだろう。大事なのはその先だ。強盗なのか、誘拐なのか、それとも。

 水本は鞄から素早く細くて頑強なロープを取り出した。どこのホームセンターでも買える黄色と黒色のトラロープだ。証拠品から購入場所を特定させないためではない。単純に使いやすくて、何より安価だからだ。

「恨むのなら知りすぎた自分を恨むんだな」

 ここまで深入りする前に、政治家や財界連中の地位や名誉と自分の命の重さを比べてみなかったのだろうか。あいつらは自分以外の人間は、己の地位と名誉を確保するための道具としか思っていない。だから、長年汚れ仕事をしてきた秘書を簡単に切り捨てるし、その仕事を請け負う人間もぞんざいに扱うのだ。いや、道具だとしてももう少し大切に扱えないものか。鉄壁の守備でセンター前に抜けそうな当たりをことごとくショートゴロにしてしまうプロ野球選手や繊細なボールコントロールで相手ディフェンダーを翻弄するサッカー選手は、自分の身体のように道具を大事にするものだ。

 といいながら、水本自身も仕事が終われば、このロープも服も帽子も合い鍵もすべて捨ててしまう。まあ、これは道具を大事にしないというのではなく、一期一会ということにしておいてもらおう。

 そんなことをぼんやりと思いながら、水本はロープで岩下の首を締め上げた。岩下は必死の抵抗を見せたが、次第に身体から力が抜けていった。水本は最後の仕上げに岩下を背負うようにして一気に締め上げた。索条痕や吉川線を気にする必要はない。岩下の遺体は誰にも見つからない。

 そのための経費がまたかかるのだ。

「こちらの仕事は終わった。後始末に取りかかってくれ。あと、ドアチェーンを切断したから元通りにしておいてくれ」

「それは困りましたね。この時間からマンションのドアチェーンを調達して取り付けるとなると相当な苦労ですよ」

 よく言うよ。人を一人消せてドアチェーンの付け替えに難儀するはずがない。要は追加料金をぶんどりたいのだ。わかりきっていたが、水本は相手の要求を飲んだ。余計な交渉をする気分じゃなかった。

「わかった。その分は追加で支払う」

 仕事をしたあとは、相手が誰であろうとどれだけスムーズに終わろうと、全身にどっと疲れがのしかかる。いつだったか同業者にその話をすると「本来生きるはずだった寿命分の生命エネルギーが、負のエネルギーとなって身体に入り込んでくるからだ。悪い気を身体から出すには昔から水晶がいいと言われている」と言われて水晶のブレスレットを売りつけられそうになった。

 あいつはその半年後、仕事をミスってどこかに消えた。

 収支の計算は明日だな。ドラマも明日だ。今日はとっとと眠ってしまおう。

 まったく、殺し屋家業は楽じゃない。


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