学食の衝撃と刺激を与えたくない対象について
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妹はなぜ僕の通っている大学に突然現れたのか。そしてなぜ窓の外から怪物が現れることを知っていたのか。そしてそれをどうやって死体に変えたのか。こうして同じ机で昼食を摂っている今なら尋ねることも可能だったが、それらの現象一つ一つのあまりの異様さが、訊く勇気を僕から奪っていき、結局僕は妹と同じ机で黙々とうどんをすすり込んでいた。そんな緊張状態だからうどんの味なんかしなかった。かと言ってここの学食のうどんは味をよく感じられたとしても大して美味しくもないので別にいい。
「このカレー、さ」
妹が口を開いた。その第一声からして恐らくさっきの事件について触れることはないだろう。
「まずくない?」
「うん、この学食のカレーはまずいよ」
同じく同じ机に座っていた無明さんが答えた。人見知りしないタイプのようだ。
そう、この学食のカレーはまずい。僕が通っていた高校には学食というものも購買部というものも存在しなかったので、大学に入学してから体験する学食というものに期待をしていた。それは値段を見ずに勝手に期待を膨らませていた僕が悪いのか、それとももっと大きい大学の学食だったら美味しいのか、それは体験していないので知らないが、僕が入学してからこの学食で初めて食べたものが、今妹が食べているカレーだった。ひとくち食べて、僕は衝撃を受けた。カレーをまずく作ることって可能だったのか、と。何をどうやっても最終的にカレー粉をぶち込めばすべての料理はまあまあの味にはなる、と信じきっていた僕は、その日一人暮らしを初めて何度かのカルチャーショックを受けた。高校までの世界とはなんて手狭なものだったのだろう、と自分の人生を見つめなおしすらした。それほど「カレーがまずい」ということが衝撃的だったのだ。
ちなみに今はもう、ここの学食の味にも慣れた。カレー以外も味は最高でも平均以下、最低でもカレー以下ではない程度で安定しており、何より学内に一件入っているコンビニより遥かに安い。昼休みになれば席をとれずにウロウロし続けるはめになる学生もよく見かける。
でも今の僕達の周囲には誰も座ろうとしない。ここから離れたところには、席を探してお盆を持ったままうろついている学生すらいるにも関わらず、だ。
そんな渦中、まあなんの渦中なのかよくわからないが、とにかくそんな妹による人よけが働いているところに抵抗もなく入っていって、人よけのど真ん中である妹と同じ机で僕たちは食事を開始した。座る際、妹は僕達に一瞥もくれなかった。それが思いやりなのか、僕のことが嫌いだからなのか、それはわからない。僕が尋ねれば教えてくれるかもしれない。
でも僕は尋ねない。尋ねれば全ての疑問が解消するかもしれないのに、さっきの現象を起こした当人と同じ席を囲んでいることに緊張しているふりをして疑問を発するのを面倒くさがっている。確かにさっきの怪物の騒動の真相を知るのは怖い。でも放っておいても怖いままなんだから尋ねればいいじゃないか。同席している無明さんがあっけらかんと尋ねてみてくれないものだろうか。
駄目だ。無明さんは僕に目配せしている。明らかに「訊けよ」と僕に命じている。僕だって同じ気持なのだ。気持ちが通じあったからといって物事がうまく行ったり友情が深まったりするとは限らないのだなあ、と僕は何度目かわからないカルチャーショックを受けた。
妹はまずいといったカレーを一粒も残さずに食べ終えた。いくらまずいカレーでも喉が拒否するほどのまずさではないし、空腹には勝てなかったんだろう。カレーを注文すると自動的についてくる生野菜のサラダは手付かずだけど。どちらかと言えばそっちのほうがカレーより美味しいはずだけど。
「猫、見なかった?」
妹のほうから僕に疑問文を使ってきた。妹が食べ終える前なら、僕にも疑問をぶつけるチャンスはあったのに。でも過ぎてしまってはしょうがない。
「猫って、昨日の?」
「そう、昨日のあの特徴的な猫」
特徴的、と言うよりも「喋る猫」と言ったほうが早いだろうに、わざわざそう言うということはやはりあの猫の猫っぽくない部分関して肉親以外にバレるのは本当に困るらしい。ここで僕は、猫が喋ることにうっすら触れて妹を慌てさせてやろう、などといういたずらを仕掛けたりはしない。よく知らない相手をからかうのは大変なリスクを伴う。そんなことをするくらいなら簡素な言葉のやりとりを続けた方がましだ。
「見なかったな。少なくとも今日は」
大学の構内で猫を見かけたら結構話題になるだろう。それが何の変哲もない野良猫であったとしても。犬が入って来てもちょっとした騒ぎになるに違いない。大学という高校までとは一線を画するほど違った環境の学び舎であったとしても、学校と動物という組み合わせは非常なミスマッチを誘うものらしい。僕はまだこの学校で犬も猫も見たことはないけど。
「そう」
妹はやっぱり簡素な言葉遣いでカレー皿だけが空になったお盆を持って立ち去って行ってしまった。すると僕達の周囲の机に人が座り始めた。
「知り合い?」
そういえば無明さんは僕に妹がいることも知らないのだった。
「あれは妹なんだ」
「小さいね」
「十四歳だから」
「なんで入ってこれるの?」
「さあ。それが怖いから人がいなかったんじゃないかな」
「ああ……なんか、怖かったね。うん」
それから僕たちは黙って食事を終えた。次に変わったことが起こるのは帰り際、僕がいきなり猫に話しかけられる瞬間からだ。