手段の目的化という言葉と世界で2番目に小規模な祝勝会について
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結果、無明さんは講義中の事件についてしょうがない、と思っているらしいことが明らかになった。オセロの対戦では僕が三連勝した後、ようやくばれることなく負けることができた。無明さんは僕が慎重を記した上で手抜きをし、わざと角を取られるように駒を置いていったのに、それでも負けるほどオセロが弱かった。もしかしたらオセロというゲームを最近知ったばかりなのかもしれない。どうすれば勝てるのか、すら理解できずに、とにかく駒をたくさんひっくり返すことにだけ集中してしまっているから、最終的に自分の色が多いほうが勝ち、という目標を見失ってしまっているのかもしれない。
手段より目的を重視することは悪いことなんだろうか。オセロの盤上では負けにつながるので悪いことかもしれないが、時折「手段の目的化」と言う言葉を悪い言葉で使っているのを目にすることがある。例えばバンドなんかでプロデビューするために頑張ること、これも手段の目的化だ。プロデビューというのは選択肢であり、手段の一つだ。バンドの目的というのは、例えば楽しく演奏するとか、聞く側の心を動かしてやりたいとか、そういったものだ。バンドによるプロデビューは目的になってしまうと、いざプロデビューした瞬間にやりたいことがなくなってしまう。レコード会社と契約してプロデビューした途端、数年で消えていくバンドは結構ある。
とか偉そうに語っているようだが、僕には現在のところ将来の目的、言い換えれば目標らしきものはない。これじゃあ何も頑張りようがないので、僕は今何も頑張っていない。例えば働きたくないとか、誰かのヒモになって楽に暮らしたいとか、そういったダメな方向の目的すらないのだ。僕は一体何をやって生きていけばいいのか、僕には未だにわかっていない。既に大学には入学してしまった。この大学には三年生になった途端「出陣式」なる催し物がある。就職活動への出陣式だ。大したことのない大学だからなんとか就職率を上げたいのか、それともどこの大学でもこんなことはやっているのか。わからないが、とにかく僕はあと二年足らずで出陣式に駆り出されることになる。それまでに将来の目的を決定しなければならない。目的もない人間を企業は採用しないだろう。やる気の無さくらい、他人であっても見抜けるものだ。就職面接でやる気の無さを見ぬかれたら、それはもう絶望的だ。
僕が無明さんとオセロをやっている最中も、やる気の無さを見ぬかれないように努めていた。明らかに手を抜いて対戦すれば「手を抜いたね。今度は本気でやってよ」とか言われて永久にオセロをやり続ける羽目に陥るかもしれない。それは避けたかった。今は昼休みだし、僕だってお腹は空く。だから早く食堂に行きたかったのだ。だから早くオセロを終わらせたかったのだ。
「勝った……長い戦いだった」
無明さんはオセロに今日の全気力を費やしてしまったらしく、僕から勝利をもぎ取ると背もたれに体全体を預けた。
「じゃあ、僕は食堂に行くから」
今度こそ、僕は立ち上がろうとした。
「あ、私も」
無明さんも立ち上がった。
「祝勝会をやろう」
負かした相手と? おかしいと思ったが、この人はわけがわからない人なんだな、という認識が既に確立されていたので、僕は拒否しなかった。
この学校の食堂の規模は小さい。大学自体の規模もさして大きくないのだが、それにしても食堂が普通の食堂だ。まるで地方の公立大学のようだ。なぜ僕が地方の公立大学の食堂がチープなのを知っているのかというと、高3の頃にパンフレットで見たことがあるからだ。ここ以外の大学のオープンキャンパスにも行ったことがある。大きい大学は食堂も大規模でおしゃれで、大学の外にある大手チェーン店がそのまま入っていたりしていた。
でも僕がいるのはこのチープな学食である。どうして食堂が大規模でおしゃれな大学に行かなかったのかというと、落ちたからだ。この大学は滑り止めだった。
「あ、あそこ」
僕は二倍コロッケうどんを、無明さんはカツとじ煮定食を受け取り、座れるところを探して見渡してみると、不自然なほどに人のいない一画が目についた。
「何? ゲロでも落ちてるの?」
ゲロが落ちるという表現はおかしいと思ったが、適切だとも思った。でもゲロが落ちているから人が寄り付かないのではない。
妹が座っているから誰も寄り付かないのだ。たぶん。