よく知らない肉親の心情について
20(3).
押し問答が一回続いたので一つ飛ばした。
結局のところ、僕には妹の言い出したことを断らなければならない理由は存在しなかったし、妹がこの事を知った結果、どんなことになってしまうのか、といったようなことは、僕には大して関係ないという結論に落ち着いた。僕にとって今のところ壊れてもらって困るものといえばパソコンと図書館と実家の家庭くらいか。パソコンは暇つぶしに重要だし、図書館はパソコンが動かなくなった場合の暇つぶしに重要だし、実家の家庭は円満でなければ、少なくとも崩壊しない程度の安定さを保ってもらわなければ困る。仕送りが止まってしまうかもしれないから。
こんな心配をするくらいならバイトをやったほうがいいかもしれない。今、大学で僕が取っている全ての講義に出続けているとほとんどバイトなんかをやる時間の余裕はないが、必修以外で捨ててもいい講義を見極める必要がありそうだ。経営法学なんかがその第一候補になりそうだ。使わなそうだし。
妹は僕の脇をすり抜けてさっさと部屋に乗り込んでいった。靴を脱いでくれただけありがたいと思うべきか、それとも今更ながら妹にちょっとは遠慮して欲しいと言ってみるべきか。でも大して知らない家族に対して年上だからなんていう理不尽な理由で説教なんかされたくないだろう。僕だって親に対してそんな感情を抱いているんだから、僕のことを対して知らないであろう妹だって似たような感情を抱いているだろう、きっと。いや妹に限らず、ほぼ全ての人類はそうに決まっている。年上というだけで偉そうに説教する奴のことなんか人類は全員大嫌いだ。それなのに年上というだけで偉そうにしている人たちが社会中に蔓延っているのはどういうことなんだろう。ひょっとして社会と人間ってイコールではないのか。人間が作った社会は人間が生きやすいようには作られていない、ということなのか。
何かを発見できそうになったが、妹の声にかき消された。文字で表してみよう。
「おうあぁぁぁあわぁぁああ?!」
聞いたことのない種類の叫び声だった。どんな感情を抱けばそんな奇っ怪な声を出せるんだろうか。
妹が叫んだ原因は、僕の部屋の押し入れだった。もちろん押し入れには穴が開いている。穴の向こうの、人間を食べるためにこっちにやって来るなにものかが通るための穴が。
「お兄ちゃん」
妹が振り向いた。
「これはなに」
そして英語の教科書のような疑問文を提出した。
「それは穴だよ」
僕の回答も教科書のようだった。
「なんでここに穴が開いてるの」
「それは知らない。突然空いたんだ」
「なんで空いたまま放っといてるの」
「穴が空く場所をここに用意してくれていれば、僕は食べられない、とそこの猫が」
穴のすぐ側には顔のないぬいぐるみのような体型の黒猫が行儀よく座って、僕達を見上げていた。
「この猫、見たことあるんだけど」
「私も、君を見たことがあるよ」
猫と妹は見つめあった。まるで運命の相手と巡りあったかのように、その瞬間は長かった。運命というか宿命かもしれない。宿命のライバルとやっと巡り会えた。みたいな感じだ。
「うちの兄に変なことをしたの、あんた?」
「この世界に存在しない技術を変なことと呼ぶのであれば、それは間違っていない。そしてそれは間違いなく私がやったことだ」
やはり黒猫は長文になると言葉が変になる。
「余計なことをしてくれたね。殺していい?」
「駄目だよ、死んでしまうじゃないか」
マゾヒズムの頂点は愛する相手との合体及び死であるらしいが、そんな人は少ないだろう。それに黒猫は妹のことを愛してなどいないだろうし、妹だってイエスという答えが帰ってくるとは想定していないだろう。
「でも殺す。あんたが憎い」
妹が右手を振りかぶろうとしたので、僕は左手で妹の右手を掴んだ。妹の右手は光らない。
「何、邪魔してくれてんの」
まるで家族を殺した奴を見るような目を、妹は僕に向けてきた。
「ここの穴が閉じたら、僕が穴の向こうの奴らに殺されてしまうかもしれないから」
誰だって自分の身は可愛い。殺されないためなら、妹の猫殺しを阻止することも厭わない。僕はそういう主義の持ち主だ。
「ところで穴から次のものがそろそろ出てくるけど、君たちはどうする?」
穴の向こうから細長い、虫のような足が出てきた。
僕は穴の向こうの存在に食べられない。しかし妹はそうではない。




