大都会のエアポケットと平日の釣り師の家庭について
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おじさんの周辺には僕達以外に誰もいない。
どうして誰も居ないのだろう。ここは横浜で大都会だというのに。僕は今まで勝手に、横浜というのは東京を凌駕するほどどこもかしこもおしゃれで一片の隙もない大都市でありどこを歩いてもデートスポットになるところだと思い込んでいたようだ。青髪の選んだ人通りの少ない、そして高架で高速道路が走っていて影が多い道を歩いているとここみたいなほとんど人のいない場所へとたどり着くこともあるのか。僕は今までそんなことにも気が付かなかった。
大体、どんな大都会だって人が全く住んでいないという場所はないし、高層マンションしか住む場所がないということもあり得ない。この高速道路の影が落ちている用水路っぽい川に並んでいる道は、振り返ってみれば安そうなビジネスホテルがあり、さらにその隣には生まれて初めて見かけるピンク映画専門の映画館があった。そこに張られていたポスターが五十路妻だの四十路の息子の嫁だのといった一体誰をメインターゲットに据えたのかわからないラインナップの……あ、おじいさんか。
そしてビジネスホテルの隣には一軒家が並んでいる。汚いとはいえ川を眺めることができる、結構いい立地である。さぞ土地代も高いんだろう。いや、高速道路から結構な轟音がひっきりなしに響いてくるから、この土地を売っても案外安値になってしまうのかもしれない。
そんなところだから、こんな用水路みたいな川で釣りをしているおじさんの姿にも僕は驚かなかった。周囲に驚いている人がいなかったからかもしれない。
「釣れますか?」
青髪はおじさんにそんなことを尋ねたが、ここは神田川みたいな緑色の川である。とても魚が住んでいるとは思えない。釣れたとしても、食べて大丈夫なんだろうか。いや、釣りを趣味としている人にとって魚とは純粋に釣る対象であって食べるためのものではないのかもしれない。そうじゃなきゃ普通は食べられないとされているブラックバス釣り専門の雑誌なんか創刊されるわけがない。
「たまにねえ」
おじさんはまるで釣りに興味がなさそうな口ぶりで答えた。その割にはポケットのたくさんついたジャケットを着ているし、釣った魚を入れるためなんだろう、バケツだって脇に置いてある。流石に釣り師がよく座っている小さな折りたたみ椅子は置かれていない。道路に自身のスポットを作るほど非常識な人ではないのだろう。大型車が通る可能性だってゼロじゃないだろうし。
「おっ」
おじさんの目が大きく開かれた。
「かかるんですね」
僕も思わず呟いた。釣り竿は大きくしなっていた。何かが食いついたのだ。
「結構泳いでるもんなんだよ」
おじさんは魚を釣り上げながら答えた。網とかを用意していないあたり、結構釣れるがあまり大きな魚はかからないようだ。多分おじさんは、本気で釣りに挑んでいるとかじゃなく、釣り竿を垂らしてぼんやりしたいんだろう。このおじさんが何があった結果釣りに行きついたのか知らないが、妄想を一つやってみる。家では自分以外の家族が跳梁跋扈しており自分の居場所や自分の時間というものが一切持てず、仕方がないので外に気を抜いて過ごす場所と時間を求めることにした。かと言って公園のベンチでぼんやりしていると、中年男性の場合それだけで不審者扱いされることがある。だから何かをやっている必要があった。それに一番適していたのが、近場で釣りをする、という選択肢だった。どうだろう。中年イコール悲哀という観点からの妄想である。本当はご家庭だってもっと円満で幸せな人生を送っているのかもしれない。
おじさんが釣り上げた魚は、僕にはなんなのかよくわからなかった。メバルかキンキかホウボウか、それらがどんな姿形をしているのかすらイメージ出来ない。というか全部海水魚だったような気がする。川で釣り上げた魚なんだから淡水魚だろう。淡水魚……鯉と金魚くらいしか思い浮かばない。
しかしその魚は青かった。川で鯉や金魚が釣れるわけがないので当たり前だ。そんな当たり前の顔をして釣り糸の先で暴れている魚の眼は怖かった。瞼がないから僕には魚の眼はみんなそんな風に見える。そして毒でも持っていそうな長くて太い牙が口の中にあった。他の魚を食い殺して生きていそうだ。
「なんて魚ですか?」
青髪が尋ねた。
「さあねえ。ここで釣った魚、調べたことないから」
そして釣り上げた魚は持って帰って適当に煮魚にして食べる、とおじさんは続けた。この川で釣った魚を食べるのか。まあ洗うだろうし、毒を持った淡水魚なんてほとんどいないだろうし、おじさんも健康そうだし、知らない魚は適当に煮て食べても大丈夫なんだろう。
「しかし怖い歯ぁ、してるね、こいつ」
鋭い牙を持った魚を釣り上げたのは初めてらしく、おじさんは物珍しそうに魚を針から外した。
次の瞬間、魚はおじさんの指を千切っていた。




