新しい感情の芽生えと食事に使うテクニックについて
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青髪の顔の作りは中性的であり、つまり美少女にも見える。
だから青髪が食事のために男を男子トイレに連れ込むために何をやったのか、それは容易に想像できる。用意に想像できるが、詳細を想像することはできない。そうされたことがないからだ。そうするとは一体何なのかというと、つまりは誘惑だ。青髪のなにものかは、その人間そっくりで人間の中でも美形に入るつくりの顔を活かして、適当な男を誘惑してトイレの個室に連れ込んだ。そして食べた。こうして過程を想像するのは簡単だが、誘惑されたことも食べられたこともないので具体的なセリフ運びや一体どこをタッチされたのか、などはわからない。
「誘惑されたいの、君?」
洗面台で血まみれの服を洗いながら青髪が尋ねてくる。その服はところどころ破れている。抵抗されて破れてしまった、というよりは、肉にたどり着くために食いちぎった、みたいな乱雑な破れ方だ。
「ああ、この穴はね、食い破る際に口に入っちゃったんだ」
「人間の服は食べられる、ということか」
「食べてなんかいないよ、すぐに吐き出してトイレに流したよ。まあ、飲み込んじゃうタイプもいるけど」
穴の向こうのものたちにとって、人間の服というのは食べ物についている邪魔な薄皮みたいなものらしい。みかんの薄皮を剥く派と剥かない派がいる、みたいなものか。
「そう、そういうことなんだ」
「ところで、どうして服を洗っているの」
血まみれの服なんかその辺に捨てておけばいいだろうに。少なくとも食事には使わないだろうし、ところどころ食い破られているから着ることもできない。
「何か使い道がないかなあ、と思って。僕みたいな存在にも所有欲が発生したらしいんだ、これって進歩だろう?」
自分が食べた人間の着ていた服に対して所有欲なんか発揮しても何にもならないんじゃないだろうか。
「例えば、これを紐状に束ねればロープになる。ロープ一本あれば、人間の動きをある程度封じることが可能だ。次の食事の際に便利になるかもしれない」
それならどこかでロープを調達したほうが早いと思う。
「他にも、『洗ったけど落ちきっていない血がこびりついている服』なんていう不気味この上ないものが廊下に落ちていたら、臆病な人間はそこから先に進めなくなる。引き返したところを狙えば、次の食事が円滑に始められる」
「それに使うなら洗わないほうがいいんじゃないか」
「血の臭いで近寄られなかったらこの手は使えない。こうして石鹸をこすりつけて、血の臭いはなるべく消して、っと」
しかしこうやって服を洗っている現場を誰かに見られたらどんなリアクションを取られるのか、それを想像していないわけじゃないだろう。もちろん僕は誰かが入って来そうになっても青髪に教えたりなんかしない。
「別にいいよ、今は満腹だし」
「しかし、不審者として出入り禁止になるかもしれない」
「ああ、それは関係ないよ。勝手に入っちゃえばいいんだし。そもそも僕には最初から、ここの敷地に入る資格なんてないんだから」
「青い髪っていうのは目立つよ。青髪を見かけたら連絡するように、という張り紙が貼られるかもしれない」
例えばトイレの、便器以外に排泄しないでください、という旨が書かれた張り紙の隣辺りに。
「この髪の色が問題になるなら、染めればいい話じゃないか」
どうやって染めるための道具を調達するのか、と尋ねるのは流石に愚問すぎるか。
僕はもう一度、ついさっき人間が食べられていたトイレの個室を覗き込んだ。見事に血が飛び散っている。骨すら残っていない。それも青髪が食べたんだろう。人間と変わらない大きさをしているあの身体のどこに、恐らく自分と同じくらいの大きさだったであろう人間一人を食べきって体型が変わらないだけのスペースが存在するのか。もしかしたら穴の向こうのものたちの体内にあるのは内蔵とかじゃなくてワープホールなのかもしれない。食べたものは身体を通じてどこかに繋がっているのだ。ワープホールの存在を否定することは、僕には既に不可能になってしまっていることだし、あり得ない話ではない。
「どうなんだろうね。僕達も自分たちの身体を掻っ捌いて見たことがあるわけじゃないし」
穴の向こうの存在の死体なら見たことがある。妹が教室に飛び込んできた巨大なカラスを一撃で仕留めた後には、その死体が残った。死体の体内には何があったか? 死体から何かがはみ出ていたりとかしていたか? 管っぽいものは飛び出していた。体液は赤くなかった。あとは、殴られた腹の部分が下に来るようにうつ伏せになって倒れていたのでわからない。
「妹なら穴の向こうのなにものかの体の中身を知っているかもしれない」
「僕達を殺しているからだろう? 聞きたくないな、虐殺者からは。それにそもそも、そんなに興味もない。僕達の中に生物学者はいないんだ」
自分たちの体内構造への興味を持っている動物は、地球上で人間だけかもしれない。いや、逆に、人間以外の動物たちは、自分たちの体内がどうなっているのか把握していて、人間だけが自分たちの体の中身がどうなっているのかよく知らないまま生きているのかもしれない。
「どうだろうね。僕たちは人間以外の生き物にはさして興味が無いからわからないけど、少なくとも僕たちは、自分の体の中がどうなっているかなんて気にはしないな」
「そもそもどうして人間しか食べられないのか、それを疑問に思ったことはある」
「ないね。人間以外は食べられない、それを知っているだけだ。恐らく、本能ってやつでね」
「本能」
まるで青髪を始めとした穴の向こうからやって来るものたちが、動物の一種であるかのような単語だ。
「僕はこれから汚しちゃったトイレの個室を甲斐甲斐しく掃除するつもりなんだけど、君はそんな光景をずっと見ているつもりなの?」
「いや、そこまでは」
興味を持てない。それに、もう急がないと次の講義が始まってしまう。一分や二分程度遅れたくらいで遅刻扱いにはならないだろうが、あの血まみれすぎるトイレの個室の掃除には十分や二十分はかかるだろう。そんなものをずっと見学していたら確実に遅刻扱いになる。講義室へ行こう。そもそも青髪の選択風景を眺めていたのもおかしいと自分でも思っていることだし。
というわけで、男子トイレを出た。
一歩だけ出た。一歩しか外に出られなかった。
それ以上歩くと、男子トイレの直ぐ側で仁王立ちしている妹のパンチの射程に入ってしまいそうだったから。




