巨大生物の後を追い、会話することについて
13(2).
死にたかったわけじゃない。
一つ目のなにものか、今までと違って明確に巨大な化け物という呼び名がマッチしているそれに、僕は左手を差し出した。黒猫に顔をぶつけられて以来、この左手には何かが起きている。何かが宿っているのかもしれない。しかし見た目には全く変化が見られない。どうして左手で触れたら妹の右手の発光を止められたのか、それもまだわからない。黒猫に尋ねれば教えてくれるだろうか。
一つ目の怪物は僕の左手を咥えた。その怪物は、目は一つだったが口も一つで、鼻も一つで耳はなく、のっぺりした逆三角形に顔と手足をくっつけた粘土細工のような形状をしていた。でも開いた口には牙があった。もしこの牙で差し出した左手を、手首から食いちぎられたら僕は数秒で失血死するだろう。
そんな、これをやったら死ぬだろうな、という妄想をすることがある。というか、電車のホームで毎日やっている。電車が来るたびに、ここに飛び込んだら確実に一瞬で僕は跡形もなく死ぬだろう、そして電車に遅延が発生して急いでいる人たちは舌打ちするだろう。僕の命なんてそんなもんだろうな、と毎朝妄想する。他人の命なんて舌打ちで済まされるものなんだろうな、という考えも持っている。本当に人の命が何よりも大切、と思っている人だったら、殺人事件のニュースを聞いただけで失神するんじゃないだろうか。だって人が死んだのにアナウンサーは冷静に報告しているから。まるでこれを言い終えることで事件が完了してしまうかのように、ニュースでは殺人が淡々と語られるから。
失血死する瞬間というのは、気持ちが良いのだろうか。飛び降り自殺の最中は脳がイカれてものすごく気持ちよくなるらしいが、その脳を循環する血液を失って死ぬのだ。やっぱり何も感じないんじゃないだろうか。ただ、手が痛い、それだけで終わってしまいそうな予感がする。
一つ目は僕の左手を、しばらく口の中で転がした。
「ぺっ」
そして吐き出した。さらに嫌そうな目を僕に向けた。
どうやら僕の左手はまずかったらしい。
しかし口の中で左手は舌でなぶられた感覚はあるのに、吐き出されたばかりの左手は少しも濡れていない。咥えられる前と同じく、乾いている。穴の向こうのなにものかには唾液というものがないんだろうか。いやでも穴の向こうのなにものかの一種である青髪は口を動かして言葉を発していた。唾液がなければ口から声を発することは難しいだろう。その辺りは個体差があるんだろうか。
僕の左手を吐き出した一つ目は、一瞥したあとは僕に興味を失ったかのように、鉄の建物に向かってのっしのっしと歩いて行く。その後ろ姿を見て何かを連想した。サイクロプスだ。あれよりも形状は人間っぽくないけれど、体格の大きな怪物らしい動きはしている。
一つ目は建物の外階段を登っていった。一歩登るごとに階段が軋む音を発てている。この階段も鉄製なんだが、やっぱり巨大なぶん体重もそれなりのものがあるのだろう。
そして階段を登り切った一つ目は、二階の屋内に通じるドアを開けた。どうしてこんなに一つ目に関する描写が続いているのかというと、僕が一つ目のあとをついていっているからだ。どうしてそんなことをしているのかというと、自分でもわからない。自分でも何をやっているのかわからない状態に陥ることは、子供の頃には割とあった。どうしてこんなに自分は親に従順なんだろう、とか。それと同じような感覚が、今の僕を襲っている。
一つ目が二階に入った。僕も二階に入った。空気がこもっていて、埃っぽい。死体や血の跡などは見当たらない。この建物は、数日前に妹の猫に連れてこられたものとは違うようだ。あの日は夜だったし、建物は三つとも同じ形状をしているのでこうして中に入るまで別の建物だと気が付かなかった。
一つ目は部屋の隅まで歩くと、床に腰を下ろした。この二階には長机と背もたれのない丸椅子がいくつも並んでいるのに、それらを全て無視して一つ目は部屋の隅にうずくまった。
「暇そうだね」
一つ目は目を閉じもせずにただじっとしていたので、僕はそんな言葉をかけてみた。
「満腹だ」
一つ目も言葉を解するらしい。そしてどこかで食事を済ませてきたところらしい。
「やっぱり人間を食べたの」
「それ以外に食べ物などあるか」
吐き捨てるように一つ目は答えた。人間しか食べられない自分の体質が憎い、とかだったらここからちょっとした悲劇が始まりそうだ。
「お前はまずい」
そして睨まれた。
「味の区別、つくんだ」
「お前だけがまずい。食べ物を身体が拒否したのは初めてだ」
僕は自分の左手の臭いを嗅いだ。昨日もシャワーを浴びたはずなんだけど。
「まぎらわしい」
「まぎらわしい、ってどういうこと」
「人間のふりをするな」
どうやら一つ目にとって食えたもんじゃない味の僕は人間じゃないらしい。僕は自分が人間だと思っているが、実は人間じゃなかった、とかだったら、きっと興奮するだろう。なんだか物語のメインキャラになれそうで。
「…………」
一つ目が立ち上がった。もう一回僕を食べることにチャレンジするのか、それとも部屋から出て腹ごなしの軽い運動でもするのか。
そのどちらでもなかった。
「げ、やっぱりお兄ちゃんか」
背後でドアが開き、妹が姿を表した。




