覆せない過去と現在について
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工場敷地内の鉄の建物はあまり広くもなく、扉の大きさから推測できる一階に比べて二階の天井は低い。恐らく一階が作業所で、二階は休憩所とかだったのだろう。しかし休憩所にしては窓がない。一体ここは何が行われるエリアなのだろうか。
などという推測は、もう無意味に終わる。と、猫は言った。これだけの死者が出ているのだから、この工場が何事も無く稼働を再開することはないだろう、と。
フロアいっぱいの食い散らかされた死体は、一つ残らず人間のものであり、つまりここでは何者かに人間が食い散らかされたということになる。人間の断面や人間の切れ端がフロアのどこに目を向けても転がっている。むせ返るような血液の臭いと肉の臭いと排泄物の臭いが交じり合っており、満腹時にここに入ったらすぐに吐いてしまいそうだった。
「間に合わなかったのだよ、主人は」
確認するが、猫の言う「主人」とは僕の妹のことである。妹が間に合えば、このようなことが起こらずに済んだ、ということになるのか。
「じゃあ、今日の大学で妹がやったことは、あれは間に合ったケースなんだ」
「ああ、その通りだ。貴君はこれを見て感じることは?」
「気持ち悪くて見ていたくないなあ、とか」
「それだけなのか?」
「じゃあ僕は、これを見て責任を感じればいいのかな」
「……恐ろしいな、貴君は」
「恐ろしいっていうか、わからないんだよ、僕がこれを見せられた理由が」
「こうならないために行動する責任が、貴君の妹にあるのだぞ」
「僕が妹を叱ればいいのかな。でも何をやっているのかもわからないし、どのくらい大変なことをやっているのかもわからない。だから僕がどうのこうのと口を出す理由はないと思うんだ」
「肉親なら心の支えになると思ったのだが、思い違いだったのか?」
「僕はね、確かに妹と同じ家で引っ越す前までずっと暮らしてきたけど、妹のことをほとんど知らないんだ」
「家族だぞ。そんなことがあり得るのか」
猫は驚いているようだが、実際にそんな家庭が僕達の周囲にはあったんだから、言葉で「そんなわけがない」などと否定しても無駄だ。肉親のことをよく知らないまま一緒に暮らし続けた家庭はここに実在する。それを今ここで覆すことはできない。
僕は二階から出た。ずっとあんなに死体だらけの部屋に居たって臭いだけだからだ。
「しかしさ、この光景は妹に見せないと意味がないんじゃない?」
僕と一緒に階段の踊り場に出た猫に言ってみた。
「そうだな」
猫は妹のほうを見た。
妹はまだ階段を上がってすらいない。階段の下でじっとしている。
「無理矢理にでも、上がってこさせるべきなのかな」
「私はそうするべきだと思っている。しかし私の体重ではそれは不可能だ」
だから、僕に無理矢理妹を二階まで引っ張りあげて欲しい、そして二階の凄惨な光景を見せて欲しい、と猫は僕に依頼しているのだ。
僕は階段を下りた。
「帰る?」
そして妹に問いかけた。
「帰る」
妹は工場の敷地から出ていこうとした。
「おい、待て!」
猫が叫ぶが、妹の足は止まらない。
「主人よ、あなたがやらなければ死体が増え続けるのだぞ!」
「わかってる」
妹は足を止めないまま答えた。
「わかってるから。それ以上うっさいと首を絞めるよ」
妹も、声色とは違って平静ではないらしかった。




