10話 自然の摂理
カナタがシスカに襲われると、周囲の人たちはワッ!と居なくなった。
シスカがどれくらい強いのか、昨夜広まった為だろう。
おかげでカナタは周囲に気兼ねすることなく、気楽にシスカの攻撃をさばき続けた。
しかし、そうしながらカナタは首をかしげていた。
襲われる理由が分からない。何か不味いことをしたのだろうかと悩んでいると。
「う、馬を……!馬を見たぞ!し、白い馬じゃったッ……!!」
シスカが爛々と輝く瞳で睨み付けながら言い放つ。
カナタは納得した。
シスカに襲われている最中なのに、ポンッ、と手を叩いたほどだ。
「ああ、バロゴンか」
「そうじゃああああああ!!」
返事と共に『拒絶』が飛んで来たが、カナタは意にも解さず、続けて突撃して来たシスカの攻撃を受け流して、ぽーいと放り投げた。
「思いついたのだから仕方ないだろう」
そうしながら言い放つ。
悪びれなど微塵も見せぬ様子のカナタに、シスカは一層形相を険しくする。
間もなく理性を無くすだろうと言うところまで来て、
「くきいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!――――ウッ?!」
突然、シスカが止まった。
「ん?」
てっきりまた突撃してくると思っていたカナタは、肩透かしを食らってしまった。
そしてシスカを見ると。
「グッ、ウッ、アッ……?」
あれ程真っ赤だったシスカの顔が。
見る見るうちに青白くなっていく。
その表情は疑問と苦悶に揺れ、小さな手で自分の腹を抑えていた。
シスカはそのまま、膝から崩れ落ちた。
「……どうした?」
尋常ではない様子のシスカに、カナタは俊敏に駆け寄った。
そして、びっしりと浮き出た脂汗に眼を剥いた。
「は、腹が……くっ……」
シスカは全ていうことが出来ず、苦しげに身を震わせた。
そして、戦いは終わったのかとぞろぞろと帰って来た人達に。
「医者呼んで来い!」
カナタの怒鳴り声が襲い掛かり、
「は、はい!」
一斉に走り出した。
カナタはとにかくシスカを横たえた。
動かして良いものなのか判断できなかったので、とにかく自分の服を床に敷いて、その上に寝かせる。
ぜぇぜぇと荒い息を吐き、苦悶し続けるシスカの様子に歯を食いしばっていると、医者より先に、フィトナが駈け込んで来た。
「シスカ!?何があった?!」
フィトナは倒れ伏すシスカを見て目を見開き、カナタに詰め寄った。
「わからん」
しかし、カナタも何故突然苦しみ出したのかわからないのだ。
「……こうなった経緯を話してくれ」
カナタはフィトナに、今までの経緯を説明した。
「では突然倒れたと?」
フィトナが疑わしげにカナタを見て来る。
「ああ」
「お前が何かやったんじゃないだろうな?」
途轍もない誤解である。
「そんな訳ないだろう」
流石に悪いと思っていたカナタは、反撃などしていない。
ではどういう理由なのか。
あるいは鬼特有の病気にでも感染してしまったのだろうかと、カナタとフィトナが悩んでいると。
「わ、わしは死ぬのか?」
血の気の失た顔のシスカが、か細く呻いた。
フィトナがハッ!と目を見張った。
弱り切り、己の最後を覚悟している瞳だったのだ。
「すまぬな、主様……くぅっ!ち、力になれぬで……。じゃが、主様ならば一人でも……」
シスカは健気にも笑みを浮かべた。
しかし苦しいのだろう、途中で何度もその笑顔は崩れてしまう。
「ああ……、わしも、もっと世界を見てみたかったのう……」
シスカは遠い目をして呟いた。
あの牢獄の様な洞窟を出て。
まだわずかな日数しか経っていない。
しかし、その間の出来事は、シスカにとって宝石の様に輝いていた。
甘いものを食べた。
変態に怒った。
美味しいものを食べた。
主様は格好良かった。
念願叶って、大人の女になれた。
ああ、でも、もっとこの光り輝く世界を生きていたい……。
「が、頑張るんだシスカ!」
フィトナはシスカの手を握り、必死にはげました。
シスカは、冷や汗塗れの顔で、全てを悟った優しい微笑みを浮かべるだけだった。
そして、ようやく医者が現れた。
「……その、私は人間の医者でありまして……。鬼の方のお体には」
医者はシスカを見て、途端に冷や汗を流し始めた。
「構わん。まずは診てやってくれ」
しかし、医療知識の無いものよりはまだ見込みがあるはずだ。
「……はい」
医者は気圧される様にして頷き、横たわるシスカに厳しい目を向けた。
「うう……」
丁寧に、迅速にシスカの容体を確認していく。
カナタやフィトナが見つめる中、医者はハッ!!と目を見開いた。
厳しい顔をして立ち上がり、
「カナタ様」
ごにょごにょとカナタに耳打ちをした。
それを聞くカナタの顔が歪んでいく。
「何か分かったのか?」
フィトナはシスカの手を握りしめながら、縋る様にカナタを見る。
滅多に目にしたことのない、カナタの顔を見てフィトナの顔が悲痛に歪んだ。
シスカもそれを察したのだろう。
「……主様には感謝しておる、よ……」
今際の言葉を吐き始めが。
カナタは、ひょいっとシスカを救い上げた。
「ウッ!?」
シスカの顔が苦痛に歪む。
「少しだけ我慢しろ」
カナタはそう言うと、後は全くシスカを揺らさず、滑る様に走っていく。
その速度の素早いこと素早いこと。
「分かったのか!?」
後を追うフィトナが引き離される程だ。
人一人抱えて、あんな走り方をしていると言うのに。
否、今はそれよりもだ。
カナタが、シスカを抱えたまま消えて行ったのは――
「トイレ……?」
フィトナは怪訝な顔を浮かべた。
カナタは、シスカをトイレに連れ込むと。
迅速にパンツを脱がせ、椅子にシスカをセットした。
いやらしいことをしようと言うのではない。
「ご、後生じゃあ……。せ、せめて最後は主様の腕の中で……」
パンツ脱がされても気付かぬほどに切羽詰まっているシスカは、己の天命を受け入れようとしていた。
「シスカ」
カアンタが、シスカの名を呼ぶ。
「……な、んじゃ……?」
微かに残った理性が、シスカの瞳に浮かび上がった。
「何があっても立つなよ。分かったな」
カナタは力強くそう言い切った。
「何を、言うて――」
そして、シスカの腹に一撃叩き込んだ。
「ぬん!」
ただ衝撃で震わせるだけの、攻撃とも呼べぬ攻撃だ。
通常ならダメージは無いだろう。
通常なら。
「はォウッ?!」
シスカの目が見開かれた。
「おお?!オッ、オオオオオォォ、グゥウウゥッ!」
新たな脂汗が、ドバッと溢れ出た。
ぐっぴー、ぎゅるるるる。
そんな音が、シスカのお腹から聞こえて来た。
直後に、カナタはトイレを飛び出した。
ドアを閉めて、しっかりと耳を閉じる。
「―――――――――――――」
ドア一枚向こうから、激しい戦闘を行っている雰囲気が。
それが下火になり、収まったタイミングで、カナタは耳を解放した。
そして、追いついていたフィトナの表情を見て、カナタも同じ顔で頷いた。
「楽になったか」
中に呼びかける。
「…………………………しにたい」
絶望に染まった声が返ってきた。
刃物を渡せば即座に自分の首を掻っ切りそうな声だ。
「左手に紙があるだろう。それでよく拭け。――手には付けるなよ?」
「…………」
返事は無かった。
中で拭く気配も感じなかったが、何かを見つけた気配だけは感じだ。
「全部終わったら右手にある水で流せ。それで終了だ。俺は外に居るが、分からないことがあれば、呼べ」
そう言って、カナタと、そしてフィトナも無言のままトイレから離れた。
「…………」
シスカが苦しんだのは、尿意と便意だった。
ウン千年間も無縁だったものに突発的に襲われたのだ。
そういえば、昨晩もモリモリと美味しそうに食事をとっていたことを思い出す。
あれだけ食べれば、さぞや立派な物が出ることだろうよ。
長い時間が過ぎ去り、やがて俯いたシスカがトイレから出て来た。
「………………」
地面だけを見て、覇気が欠片も感じられない。
それはそうだろう。
あれだけ騒いで、う○こしたら治りました、だ。
「あー」
フィトナは一瞬慰めようかと思ったが、止めた。
今何を言っても、彼女は傷つくだろう。
だからそっとしておくのだ。
何も言わない。
それも人の優しさ――
「食えば出るのは当然だ。気にするな。なあに、フィトナの奴も今朝は朝っぱらからでかい音を――」
優しさを理解できないキチガイが居た。いや、彼は正直者だっただけなのだ。
しかし、飛び火したフィトナは。
「死ぬうううええええええええええええええええええええええ!!!」
即座にカナタに襲い掛かった。
カナタはそれを難なくいなしながら、
「生理現象だろうが。まあ腹痛になれば神に祈りたくなると聞くし、シスカも仕方あるまい。次からは自分でうんk――」
「くたばりゃああああああああああああああああああああああ!!!」
シスカも襲い掛かった。
鎮圧されたシスカは引きこもった。
誰が呼んでも、何を言っても部屋から出て来なくなってしまった。
無理矢理連れ出すことは造作も無いが、それでは信頼関係に問題が発生するだろう。
そしてカナタは最終作戦を決行した。
部屋の前で、スイーツの甘い甘い匂いを漂わせまくった。
暫くしたら、我慢できなくなったシスカがそろそろと腕を伸ばしてきた。
そこで、イケメンオーラを発現させたカナタの攻撃だ。
結論から言うと、ちょろかった。
甘い言葉を囁いたらコロリだ。
以上が、シスカ事変の顛末であった。