第6話:アスタロト
今、アスガルドの城はセフィロードが攻めてくると兵士が報告してから慌ただしくなっていた。
「もうアスガルドは終わりだ!」
「軍の編成は迅速に進めよ!」
「神よ、我等を救い賜え…」
色んなことを言ってるけど、みんな、セフィロードに怯えてるんだ。
ボクもとても怖かった。
だって、この平和なアスガルドが戦場になってしまうかもしれないから。
「貴公をアスガルド王国の騎士に任命する」
王様はこんな事態でも律儀にもリーゼに騎士を授与するために略式で執り行ってくれてた。
色々なことをしてから騎士を授与する予定だったはずなのにちょっと残念だと思った。
でも、セフィロードが攻めてくるんだ。
きっと、王様はリーゼの戦場での働きを期待して略式で執り行ってでも騎士に任命したかったんだろう。
アインシュタイン家はアスガルドの守護神として、常に最前線で戦い抜いているのだから。
ボクに近づいてくる足音が聞こえる。
この足取りはリーゼだ。
リーゼはボクに近づき抱きしめてくる。
鎧を着ているのか、ごつごつとした感じでちょっと痛い。
「エテルナ、ついに私は騎士になったわ。これでアスガルドのために戦うことが出来る」
リーゼは感極まったかのようにボクに騎士になれたことを話してくれる。
ボクはリーゼが嬉しそうに話しているのを感じて少し複雑な気分になった。
だって、もうすぐリーゼは戦場に行ってしまうのだから。
「けど、私が一番守りたいのは君よ。私はエテルナの騎士なのだから」
リーゼはボクの両頬に手を添えてくる。
籠手をはめているためか、冷たかった。
「私は君がいるアスガルドを必ず守ってみせる。それがアインシュタイン家に生まれた者としての宿命だから」
リーゼは誇り高きアインシュタイン家の長女。
そして、ボクの大好きな気高い騎士。
ボクのためだったら、喜んで血に汚れてくれるんだろう。
ボクが望もうとも望まなくても…。
「だから、待っててね、私の愛しい天使…」
ボクの唇に柔らかいものが押しつけられる。
初めて出会ったときに交わしたキス。
そのときはリーゼはまだ騎士になっていなかった。
そして、これは騎士になったリーゼと交わす初めてのキス。
忠誠の接吻とは違っていた。
リーゼがボクを想っていることが唇を通して感じられたんだ。
戦場で手柄を立てなくてもいい。
ただ、無事に帰ってきて欲しい。
ボクとリーゼが帰るべき場所。
大好きな家族がいるアインシュタイン家に。
ボクは一人でアインシュタイン家で待つことになった。
けど、家の周りには無骨な足音と金属音が響いている。
ボクを護衛するための兵士が何人かいるんだ。
一人になるのはリーゼと出会って以来初めてだった。
そういえば、リーゼもボクがここに来る前は一人で家族の帰りを待ってたんだった。
リーゼはどんな気持ちで家族の帰りを待ってたんだろうか。
ボクにはリーゼのように戦う力が無いから戦場に出ることは出来ない。
凄くもどかしい気持ちになってしまう。
アインシュタイン家のみんなが楽しく騒ぐ声が聞きたい。
何よりもリーゼの声が聞きたかった。
目が熱くなってきた。
ボクは家の中を歩き回り、ある部屋に行く。
ボクはその部屋に入って、ある物を手に取る。
ボクの世界を広げてくれた宝物であるハープ。
リーゼは一緒に寝るとき、ボクによくハープを弾くことをせがんでいた。
ボクもリーゼにハープを弾いて聞かせるのが大好きだった。
ボクが弾いた後にいつも手を叩いて喜んでくれたからだ。
ボクはリーゼのために色んな曲を作ってきた。
曲を作る度にお父さんが楽譜に書き留めてくれる。
今では一冊の本が出来るくらいの量になってるらしい。
ボクはリーゼの部屋に行き、初めて作った曲を奏でる。
この瞬間だけボクは孤独を忘れることができた。
きっと、リーゼはボクの元に帰ってくる。
そしたら、またこの曲を聴かせるんだ。
リーゼに初めて聞かせた、この思い出の曲を。
どれだけ弾いてたんだろうか。
随分と時間が経った気がする。
そのとき、パンパンと音が聞こえてきた。
これは手を叩く音。
リーゼがボクの演奏が終わった後にいつもしてくれる拍手の音。
だけど、これはリーゼの拍手じゃない。
リーゼの拍手はもっと柔らかく、ボクの耳に心地よいものだった。
ボクは空気の流れが無いことに気づく。
それに家の外から聞こえていた無骨な足取りや金属音も聞こえない。
音が全く聞こえてこない。
僅かな空気の流れさえ感じることが出来なかった。
ボクの耳が壊れたんだろうか。
いや、さっき拍手の音が聞こえたからボクの耳がおかしいわけじゃない。
風が靡く音。
木々がざわめく音。
虫や鳥の鳴き声。
その全てが聞こえてこない。
全く聞こえてこないなんて有りあえない。
ボクは時が止まった世界に迷い込んだかのような気がした。
そんなとき、ボクがいるリーゼの部屋の中で空気の熱が急に上がってきた。
部屋の空気が渦を巻いたかのような不自然な流れになっているような感じだった。
空気の渦の中心に忽然と物体が現れたかのような感覚がする。
物体からは人間が発するような吐息が聞こえてくる。
ボクの前に人が間違えなく立っていた。
けど、足音も無くどうやってこの部屋に入ってきたのだろうか。
瞬間移動とかしない限り無理なことだ。
もしかして空間転移とかいう魔法を使ったからなのだろうか。
空間転移はある場所から違う場所へと瞬間移動する魔法のことだ。
ボクはこう見えても死んだお母さんから色々なことを教わっていた。
音楽や畑仕事、それに戦争や魔法のことも。
魔法には火、水、土、風、雷、光、闇とかの属性が有るらしいけど。
その中で光と闇の属性は最上位の属性魔法と呼ばれているらしい。
空間転移は闇属性の魔法だ。
ボクの前に立っている人は相当な術者なんだろう。
いったい何者なんだろうか。
けど、分かってることはもの凄く怖い雰囲気を持った人だということだった。
ボクは決して死なない体を持ってるけど、それでも痛みは感じるし、怖かったりもする。
「綺麗な音色だ。まるで天使が歌っているように聞こえたよ」
ボクはハープを抱きしめて震えた。
「そんなに怖がる必要はない。私は君の味方なのだからね」
正体不明の人はボクを怖がらせないような優しい声で話しかけてくる。
ボクの味方。
何を言ってるのだろうか。
ボクはこの正体不明の人と以前に出会ったことがあったのだろうか。
油断はできない。
何となくだけど、この人から嫌な感じがしたから。
ボクは貴方のことは知らない。
「確かに君は私のことを知らないだろう。初対面だしね。だが、私は君のことを知っているよ。この世の誰よりも深くね。エテルナ」
正体不明の人はボクの名前を知っていた。
なぜなんだろう。
「私と君は深い絆で結ばれているのだよ。申し遅れたね、初めまして、私は神聖セフィロード帝国所属最高神官にして、アスガルド王国侵攻軍司令官のアスタロト・ヴァンシュタインだ」
ボクは体の芯が冷えるような感じがした。
アスタロト・ヴァンシュタイン。
神の神託を受けて勢力を伸ばしているセフィロードの英雄的存在。
やっぱりボクと同じように神様から力を貰ってたということなのか。
「そうだ、私は神の神託を受けて力を得たのだよ。だけど君とは違う、神が私に下さったものは大いなる叡智」
大いなる叡智。
もの凄い知恵とか知識のことだろうか。
「私達の世界が創世される以前、神の世界が存在していたのだよ。そのときに神は叡智を、そして力を持って世界を支配していた」
アスタロトはまるで唄うように昔話を語りかけてくる。
「だが、神は自らの絶大すぎる力と膨大なる叡智に溺れてしまい、世界を滅ぼしてしまったのだ」
何だか壮大な話になってきた。
初めて知った。
ボクが住む世界以前に神様の世界が存在していたんだ。
「神は再び世界を創世し、二度と同じ過ちを犯さないように力と叡智を自らを似せて創造した者にそれぞれ分け与えて、世界を委ねたのだ」
神が自らを似せて創造した者は人間。
神の叡智を持っているのはアスタロト。
だったら、神の力を持っているものは…。
「君が神から授かった力は朽ちることのない不滅の肉体。そして、尽きることのない無限の力。力とは他者を治癒する力と分け与える力、そうではなかったかな?」
やっぱりボクは神の力を貰った者だということなんだろう。
ボクの対となる存在であるアスタロト。
これが神様が与えた大いなる試練なのだろうか。
ボクの耳に足音が近づいてくる。
アスタロトがボクに近寄ってきてるんだ。
後ずさろうと思ったけど、体が動かない。
香水の匂いがしてくる。
あれ、香水は女がつけるものだったような。
「私は女だよ。まさか男のような名前をしているから男だと思ったのかな?愛しいエテルナ」
まさか、アスタロトが女だったなんて。
ボクの背中に何かが回り、前に引き寄せてくる。
アスタロトに抱き寄せられているんだ。
「ふふっ、私は本当は男に生まれたかったのだが、今は女で良かったと思っているよ」
アスタロトの吐息がボクの顔にかかってくる。
リーゼとお母さん以外の女の人に抱かれたのは初めてだ。
けど、リーゼのように心地よい気分になれなかった。
まるで体に蛇が巻き付いたかのような悪寒がしてくる。
「こんなにも美しい男を愛することが出来るからね」
頬に何か生暖かいものが擦り付けられる。
アスタロトがボクの頬を舐めてるんだ。
とても気持ち悪い気分になって、顔を横にぶんぶんと振った。
「ん?別の女の味がするな。どうやら私の可愛い天使には害虫がたかっているようだね」
なんだと。
リーゼは害虫なんかじゃない。
ボクは必死にアスタロトの腕の中から逃げるため体を動かそうとした。
けど、アスタロトの腕は鎖のようにガッチリとしてボクを離さなかった。
「私と君は片翼の天使だ。二人で寄り添えば、天の頂まで飛び立っていけよう。そして、穢れた世界に大いなる光を照らすのだ。この私と共に…」
嫌だ。
ボクは貴方の片翼の天使じゃない。
ボクにはもうリーゼがいる。
ボクだけの誰よりも気高くて強い騎士がいるんだ。
アスタロトの腕がボクの背中に食い込むかのように締め付けてくる。
息が止まりそうで苦しい。
「なるほど、その害虫が君の片翼の天使というわけか。まあいい、いずれ君を汚す害虫を駆除し、私の手で清めてやろう」
ボクの唇に柔らかいものが押しつけられる。
ボクはアスタロトにキスされている。
まるでボクの唇を噛みちぎるかのような激しく荒々しい口づけ。
リーゼのように包み込むような優しい口づけなんかとは全然違う。
いつまでたったら唇を離してくれるのだろうか。
息が出来なくて苦しい。
「これはすまない。君の唇にも害虫の味がしたからな、つい激しくしてしまったよ。次に逢うときはもう少し優しくしてやろう」
そう言ってアスタロトはやっとボクを解放してくれた。
ボクは力が抜けたかのように床に座り込んでしまった。
腰が抜けてしまったんだ。
「間もなくアスガルドはこの地上から消え去り、君の居場所が無くなる。そして、思い知ることになるだろう。君には私だけしかいないということを…」
アスタロトは床に沈む込むボクに囁きかけるように言ってくる。
「今は私の代わりに妹が軍を指揮して、アスガルドに進軍している。ああ、妹というのは私の双子のアスタロテのことだ。私と違って実に女らしい妹だ。君が私の元に来たときには紹介してあげよう」
ボクは絶対に貴方の所に行ったりしない。
ボクはエテルナ・アインシュタイン。
アスガルドが誇る守護神の家の子供だ。
「ふふっ、勇ましい天使様だ。だけど、例え私が手を下さなくても君はいずれこの国から淘汰されることだろう。これは予言だ」
例え、世界中の人がボクを嫌ってしまってもリーゼだけはボクの味方になってくれるはずだ。
「ならば、その害虫に自分のことを包み隠さず話したのかな?自分は普通の人間とは違う存在であるということを…」
そうだ、ボクはまだリーゼに自分のことを全部話してない。
けど、リーゼはボクの騎士になったんだ。
だから、絶対に…。
「人は自分とは違う存在を決して認めようとしないものだ。君は必ず世界から弾き出されていく。そして、永劫の孤独と絶望を味わっていくのだ」
なぜだろうか。
ボクはアスタロトの言葉を否定することができない。
「だが、私は違う。なぜならば、私は君と同じ存在だからだ」
ボクはもう何も言えなかった。
「次に逢うときには君を必ず私のものにしてみせるよ。そして、私のためだけにハープを奏でてもらうとしよう。ではご機嫌よう、エテルナ。私の美しい天使よ…」
ふと空気が渦を巻くような流れを感じる。
アスタロトの息づかいが聞こえなくなった。
風の流れを感じるようになってきた。
護衛の兵士の無骨な足取りや金属音も聞こえてくる。
止まってた世界が動き出したかのような気がした。
アスタロトが去ったのだ。
ボクの体は汗でびっしょりとなっていた。
リーゼの部屋の中に微かだがアスタロトの匂いが混じってた。
ボクは唇に手を当てる。
アスタロトの唾液がついていた。
頬にも舐められた感触が残っている。
ボクはお風呂場まで走っていき、顔をごしごしと洗った。
何だか無性に悔しい気持ちになってしまった。
ボクの体から一刻も早くアスタロトの匂いを消したかった。
けど、体からアスタロトの匂いが消せてもアスタロトが言った言葉は消すことはできなかった。
ボクはみんなとは違う存在。
リーゼはそんなボクを受け入れてくれるのだろうか。
それでもボクの騎士でいてくれるのだろうか。
もう考えたくない。
リーゼ。
早く帰ってきて欲しいよ。
ボクをいつものように抱きしめて欲しい。
誰もいないアインシュタイン家でボクは声を上げて泣いた。