第11話:死の風
もうダメかもしれない。
大地が揺れていて、体が振り子のようにふらふらしている。
いつリーゼが地面の切れ端から手か離れてもおかしくない。
ボクとリーゼはこのまま地面に飲み込まれてしまうんだ。
「せめて…君…だけでも…」
ボクの手を強く握りしめている手が冷たくなってきている。
強く握りしめすぎて、手に血が通わなくなってるんだ。
血が通わなくなれば、手に力が入らなくなる。
いっそのこと、このまま離してくれればいいのに…。
「うああ…ああ…!」
リーゼはそれでも手を離さないように力を振り絞ろうとしている。
空高くからガラスが割れる音が盛大に響く。
ついに上空の結界がくだかれてしまったんだ。
もうアスガルド軍の命運は尽きようとしている。
ふと、体が浮く感覚に襲われる。
千切れそうなほど伸びきっていた腕が縮んだかのように楽になってきた。
「これはいったいどういうことなの?」
リーゼも不思議そうにしている。
ボクとリーゼは宙に体が浮いているんだ。
リーゼはボクの手を引っ張って、大地の割れ目から引き上げていく。
奇跡が起こったんだろうか。
「残念ながら奇跡は起こらないよ…」
聞き覚えがある声が耳に深く響き渡ってくる。
「君には奇跡は必要ないからね…」
この声はまさか。
「なぜならば、君自身が奇跡そのものなのだから…」
アスタロト・ヴァンシュタイン。
ボクと同じ神様から力をもらった存在。
神の叡智をもたらされた者。
「まさか、君が戦場に出ていたとはね。さすがだよ、私の予想を上回る出来事だ」
アスタロトはボクが戦場に出たことを喜んでるかの口振りだった。
何を企んでいるのだろうか。
「何者だ!名を名乗れ!」
風切る音がアスタロトに向かって響くが、それだけだった。
リーゼが剣をアスタロトに向けて威嚇してるんだ。
「おやおや、命を助けてあげた者に対して剣を向けるのが騎士のすることなのかな?」
リーゼの息が一瞬止まる。
そういえば、ここは戦場のはずなのに全然音が聞こえてこない。
まるで別の世界に行ってるようだ。
「ふふっ、私達のいる空間はこの戦場から遮断されているからだよ、愛しいエテルナ」
空間を遮断する。
そんなことが可能なんだろうか。
ボクは魔法のことは死んだお母さんからおしえてもらってるけど、空間を遮断する魔法なんて聞いたことがない。
「書物にすら記されていないような魔法も存在するということだ。空間が遮断されたことで弓矢や魔法が私達に届くことはないのだ」
本にも書かれたことが無い魔法も存在するなんて初めて知った。
「貴様!何者だ!」
リーゼはボクの体に腕を回し、庇うようにしてアスタロトに威嚇していく。
「やれやれ、羽虫のように五月蠅い小娘だ。そうか、君が私の美しい天使にたかる害虫なのか…」
アスタロトの声が低くなってくる。
空気が凍えるように冷たくなっていくのを感じた。
「生憎、害虫に名乗る名など持ち合わせてはいない。丁度良い、ここで害虫を駆除してやろうか…」
ボクはとっさにリーゼを庇うように前に出る。
もの凄く怖い雰囲気を出していた。
兵士さんが言ってたけど、これが殺気というものなのだろうか。
「ほう、君はその害虫を庇うというのか」
ボクはリーゼに目の前の女の名前を教えた。
ボクが教えた瞬間、リーゼの体が硬直したかのように止まった。
かなり驚いてるんだろう。
目の前にいる女こそが今戦っているセフィロードの総大将なのだから。
「まあいい、エテルナ。前に出会ったときよりもさらに美しくなったようだ。私はとても嬉しいよ」
ボクは嬉しくも何ともない。
だけど、助けてくれたことには感謝する。
「感謝する必要は無い。私が君を助けたかっただけだからね。最も、余計な害虫も助けてしまったことは不本意であるがな…」
「さっきからエテルナを知っているような口振りだが、何が目的だ!」
リーゼはアスタロトに食いかかるかのように詰問していく。
こんなにも怒ってるリーゼは初めてだ。
「君には関係ないことだ。それよりも良いのかな?アスガルドはもはや風前の灯火だ」
戦況はどうなってるんだろうか。
戦場から響くはずの音が全く聞こえないから分からない。
けど、リーゼが震えていて、息を止めている様子から危ない状況だということは分かる。
「貴様をここで討ち取れば、全てが終わる!」
リーゼが今でもアスタロトに斬りかかろうかと体が熱くなってきている。
「度し難い愚者の相手をするのは本当に疲れる。良いことを教えてやろう。君達がいう弓矢よりも速い武器の名は機関銃という。この世界よりも遙か未来の戦場で猛威を振るう兵器だ」
あの恐ろしい弓矢より速い武器は機関銃という名前の兵器だったんだ。
「そして、空を飛ぶ兵器は急降下爆撃機と呼ばれている。制空権を確保し、戦況を有利に進めていく極めて重要な戦略兵器だ。未来の戦場のほとんどがこの兵器によって勝敗の決め手となっていたのだ」
未来の戦場で使われた兵器。
未来の戦場で使うと言ってる兵器がなんで今その時に存在しているんだ。
「何が言いたいのだ,貴様は!」
リーゼの言うとおり、アスタロトは何が言いたいんだろうか。
「まだ分からないのか?例え私がいなくとも既にセフィロードには未来の兵器が幾重にもある。アスガルドはどの道、滅びの道しか残されていないのだ」
機関銃や急降下爆撃機のような兵器をセフィロードはたくさん持っている。
例え、ここでアスタロトを討ち倒しても、恐ろしい兵器がセフィロードから無くなるわけではないんだ。
「それでも、私達は決して諦めない!例え、どれほどに恐ろしい兵器でこようとも、決して屈したりはしない!」
アスタロトの言ってることは怖かったけど、リーゼは決して屈したりはしない。
リーゼはアスガルドが誇る戦女神なのだから。
「さすがはアスガルドの誇り高き騎士というべきなのか。だが、未来の戦場では紙屑にも劣るものだ。それを思い知らせてやろう」
アスタロトが何かを掴み、物を取り出すような仕草をしたのを感じた。
「何だ、それも貴様が言う未来の兵器というものなのか?」
「その通りだ。これは拳銃と呼ばれる物で先ほど紹介した兵器とは比較にならないほど稚拙な物だ。だが、稚拙だからこそ子供でも簡単に扱える。だからこそ、このように熟練した騎士でさえも…」
何かが破裂したかのような乾いた音が聞こえた瞬間、何かがボクに飛び散ってきた。
「これは…そん…な…」
リーゼの息が止まりそうな苦しい声。
だったら、散ってきたのは…。
リーゼの血。
「…簡単に殺すことができる…」
リーゼ。
リーゼ。
リーゼ。
リ。
ー。
ゼ。
何も聞こえない。
何も響かない。
何も無い。
リーゼ。
死んだ。
「心配しなくてもいい。急所は外したからね。ほら、よく耳を傾けてごらん…」
リーゼ。
聞こえる。
暖かい。
息づかい。
微かに。
命の音が聞こえる。
「治癒を早く施さないと本当に死ぬことになるがね…」
ボクは急いでリーゼの体に触って治れと念じる。
リーゼの息づかいが規則正しい間隔で聞こえてくる。
「エテ…ルナ…私は…」
いつものリーゼの声だ。
死ななくて本当に良かった。
「君の他者を癒す力は素晴らしいものだ。どれほど手遅れで、それこそ死の手前になろうとも命の輝きを取り戻せるのだからね…」
ボクは疲れたかのように眠ってしまったリーゼをそっと横たわらせて、アスタロトの方に向く。
許さない。
お前はリーゼを傷つけた。
決して許しはしない。
「先ほどの悲しみに満ちた顔も美しかったが、今の怒りと憎しみに満ちた顔もそそるものがあるな…」
ボクはお前を楽しませるための人形なんかじゃない。
「人形とは恐れ多い。君は自分がいかに偉大な存在であるのかをまだ理解していないようだね…」
ボクはボクだ。
エテルナ・アインシュタイン。
ただ、それだけだ。
「君の他者を癒す力も神の如き力だが、真に神成る力は他者に分け与える力。これこそが神が支配する世界を滅ぼした究極の力なのだ」
ボクの他者に分け与える力が神様が支配する世界を滅ぼした力。
「未来の兵器など君の力の前では玩具に等しいものだ。私が持つ神の叡智ですらも君の力の付属に過ぎないのだからね…」
何が言いたいんだ。
「つまりだ、君の神成る力を持ってすれば、容易くセフィロードを滅ぼすことが出来るのだよ」
ボクの力でセフィロードを簡単に滅ぼせてしまう。
何かもの凄く恐ろしいことだ。
ボクに本当にそんな力があるんだろうか。
「君にはその力がある。少し力の使い方を教えてあげよう。それで君の大切な居場所が守れるのだ…」
けど、セフィロード軍はアスタロトの軍隊のはず。
それなのに、どうしてボクにそんなことをいうんだろうか。
「どうということはない。君が戦場にいることを知らなかったとは言え、伝承魔法を使用した妹に対する摂関だと考えてくれればいい。それに代わりなら幾らでもいる。君はただ私の言うとおりにすればいいのだ…」
悪魔の囁きのように聞こえた。
けど、力の使い方が分かれば、みんなの命が救われるんだ。
ボクは決めたんだ。
みんなのためだったら喜んで悪魔にだってなってみせる。
『いいえ、君は悪魔なんかじゃないわ。私達の希望の天使よ。だから、君は君のままでいて。私の大好きなエテルナのままで…』
ごめんよ、リーゼ。
ボクはリーゼのいう綺麗な天使にはなれない。
悪魔になるしか、みんなを救えないんだ。
「では、始めようか…」
アスタロトがボクを抱き寄せ、唇に柔らかいものを押しつけてくる。
アスタロトとの二度目の口づけ。
前みたいに激しくない口づけ。
受け入れたくない気持ち良さを感じてしまう口づけ。
ボクの頭の中に声が響いてくる。
魔法を発動させるための呪文。
セフィロード軍を滅ばすための言葉。
アスタロトの唇がボクのそれから離れる。
「さあ、君の足下に無様に寝ている道具を通して念じるのだ。敵を滅ぼせ、と…」
ボクはふらふらとしゃがみ込み、寝ているリーゼに触れて念じていく。
セフィロードを滅ぼして。
「黒き…死の風…汝に……刃を…向けし…愚者共に」
寝ているはずのリーゼの口からリーゼだけど、リーゼでない声が聞こえてくる。
ボクの頭の中で聞こえた呪文を言っている。
やっぱりこんなことやりたくない。
けど、もう止まらない。
止まらないんだ。
止まってくれない。
止まって。
「……等しく…滅びを…もたらさん…」
「ス」
「ク」
「リ」
「ー」
「ム」
ぶつかり合う金属音が消える。
血飛沫の音が消える。
大地が揺れる音が消える。
壁にぶつかっていく音が消える。
大気を振るわす爆発音が消える。
ボクの世界から音が消えていく。
何もかもが消えていく。
戦場は風が泣くように寂しく吹いていて、血と汗と涙の匂いを運んでいた。
聞こえてくるのは鳥の鳴く声と羽虫が震える音だけ。
ボクとリーゼは抱き合うようにして大地に体を預けていた。