袁紹対公孫瓚
百九十年頃、華北で優勢だったのは、黄巾賊討伐で功が大きかった公孫瓚だ。
部下の厳綱、単経、田楷を冀州、兗州、青州の刺史に勝手に任じ、その上に乗っかっていた。
朝廷から正式に任命された冀州牧は、韓馥だった。
彼は臆病な人で、公孫瓚を怖れ、袁紹に牧の座を譲る。
このとき、袁紹は韓馥の配下にいた有能な智将、沮授と田豊を得る。このふたりが袁紹を飛躍させるのだ。
沮授は華北四州平定の計を袁紹に授ける。
百九十二年、袁紹と公孫瓚は冀州の界橋で激突する。
界橋とは、鉅鹿郡と清河国の境界を流れる清河に架けられた橋だ。
西の鉅鹿郡に、袁紹が率いた二万の歩兵、楯兵八百、強弩隊一千が陣を敷いた。
東の清河国では、公孫瓚の歩兵三万が方陣を組み、その左右で五千ずつの騎兵が突撃態勢を取った。
この騎兵隊は白馬義従と呼ばれ、公孫瓚軍の主力である。
白馬義従が突進した。
楯兵が抑止し、強弩が騎兵を薙ぎ払う。
袁紹の歩兵が橋を渡る。
乱戦になり、袁紹の本営が白馬義従二千に襲われるという危機的局面もあった。
田豊は袁紹を避難させようとした。
ここで、袁紹は意地を見せる。
「大丈夫たる者は前に向かって討ち死にするものだ。逃げ隠れして生き延びることなどできようか」
この袁紹は格好いい。
その後、袁紹軍は優勢に立ち、押し切った。
公孫瓚は逃走した。
袁紹軍は幽州涿郡に進出する。
公孫瓚はしぶとい。
涿郡巨馬水において、数万の袁紹軍を撃ち破り、八千人を戦死させた。
華北における袁紹と公孫瓚の攻防は長期戦となった。
鮑丘の戦いが勃発し、袁紹軍が勝利した。
公孫瓚は巨大な易京城に籠もり、屯田を行い、十年雌伏できる状況を整えた。
百九十五年、沮授は、漢の献帝を冀州鄴県に迎えることを提言する。
郭図や淳于瓊が、実権のない献帝に仕える必要はないと反対し、実現しなかった。
百九十六年、曹操が許都に献帝を招いて勢威を増した。
沮授の策の正しさが、袁紹にとって最悪の形で証明されたわけだ。
田豊は、曹操の地歩が固まる前に許都を襲撃し、献帝を奪い取るようたびたび進言したが、あやまちを認められない袁紹には、受け入れがたい作戦だった。
真摯な田豊は、対公孫瓚の作戦も提案しつづけた。
易京城は冀州易県にある巨城だ。
掘が十重、城壁も十重で、千の櫓が建っていた。
諸将は高い楼閣に住んでいた。
城の中心には高さ三十メートルの楼閣があり、公孫瓚はそこにいた。
兵は城内で農作業を行い、自給自足できた。
備蓄は三百万石あった。
袁紹軍は地下道を何本も掘削し、時間をかけて易京城を攻略した。
城壁をひとつふたつと破っていき、地中からじわじわ攻め込んで、最後は公孫瓚の楼閣の地下まで掘り抜いた。
彼が居住していた高楼は倒壊した。
ついに公孫瓚は自殺した。
この勝利には、沮授と田豊の貢献が大きかった。




