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走りと色の交差

 六月も終わりに近づき、陽射しは日に日に強さを増していく。

 陸上部の練習では、夏の大会に向けてメニューも厳しさを増していた。

 私はそのトラックを走りながら、自分の中の変化をはっきりと感じていた。


 ――前より、足が前に出る。

 身体の軽さというよりも、心の奥に「何かを表したい」という熱がある。

 その熱が、走りに力を与えていた。

 かつての私は、ただ「速くなりたい」としか思っていなかった。

 勝ちたい、記録を伸ばしたい、それだけだった。

 けれど今は違う。

 ――私の走りを、見てほしい。

 そう思ってしまう。

 誰に、とは言えない。だけど、絵の中で私を見ている人に、もっと伝えたい。

 言葉にできない気持ちを、走りで表す。

 それが今の私だった。



 放課後。

 私はまた美術室に立っていた。

 キャンバスに向かう先生の背中を見ながら、今日も自分を見せたいと願う。

 走っているときの感覚を、どうやって立ち姿に込めるのか。自分でもわからない。

 でも、それでもいい。

 私の奥の何かを、色に変えてもらいたい。


 「今日は……少し違うな」

 先生がそう呟いた。

 「えっ?」

 「姿勢に力がある。……何かあったか?」

 「……わかりません」

 正直に言えば、陸上の走りが変わってきたことなんて口にできなかった。

 でも、きっとそれが今の私に出ているんだ。

 そう気づいた瞬間、胸が熱くなった。


 先生は淡々と筆を動かしていた。

 いつもと同じ落ち着いた顔、感情を表に出さない声音。

 だけど、その筆先は――どこか、迷いながらも丁寧に進んでいる気がした。

 キャンバスに重ねられる色のひとつひとつが、ゆっくりと慎重に置かれていく。

 まるで「終わってほしくない」とでも言うように。

 先生自身も気づいていない、微かな揺れ。

 それを私は、ただじっと見つめていた。



 モデルが終わった後、私は自分でも驚くほど落ち着いていた。

 「お疲れ」

 先生のいつもの声。

 「……ありがとうございます」

 短く返しただけなのに、不思議と胸が満たされていた。


 私の走りと、私の感情が、絵の中でひとつになっていく。

 それを意識しただけで、次の練習が待ち遠しくなる。

 今まで怖かった「変化」が、今は嬉しくて仕方ない。

 私はきっと、このまま少しずつ変わっていく。

 その先に何があるのかは、まだわからない。

 でも、その「わからなさ」さえ、楽しみに思えていた。



 「ねえ澪」

 帰り道、美優が隣で小さく笑った。

 「最近、なんか顔つきが変わってきたよね」

 「えっ……そう?」

 「うん。いい意味で。前は自分のことでいっぱいって感じだったのに、今はちょっと……誰かを意識してる顔」

 心臓が跳ねた。思わず言葉を飲み込む。

 「な、何言ってるの」

 「ふふ、やっぱり図星だ」

 美優はそれ以上追及せず、前を向いたまま歩き出す。

 でも、その笑顔の奥にあるものを私は見逃さなかった。

 ――彼女は気づいている。私の変化に。



 夏の空気が濃くなり、蝉の声が少しずつ混ざり始める。

 変わっていく自分。

 その変化を受け止めようとしている美優。

 そして、淡々としながらも揺れを抱えたまま筆を進める佐伯先生。

 物語は少しずつ、新しい方向に進んでいく。

 その先に待つのは、きっと――。



 ――とある週末の放課後。

 課題を提出した後美術室を出た美優は、校門の近くで見慣れない男性に声をかけられた。

 無精ひげにラフなシャツ姿。軽薄そうに見えるけれど、不思議と親しげで憎めない笑み。

 「君、蓮の教え子か?」

 彼の口から飛び出した「蓮」という呼び名に、美優は足を止めた。


 ――佐伯先生に、親友?


 胸の奥に小さな好奇心が芽生える。

 それは、澪の変化と同じように、美優を新しい渦へと引き込もうとしていた。

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