走りと色の交差
六月も終わりに近づき、陽射しは日に日に強さを増していく。
陸上部の練習では、夏の大会に向けてメニューも厳しさを増していた。
私はそのトラックを走りながら、自分の中の変化をはっきりと感じていた。
――前より、足が前に出る。
身体の軽さというよりも、心の奥に「何かを表したい」という熱がある。
その熱が、走りに力を与えていた。
かつての私は、ただ「速くなりたい」としか思っていなかった。
勝ちたい、記録を伸ばしたい、それだけだった。
けれど今は違う。
――私の走りを、見てほしい。
そう思ってしまう。
誰に、とは言えない。だけど、絵の中で私を見ている人に、もっと伝えたい。
言葉にできない気持ちを、走りで表す。
それが今の私だった。
*
放課後。
私はまた美術室に立っていた。
キャンバスに向かう先生の背中を見ながら、今日も自分を見せたいと願う。
走っているときの感覚を、どうやって立ち姿に込めるのか。自分でもわからない。
でも、それでもいい。
私の奥の何かを、色に変えてもらいたい。
「今日は……少し違うな」
先生がそう呟いた。
「えっ?」
「姿勢に力がある。……何かあったか?」
「……わかりません」
正直に言えば、陸上の走りが変わってきたことなんて口にできなかった。
でも、きっとそれが今の私に出ているんだ。
そう気づいた瞬間、胸が熱くなった。
先生は淡々と筆を動かしていた。
いつもと同じ落ち着いた顔、感情を表に出さない声音。
だけど、その筆先は――どこか、迷いながらも丁寧に進んでいる気がした。
キャンバスに重ねられる色のひとつひとつが、ゆっくりと慎重に置かれていく。
まるで「終わってほしくない」とでも言うように。
先生自身も気づいていない、微かな揺れ。
それを私は、ただじっと見つめていた。
*
モデルが終わった後、私は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「お疲れ」
先生のいつもの声。
「……ありがとうございます」
短く返しただけなのに、不思議と胸が満たされていた。
私の走りと、私の感情が、絵の中でひとつになっていく。
それを意識しただけで、次の練習が待ち遠しくなる。
今まで怖かった「変化」が、今は嬉しくて仕方ない。
私はきっと、このまま少しずつ変わっていく。
その先に何があるのかは、まだわからない。
でも、その「わからなさ」さえ、楽しみに思えていた。
*
「ねえ澪」
帰り道、美優が隣で小さく笑った。
「最近、なんか顔つきが変わってきたよね」
「えっ……そう?」
「うん。いい意味で。前は自分のことでいっぱいって感じだったのに、今はちょっと……誰かを意識してる顔」
心臓が跳ねた。思わず言葉を飲み込む。
「な、何言ってるの」
「ふふ、やっぱり図星だ」
美優はそれ以上追及せず、前を向いたまま歩き出す。
でも、その笑顔の奥にあるものを私は見逃さなかった。
――彼女は気づいている。私の変化に。
*
夏の空気が濃くなり、蝉の声が少しずつ混ざり始める。
変わっていく自分。
その変化を受け止めようとしている美優。
そして、淡々としながらも揺れを抱えたまま筆を進める佐伯先生。
物語は少しずつ、新しい方向に進んでいく。
その先に待つのは、きっと――。
*
――とある週末の放課後。
課題を提出した後美術室を出た美優は、校門の近くで見慣れない男性に声をかけられた。
無精ひげにラフなシャツ姿。軽薄そうに見えるけれど、不思議と親しげで憎めない笑み。
「君、蓮の教え子か?」
彼の口から飛び出した「蓮」という呼び名に、美優は足を止めた。
――佐伯先生に、親友?
胸の奥に小さな好奇心が芽生える。
それは、澪の変化と同じように、美優を新しい渦へと引き込もうとしていた。