踏み出す色
六月の午後。美術室に足を踏み入れると、窓から射す光がキャンバスを柔らかく照らしていた。
あの独特の匂い――油絵具と木材と、乾きかけた画用紙の香りが入り混じる空気に触れると、胸の奥が少しざわめく。
二度目のモデル。
初めて立ったときの緊張よりも、今日は違う感覚があった。
――期待。
私のどこを、先生は描こうとするんだろう。前回の絵と、何が違うんだろう。
その思いが、心臓の鼓動を早めていた。
「今日も、頼んでいいか」
佐伯先生が軽く微笑んで、手にしていた鉛筆を回す。
「……はい」
返事をしながら、私は胸の奥に小さな熱を感じていた。自分の声が、いつもよりはっきり響いた気がする。
私は指定された位置に立つ。前回と同じはずなのに、今日は自分の中の感覚が違っていた。
肩の力を抜くと、視線が自然と先生に吸い寄せられる。
彼の眼差しは穏やかで、それでいて私を逃さない。見つめられることに慣れるはずがないのに、不思議と怖さはなかった。
――むしろ、もう少し見てほしい。
そんな気持ちが、胸の奥から小さく湧いてきて、私は自分で驚いた。
*
鉛筆が紙を滑る音が、静かな美術室に響く。
先生の指が止まるたび、視線が私に注がれる。
その瞬間、体が少しだけ反応する。無意識に背筋が伸び、目線が強くなる。
前よりもずっと、自分の姿を「届けよう」としている自分がいた。
ただ立っているだけでは足りない。もっと何かを――。
そう思ってしまうことに、胸の奥が熱くなった。
「……高城」
突然、名前を呼ばれて小さく肩が跳ねる。
「すごく、いい表情だ」
その声に、喉がひりついた。
褒められたことよりも、「見られている」ことがこんなにも強烈に心を揺さぶるなんて。
思わず言葉がこぼれそうになったけど、何を言えばいいかわからなかった。
代わりに、ほんの少しだけ唇を上げてみた。
それを見た先生が一瞬だけ目を細め、また黙って鉛筆を動かす。
その仕草に、胸がきゅっと掴まれた気がした。
*
モデルが終わると、私は深呼吸をした。思った以上に体が熱く、制服の下の肌が火照っている。
「お疲れ」
先生が柔らかい声で言う。
「……あの」
無意識に言葉が出た。普段なら言えないはずの一歩が、口からこぼれ落ちる。
「今日の私……前より、ちゃんと描けてましたか?」
聞いた瞬間、顔が熱くなった。何を聞いてるんだろう、私。
先生は少しだけ目を見開いてから、苦笑した。
「描けてるよ。君がそういう表情をしてくれたからな」
その言葉が胸の奥に突き刺さる。
私が、先生の絵を変えた――?
そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
*
その日の夜、美優に電話をした。
「ねえ澪、今日部活でさ……なんか顔が赤かったけど」
開口一番にそう言われて、思わず息が詰まる。
「えっ……別に」
「ふーん。なんか最近、ちょっと女の子っぽいよ?」
からかうように言われて、言葉を失った。
「……うるさい」
「ほら、図星でしょ?」
受話器越しの美優の声が、やけに楽しそうに響いた。
否定したいのに、できなかった。
私は確かに、何かに心を揺さぶられている。
その正体を言葉にするのは怖いけれど、隠そうとしても顔や走りに出てしまっているのかもしれない。
――変わっていく。
そう思うと、胸の奥がざわついて仕方なかった。怖い。でも、それ以上に。
その変化に触れるたび、どうしようもなくわくわくしている自分がいた。
*
次の日。再び美術室の前に立ったとき、私は深呼吸をした。
変わることが怖くなくなってきている。
むしろ、早くこの場所に立ちたいと願っている自分がいる。
――踏み出した足は、もう止められない。
私はドアを開け、美術室の光の中に足を踏み入れた。