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踏み出す色

 六月の午後。美術室に足を踏み入れると、窓から射す光がキャンバスを柔らかく照らしていた。

 あの独特の匂い――油絵具と木材と、乾きかけた画用紙の香りが入り混じる空気に触れると、胸の奥が少しざわめく。


 二度目のモデル。

 初めて立ったときの緊張よりも、今日は違う感覚があった。

 ――期待。

 私のどこを、先生は描こうとするんだろう。前回の絵と、何が違うんだろう。

 その思いが、心臓の鼓動を早めていた。


 「今日も、頼んでいいか」

 佐伯先生が軽く微笑んで、手にしていた鉛筆を回す。

 「……はい」

 返事をしながら、私は胸の奥に小さな熱を感じていた。自分の声が、いつもよりはっきり響いた気がする。


 私は指定された位置に立つ。前回と同じはずなのに、今日は自分の中の感覚が違っていた。

 肩の力を抜くと、視線が自然と先生に吸い寄せられる。

 彼の眼差しは穏やかで、それでいて私を逃さない。見つめられることに慣れるはずがないのに、不思議と怖さはなかった。


 ――むしろ、もう少し見てほしい。

 そんな気持ちが、胸の奥から小さく湧いてきて、私は自分で驚いた。



 鉛筆が紙を滑る音が、静かな美術室に響く。

 先生の指が止まるたび、視線が私に注がれる。

 その瞬間、体が少しだけ反応する。無意識に背筋が伸び、目線が強くなる。

 前よりもずっと、自分の姿を「届けよう」としている自分がいた。

 ただ立っているだけでは足りない。もっと何かを――。

 そう思ってしまうことに、胸の奥が熱くなった。


 「……高城」

 突然、名前を呼ばれて小さく肩が跳ねる。

 「すごく、いい表情だ」

 その声に、喉がひりついた。

 褒められたことよりも、「見られている」ことがこんなにも強烈に心を揺さぶるなんて。


 思わず言葉がこぼれそうになったけど、何を言えばいいかわからなかった。

 代わりに、ほんの少しだけ唇を上げてみた。

 それを見た先生が一瞬だけ目を細め、また黙って鉛筆を動かす。

 その仕草に、胸がきゅっと掴まれた気がした。



 モデルが終わると、私は深呼吸をした。思った以上に体が熱く、制服の下の肌が火照っている。

 「お疲れ」

 先生が柔らかい声で言う。

 「……あの」

 無意識に言葉が出た。普段なら言えないはずの一歩が、口からこぼれ落ちる。

 「今日の私……前より、ちゃんと描けてましたか?」

 聞いた瞬間、顔が熱くなった。何を聞いてるんだろう、私。


 先生は少しだけ目を見開いてから、苦笑した。

 「描けてるよ。君がそういう表情をしてくれたからな」

 その言葉が胸の奥に突き刺さる。

 私が、先生の絵を変えた――?

 そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。



 その日の夜、美優に電話をした。

 「ねえ澪、今日部活でさ……なんか顔が赤かったけど」

 開口一番にそう言われて、思わず息が詰まる。

 「えっ……別に」

 「ふーん。なんか最近、ちょっと女の子っぽいよ?」

 からかうように言われて、言葉を失った。

 「……うるさい」

 「ほら、図星でしょ?」

 受話器越しの美優の声が、やけに楽しそうに響いた。


 否定したいのに、できなかった。

 私は確かに、何かに心を揺さぶられている。

 その正体を言葉にするのは怖いけれど、隠そうとしても顔や走りに出てしまっているのかもしれない。


 ――変わっていく。

 そう思うと、胸の奥がざわついて仕方なかった。怖い。でも、それ以上に。

 その変化に触れるたび、どうしようもなくわくわくしている自分がいた。



 次の日。再び美術室の前に立ったとき、私は深呼吸をした。

 変わることが怖くなくなってきている。

 むしろ、早くこの場所に立ちたいと願っている自分がいる。


 ――踏み出した足は、もう止められない。

 私はドアを開け、美術室の光の中に足を踏み入れた。

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