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揺れ始める輪郭

 体育祭が終わった。

 梅雨が始まる前の、少し汗ばむ季節。校庭に残る白いラインは雨に消されるのを待っている。

 大縄にリレー、応援合戦。体育祭は毎年「クラスの団結を深める」という大義名分で、半ば強引に盛り上げられる行事だ。私はずっと、その空気が苦手だった。みんなで声を揃えて叫ぶことも、同じTシャツを着て記念撮影することも。自分がその場に混ざりきれていないのを、余計に突きつけられる気がしたからだ。


 でも――今年は少しだけ違った。


 クラスリレーのアンカーに指名されたとき、私はいつも通り無言でうなずいた。陸上部だから走るのは当然だし、断る理由もない。けれどスタートラインに立った瞬間、思いがけず大きな声援が飛んだ。

 「澪、がんばれ!」

 名前を呼ばれることがこんなに胸を熱くするなんて、私は知らなかった。走ることはいつも一人の世界だったのに、このときばかりは、誰かとつながっている感覚があった。


 ゴールを切ったあと、クラスメイトが一斉に駆け寄ってきて、背中を叩かれた。

 「やっぱ澪すげー!」

 「アンカー任せて正解だったな!」

 私はどう反応していいかわからず、ただ小さく「うん」と笑っただけだった。それでも、みんながその笑顔に満足しているように見えた。



 数日後の昼休み。教室の窓際で弁当を広げていると、美優が向かいに腰を下ろした。

 「澪、なんか最近ちょっと雰囲気変わったよね」

 唐突にそう言われて、私は箸を止める。

 「……変わった?」

 「うん。なんかさ、クラスの子と前よりちゃんと話すようになったっていうか。体育祭のあとから特に」

 美優はにやにや笑いながら、私の顔を覗き込む。

 「それに、澪って笑うと案外かわいいんだよね。普段クールっぽいからギャップってやつ?」

 「……かわいいとか言わないでよ」

 思わず顔を背けると、美優が楽しそうに笑い声を上げた。


 でも、彼女の言葉は少し胸に刺さった。自分が変わったなんて、私には実感がなかったから。

 「……変わったとしたら、それは……」

 思わず言いかけて口をつぐむ。美術室の空気、絵の具の匂い、キャンバスの前に立ったときの自分を思い出してしまった。

 モデルをしていることは、まだ誰にも話していない。あれは私の中だけの、秘密の時間だった。


 美優はそんな私の沈黙を読み取ったように、首を傾げる。

 「ふーん……なんか隠してるでしょ。澪って顔に出やすいんだから」

 「……別に何も」

 「ま、いいけど。私に隠すってことは、そのうち勝手にばれるやつだね」

 そう言っておかずをつまむ美優の目が、どこか鋭かった。



 午後の授業中、窓の外を見ていると、不意に昨日の美術室が頭に浮かぶ。

 鉛筆が紙をなぞる音、佐伯先生の落ち着いた声。

 私はただ立っているだけなのに、全身が緊張で強張っていた。

 でも――その緊張が、嫌じゃなかった。

 むしろ、そこに立つことで自分が誰かに必要とされていると感じられた。


 教室でクラスメイトの笑い声に混ざるときよりも、あの静かな空間で一人の人間として見つめられるほうが、ずっと安心できた。

 もしかしたら、それが今の自分に小さな変化をもたらしているのかもしれない。


 「澪、ノート写さなくていいの?」

 隣の美優が声をかけてきて、私は慌てて前を向く。

 「……だ、大丈夫」

 ペンを握りしめながら、心臓の鼓動が早まっているのを感じていた。



 放課後、陸上部の練習。グラウンドに吹く風は、昼間の熱をわずかに残している。スタートの合図とともに、私はトラックを駆け出す。

 走ることは、言葉のいらない自分の言語だ。苦しい呼吸も、足を打ちつけるリズムも、全部が「ここにいる」と証明してくれる。


 でも、今日は少し違った。走りながら、ふと頭に浮かぶ。

 ――先生は、私の走る姿を描いたらどうするんだろう。

 風を切る瞬間の表情を、あの人はどんな色で表現するんだろう。

 そんなこと、考えたこともなかった。

 絵に描かれる自分を想像するだけで、胸の奥がざわめいた。


 練習を終えてベンチに腰を下ろすと、美優がタオルを投げてきた。

 「はい、汗拭きなよ。……なんか今日、走り方も違った気がする」

 「え……?」

 「いつもは淡々と走ってる感じなのに、今日は……なんていうか、楽しそうだった」

 美優は汗を拭く私を見て、にやりと笑う。

 「やっぱり何かあるでしょ」

 「……ないってば」

 私は小声で反論したけれど、耳が熱くなるのを抑えられなかった。



 夜、ベッドに横になっても眠れなかった。

 美優に言われた「楽しそうだった」という言葉が頭に残っている。

 私の走りが変わったのなら、それはきっと美術室で過ごした時間のせいだ。

 佐伯先生は、私を“見ている”。

 走る私じゃなくて、立ち尽くす私を。

 その視線が私の中に何かを芽生えさせている。

 言葉にできない。

 けど、確かに何かが変わり始めている。


 ――もしかしたら私は、もう前の私じゃないのかもしれない。


 そんな予感を抱えたまま、私は静かに目を閉じた。

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