揺れ始める輪郭
体育祭が終わった。
梅雨が始まる前の、少し汗ばむ季節。校庭に残る白いラインは雨に消されるのを待っている。
大縄にリレー、応援合戦。体育祭は毎年「クラスの団結を深める」という大義名分で、半ば強引に盛り上げられる行事だ。私はずっと、その空気が苦手だった。みんなで声を揃えて叫ぶことも、同じTシャツを着て記念撮影することも。自分がその場に混ざりきれていないのを、余計に突きつけられる気がしたからだ。
でも――今年は少しだけ違った。
クラスリレーのアンカーに指名されたとき、私はいつも通り無言でうなずいた。陸上部だから走るのは当然だし、断る理由もない。けれどスタートラインに立った瞬間、思いがけず大きな声援が飛んだ。
「澪、がんばれ!」
名前を呼ばれることがこんなに胸を熱くするなんて、私は知らなかった。走ることはいつも一人の世界だったのに、このときばかりは、誰かとつながっている感覚があった。
ゴールを切ったあと、クラスメイトが一斉に駆け寄ってきて、背中を叩かれた。
「やっぱ澪すげー!」
「アンカー任せて正解だったな!」
私はどう反応していいかわからず、ただ小さく「うん」と笑っただけだった。それでも、みんながその笑顔に満足しているように見えた。
*
数日後の昼休み。教室の窓際で弁当を広げていると、美優が向かいに腰を下ろした。
「澪、なんか最近ちょっと雰囲気変わったよね」
唐突にそう言われて、私は箸を止める。
「……変わった?」
「うん。なんかさ、クラスの子と前よりちゃんと話すようになったっていうか。体育祭のあとから特に」
美優はにやにや笑いながら、私の顔を覗き込む。
「それに、澪って笑うと案外かわいいんだよね。普段クールっぽいからギャップってやつ?」
「……かわいいとか言わないでよ」
思わず顔を背けると、美優が楽しそうに笑い声を上げた。
でも、彼女の言葉は少し胸に刺さった。自分が変わったなんて、私には実感がなかったから。
「……変わったとしたら、それは……」
思わず言いかけて口をつぐむ。美術室の空気、絵の具の匂い、キャンバスの前に立ったときの自分を思い出してしまった。
モデルをしていることは、まだ誰にも話していない。あれは私の中だけの、秘密の時間だった。
美優はそんな私の沈黙を読み取ったように、首を傾げる。
「ふーん……なんか隠してるでしょ。澪って顔に出やすいんだから」
「……別に何も」
「ま、いいけど。私に隠すってことは、そのうち勝手にばれるやつだね」
そう言っておかずをつまむ美優の目が、どこか鋭かった。
*
午後の授業中、窓の外を見ていると、不意に昨日の美術室が頭に浮かぶ。
鉛筆が紙をなぞる音、佐伯先生の落ち着いた声。
私はただ立っているだけなのに、全身が緊張で強張っていた。
でも――その緊張が、嫌じゃなかった。
むしろ、そこに立つことで自分が誰かに必要とされていると感じられた。
教室でクラスメイトの笑い声に混ざるときよりも、あの静かな空間で一人の人間として見つめられるほうが、ずっと安心できた。
もしかしたら、それが今の自分に小さな変化をもたらしているのかもしれない。
「澪、ノート写さなくていいの?」
隣の美優が声をかけてきて、私は慌てて前を向く。
「……だ、大丈夫」
ペンを握りしめながら、心臓の鼓動が早まっているのを感じていた。
*
放課後、陸上部の練習。グラウンドに吹く風は、昼間の熱をわずかに残している。スタートの合図とともに、私はトラックを駆け出す。
走ることは、言葉のいらない自分の言語だ。苦しい呼吸も、足を打ちつけるリズムも、全部が「ここにいる」と証明してくれる。
でも、今日は少し違った。走りながら、ふと頭に浮かぶ。
――先生は、私の走る姿を描いたらどうするんだろう。
風を切る瞬間の表情を、あの人はどんな色で表現するんだろう。
そんなこと、考えたこともなかった。
絵に描かれる自分を想像するだけで、胸の奥がざわめいた。
練習を終えてベンチに腰を下ろすと、美優がタオルを投げてきた。
「はい、汗拭きなよ。……なんか今日、走り方も違った気がする」
「え……?」
「いつもは淡々と走ってる感じなのに、今日は……なんていうか、楽しそうだった」
美優は汗を拭く私を見て、にやりと笑う。
「やっぱり何かあるでしょ」
「……ないってば」
私は小声で反論したけれど、耳が熱くなるのを抑えられなかった。
*
夜、ベッドに横になっても眠れなかった。
美優に言われた「楽しそうだった」という言葉が頭に残っている。
私の走りが変わったのなら、それはきっと美術室で過ごした時間のせいだ。
佐伯先生は、私を“見ている”。
走る私じゃなくて、立ち尽くす私を。
その視線が私の中に何かを芽生えさせている。
言葉にできない。
けど、確かに何かが変わり始めている。
――もしかしたら私は、もう前の私じゃないのかもしれない。
そんな予感を抱えたまま、私は静かに目を閉じた。