体育祭、言葉にならない声
春の空は、やけに広い。
四月に始まった新学期は、まだ教室の空気が馴染み切らないまま五月に差し掛かっていた。
私の学校では、六月に入る前に体育祭が行われる。新しいクラスの親睦を深めるため――そんな建前の下に、準備は容赦なく進んでいった。
クラスメイトたちは、リレーのオーダーや応援の出し物、装飾の看板づくりに、毎日賑やかに声を飛ばし合っていた。
けれど、私はその輪に上手く入れなかった。
もともと、喋るのは得意じゃない。
感情を言葉にするのも、笑って応えるのも、苦手だった。
ただ「陸上部だから」という理由で、気づけばクラスのリレー選手に決められていた。
“澪なら速いでしょ”“頼むよエース”――そんな言葉が次々に飛んでくるたび、心がざわついた。
……私が走るのは、自分のためだ。
みんなを背負えるほど強くなんてない。
だけどそれを言葉にすることができなくて、ただ曖昧に頷くしかなかった。
*
「澪、顔、死んでる」
放課後、陸上部のトラックでスパイクを履き替えていると、美優が声をかけてきた。
彼女はいつものように軽口を叩きながらも、目だけは私の心を見透かすみたいに真剣だ。
「体育祭のリレーでしょ? 澪なら大丈夫だって。あんたが本気出したら、あのクラスには誰も敵わないんだからさ」
「……でも」
喉まで出かかった言葉は、風に散る。
“勝ちたい”とか“責任が重い”とか、色んな気持ちが混じって、結局うまく形にならない。
美優は呆れたように肩をすくめ、私の背中をぱしんと叩いた。
「わかってる。あんたが言葉にできないの、昔からでしょ。でも、走りで見せればいいんだよ。あんたはそうやって生きてきたじゃん」
その一言に、胸がじんと熱くなる。
私は本当に、彼女に救われてばかりだ。
*
体育祭当日。
五月の強い日差しがグラウンドに降り注ぎ、白線がまぶしく照らされる。
リレーが近づくにつれて、胸の鼓動が速くなった。
「高城、頼むぞ!」
「アンカーは任せた!」
クラスメイトの声が、背中に重くのしかかる。
私はただ、スタートラインに立ち、深呼吸した。
……言葉にはできない。
でも、私はここにいる。
走ることで、それを示す。
バトンを受け取った瞬間、世界が切り替わる。
視界は一直線にゴールだけを映し、風が頬を切り裂いていく。
観客の声も、仲間の叫びも、何もかも遠ざかる。
ただ走る。
速く、強く。
私の全てを、今、この瞬間に叩きつける。
ゴールテープを切った時、耳がじんと鳴っていた。
歓声が押し寄せ、仲間が駆け寄ってきて肩を叩いた。
「やった!」「高城すげえ!ぐんぐん差が広がっていくんだもんな!」――そんな声が飛ぶ。
でも私は、ただうつむいたまま、胸の奥に渦巻く感情を持て余していた。
“勝てて嬉しい”だけじゃない。
“応えられて安心した”だけでもない。
もっと複雑で、温かくて、涙が出そうになるような――そんな気持ち。
上手く言えない。
でも、それは確かに“私自身の気持ち”だった。
言葉が出てこない私の代わりに、美優が笑って肩を組んでくれる。
「ほら、顔上げなよ。……澪、ちゃんと届いてたよ。あんたの走り」
私は小さく息を吸い、夕日の中で目を閉じた。
言葉にできない感情が、少しだけ形を持った気がした。
“ここにいていいんだ”――そんな実感とともに。