"私がいた" という証
その日も、美術室の空気は、静かだった。
筆の音。絵の具の匂い。
先生は黙ったまま、何度も何度も、筆先をキャンバスに走らせていた。
私は、ただ立っていた。
いつものように、言葉もなく、目だけをまっすぐに前へ。
でも――その静けさが、今日は少しだけ違っていた。
先生の筆の音に、微かな“終わり”の気配が混ざっていたから。
いつもよりも、筆の動きがゆっくりで、丁寧で。
最後の輪郭を、慎重になぞるようにしているのが、わかった。
「……よし、終わった」
そう言って、先生は筆を置いた。
その言葉だけで、心臓が跳ねた。
「……完成、ですか?」
「うん」
先生は軽くうなずいてから、少しだけキャンバスを傾けてくれた。
そのとき、見えた。
私が――そこにいた。
*
絵のなかの私は、確かに、立っていた。
ただ立っているだけなのに、その目には熱があった。
足は地面を捉え、指先に微かな緊張が走り、
肩はほんの少しだけ硬く、でも、強かった。
何よりも、“目”。
あのとき、先生が言ったとおり。
走るときと同じような、何かを探すような目をしていた。
でも……それだけじゃない。
絵のなかの“私”は、私よりも私を知っているような顔をしていた。
ずっと見ないふりをしてきた感情が、そこには“色”として塗られていた。
たとえば、期待。
たとえば、寂しさ。
たとえば、誰かに見つけてほしいという、小さな願い。
私は、その全部を見てしまった。
「……これ、本当に……私?」
声が震えた。
自分の顔を見て泣きそうになるなんて、想像したこともなかった。
でもそれは、恥ずかしさでも照れでもなく――
初めて「私が、ここにいる」と、誰かに証明された気がしたからだった。
「……すごい、ですね。これ」
やっとの思いで出した言葉に、先生は軽くうなずいた。
「よかった。悪くはなかったな」
ただ、それだけだった。
特に感情を出すでもなく、喜ぶでもなく。
いつも通りの、落ち着いた声だった。
私は、それが少しだけ、さみしかった。
私の中では、何かが大きく動いていた。
自分の一部が、見つかった気がしていた。
それくらい特別な時間だったのに――
「この絵、どうするんですか?」
「展示には出さない。個人制作だから、保管しておくだけだ」
「……そっか」
何も残らない。
だけど、確かに“ここにあった”。
それだけで、じゅうぶんだったのかもしれない。
「じゃあ次は――」
先生が言いかけた言葉を、私は遮った。
「……先生。わたし、もう一度、描いてもらいたいです」
先生の手が止まった。
驚いた顔をするでもなく、静かに私の方を見た。
「どうして?」
どうして、なんだろう。
自分でも、うまく説明できなかった。
でも、絵の中の私は、確かに走っていた。
言葉じゃなく、“姿”で、自分を伝えようとしていた。
私は、あの絵の続きを見たくなった。
「まだ……私、描ききれてない気がして」
それは、言い訳だったのかもしれない。
でも、それはきっと、初めて自分の意思で紡いだ“言葉”だった。
先生は少し考えて、静かに微笑んだ。
「……そうか。じゃあ、もう少し付き合ってくれ」
その微笑みは、ほんの少しだけ優しかった。
**
最初は、ただの個人制作だった。
澪を描こうと決めたのも、突発的な衝動に近かった。
「走る姿の静止点を描いてみたい」と思っただけで、特別な意味はなかった。
だから、いつも通りに構図を決めて、下書きを起こし、形を取る。
それだけのことだった。
最初のうちは――。
*
描いていくうちに、違和感が生まれ始めた。
彼女の“目”を描くとき、筆が止まった。
形は取れている。バランスも間違っていない。
だが、そこに乗せるべき“色”が見つからなかった。
――なんだ、この目は。
見たままを描いているはずなのに、何かが足りない。
仕方なく一度、筆を置いた。
澪は、モデルとしてとても協力的だった。
口数は少ないが、こちらの指示にすっと従い、無駄な動きもない。
それなのに、なぜか“完成形”が見えなかった。
描けば描くほど、遠ざかる感覚。
普段ならもっと早く進める。もっと淡々と進む。
だが、この作品だけは違った。
*
「完成が近い」と感じた日もあった。
全体のバランスは整い、細部にかかる筆がゆっくりになっていった。
それが“丁寧に仕上げようとしている”と自覚したのは、しばらく経ってからだ。
――なぜ、こんなに慎重になっている?
描きながら、自分でも奇妙に思っていた。
筆先が微かに震えることがあった。
色を選ぶのに、無駄に時間がかかる日があった。
どこかで「完成させたくない」と思っているような――そんな錯覚すらあった。
……いや、違う。
この時間が終わることを、惜しんでいる。
そう、気づいてしまった瞬間があった。
毎日の放課後、誰もいない美術室。
夕方の光が傾き、静かに立つ澪を描く時間。
言葉は少ない。
でも、その静けさの中に、何かが確かに“流れて”いた。
言葉で交わすよりも、絵の中で触れているような感覚。
筆が、彼女の輪郭をなぞるたびに、自分の中の「日常」も少しずつ変わっていった。
これは“ただのモデル”ではない。
それは、認めたくなかった。
*
そして、完成の瞬間。
最後のハイライトを目に乗せ、筆を置いたとき――
自分の中でひとつ、切り離されていくような感覚があった。
「よし、終わった」
ただ、それだけの言葉だった。
感情を混ぜないようにした。
変に期待を持たせないように。
でも、澪の震える声が聞こえたとき、胸の奥が小さく軋んだ。
彼女にとって、この絵は特別だった。
自分にとっても、特別になってしまったことに――
気づかないふりをするしかなかった。
*
「……先生。わたし、もう一度、描いてもらいたいです」
その言葉が、想像よりもずっと胸に響いたのは、なぜだろう。
感情を出してはいけない。
教師としての立場。
過去の失敗。
守るべき一線。
でも、彼女がもう一度「自分を描いてほしい」と言ったその瞬間、
自分の中の“何か”が、ほんのわずかに傾いた。
「……そうか。じゃあ、もう少し付き合ってくれ」
自分でも気づかぬうちに、口元が緩んでいた。