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"私がいた" という証

 その日も、美術室の空気は、静かだった。


 筆の音。絵の具の匂い。

 先生は黙ったまま、何度も何度も、筆先をキャンバスに走らせていた。


 私は、ただ立っていた。

 いつものように、言葉もなく、目だけをまっすぐに前へ。


 でも――その静けさが、今日は少しだけ違っていた。


 先生の筆の音に、微かな“終わり”の気配が混ざっていたから。


 いつもよりも、筆の動きがゆっくりで、丁寧で。

 最後の輪郭を、慎重になぞるようにしているのが、わかった。


 「……よし、終わった」


 そう言って、先生は筆を置いた。


 その言葉だけで、心臓が跳ねた。


 「……完成、ですか?」


 「うん」


 先生は軽くうなずいてから、少しだけキャンバスを傾けてくれた。


 そのとき、見えた。


 私が――そこにいた。



 絵のなかの私は、確かに、立っていた。


 ただ立っているだけなのに、その目には熱があった。


 足は地面を捉え、指先に微かな緊張が走り、

 肩はほんの少しだけ硬く、でも、強かった。


 何よりも、“目”。


 あのとき、先生が言ったとおり。

 走るときと同じような、何かを探すような目をしていた。


 でも……それだけじゃない。


 絵のなかの“私”は、私よりも私を知っているような顔をしていた。

 ずっと見ないふりをしてきた感情が、そこには“色”として塗られていた。


 たとえば、期待。

 たとえば、寂しさ。

 たとえば、誰かに見つけてほしいという、小さな願い。


 私は、その全部を見てしまった。


 「……これ、本当に……私?」


 声が震えた。


 自分の顔を見て泣きそうになるなんて、想像したこともなかった。


 でもそれは、恥ずかしさでも照れでもなく――

 初めて「私が、ここにいる」と、誰かに証明された気がしたからだった。


 「……すごい、ですね。これ」


 やっとの思いで出した言葉に、先生は軽くうなずいた。


 「よかった。悪くはなかったな」


 ただ、それだけだった。


 特に感情を出すでもなく、喜ぶでもなく。

 いつも通りの、落ち着いた声だった。


 私は、それが少しだけ、さみしかった。


 私の中では、何かが大きく動いていた。

 自分の一部が、見つかった気がしていた。

 それくらい特別な時間だったのに――


 「この絵、どうするんですか?」


 「展示には出さない。個人制作だから、保管しておくだけだ」


 「……そっか」


 何も残らない。

 だけど、確かに“ここにあった”。


 それだけで、じゅうぶんだったのかもしれない。


 「じゃあ次は――」


 先生が言いかけた言葉を、私は遮った。


 「……先生。わたし、もう一度、描いてもらいたいです」


 先生の手が止まった。

 驚いた顔をするでもなく、静かに私の方を見た。


 「どうして?」


 どうして、なんだろう。

 自分でも、うまく説明できなかった。


 でも、絵の中の私は、確かに走っていた。

 言葉じゃなく、“姿”で、自分を伝えようとしていた。


 私は、あの絵の続きを見たくなった。


 「まだ……私、描ききれてない気がして」


 それは、言い訳だったのかもしれない。

 でも、それはきっと、初めて自分の意思で紡いだ“言葉”だった。


 先生は少し考えて、静かに微笑んだ。


 「……そうか。じゃあ、もう少し付き合ってくれ」


 その微笑みは、ほんの少しだけ優しかった。



**



 最初は、ただの個人制作だった。


 澪を描こうと決めたのも、突発的な衝動に近かった。

 「走る姿の静止点を描いてみたい」と思っただけで、特別な意味はなかった。


 だから、いつも通りに構図を決めて、下書きを起こし、形を取る。


 それだけのことだった。

 最初のうちは――。



 描いていくうちに、違和感が生まれ始めた。


 彼女の“目”を描くとき、筆が止まった。

 形は取れている。バランスも間違っていない。

 だが、そこに乗せるべき“色”が見つからなかった。


 ――なんだ、この目は。


 見たままを描いているはずなのに、何かが足りない。

 仕方なく一度、筆を置いた。


 澪は、モデルとしてとても協力的だった。

 口数は少ないが、こちらの指示にすっと従い、無駄な動きもない。

 それなのに、なぜか“完成形”が見えなかった。


 描けば描くほど、遠ざかる感覚。


 普段ならもっと早く進める。もっと淡々と進む。

 だが、この作品だけは違った。



 「完成が近い」と感じた日もあった。

 全体のバランスは整い、細部にかかる筆がゆっくりになっていった。


 それが“丁寧に仕上げようとしている”と自覚したのは、しばらく経ってからだ。


 ――なぜ、こんなに慎重になっている?


 描きながら、自分でも奇妙に思っていた。


 筆先が微かに震えることがあった。

 色を選ぶのに、無駄に時間がかかる日があった。


 どこかで「完成させたくない」と思っているような――そんな錯覚すらあった。


 ……いや、違う。


 この時間が終わることを、惜しんでいる。


 そう、気づいてしまった瞬間があった。


 毎日の放課後、誰もいない美術室。

 夕方の光が傾き、静かに立つ澪を描く時間。


 言葉は少ない。

 でも、その静けさの中に、何かが確かに“流れて”いた。


 言葉で交わすよりも、絵の中で触れているような感覚。


 筆が、彼女の輪郭をなぞるたびに、自分の中の「日常」も少しずつ変わっていった。


 これは“ただのモデル”ではない。

 それは、認めたくなかった。



 そして、完成の瞬間。


 最後のハイライトを目に乗せ、筆を置いたとき――

 自分の中でひとつ、切り離されていくような感覚があった。


 「よし、終わった」


 ただ、それだけの言葉だった。

 感情を混ぜないようにした。

 変に期待を持たせないように。


 でも、澪の震える声が聞こえたとき、胸の奥が小さく軋んだ。


 彼女にとって、この絵は特別だった。


 自分にとっても、特別になってしまったことに――

 気づかないふりをするしかなかった。



 「……先生。わたし、もう一度、描いてもらいたいです」


 その言葉が、想像よりもずっと胸に響いたのは、なぜだろう。


 感情を出してはいけない。

 教師としての立場。

 過去の失敗。

 守るべき一線。


 でも、彼女がもう一度「自分を描いてほしい」と言ったその瞬間、

 自分の中の“何か”が、ほんのわずかに傾いた。


 「……そうか。じゃあ、もう少し付き合ってくれ」


 自分でも気づかぬうちに、口元が緩んでいた。

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