目が泳ぐ
翌朝、教室に入った瞬間から、美優の視線が刺さっていた。
「あれ? 昨日、部活後ってすぐ帰った?」
「……いや、ちょっと寄り道」
「ふぅん?」
問い詰めるような目が、じわじわとにじり寄ってくる。
視線を逸らすと、美優はにやっと笑った。
「ねえ、顔赤い。なんかあったでしょ、絶対」
「なにも。暑いだけ」
「澪が“ちょっと寄り道”って言うときは、だいたい何かあるんだよ。……誰かと会ってた?」
言葉に詰まって、水筒のフタを開けるふりをした。
なのに、美優はさらに近寄ってきて、小声で囁く。
「……まさか、彼氏できた?」
「違う!」
思わず大声が出た。数人がこちらをちらっと見る。
「……マジで違うから。そういうんじゃない」
「そういうんじゃない、ってことは……“何か”はあったってことじゃん」
返す言葉が見つからない。
だから私は、ごまかすように教科書を出しはじめた。
美優には悪いけど……まだ、誰にも話したくなかった。
――だって、自分でもまだ整理できてないのに。
*
放課後のトラックは、風が強かった。
スパイクを履き替えて、軽くアップを始める。
ピッチを整えながら、心のどこかで、今日も“あの部屋”のことを考えていた。
――あの絵、どうなってるんだろう。
昨日、下書きの輪郭だけをチラッと見ただけ。
なのに、それだけで心がざわついた。
私の姿勢も、目も、ちゃんとそこに“あった”。
見られてる、描かれてるって実感が、じわじわ残ってる。
それは、練習中のフォームチェックとはまったく違っていた。
「澪、次400×3いくぞー!」
顧問の声に、思考が切り替わる。
走らなきゃ。
集中しなきゃ。
でも、ピストルの音と同時に走り出しても、
いつものようにスイッチが切り替わらなかった。
ふと、スタートの瞬間に感じた“見られてる感覚”が蘇った。
佐伯先生の視線。
無言の観察。
描かれる自分。
――変だな、私。
こんなにも誰かの目を気にしてるなんて。
でも、不快じゃなかった。
むしろ、どこかで期待してる。
どんな絵になるんだろう。
自分でも知らない“私”が、そこに映っていたら――
……そのとき、私は、初めて自分の未来が少しだけ見たくなった気がした。
*
練習が終わって帰り支度をしていたとき、美優が隣にやってきた。
「今日さ、美術室の前で佐伯先生と話してなかった?」
「えっ」
「遠くからだったけど、澪の姿見えた。……ほら、やっぱり何かあるでしょ」
「……なんにもないよ。ただ、ちょっと、モデル頼まれて」
「モデル⁉」
声が大きい、美優。
「声、でかい。……なんか、先生の制作で必要なんだって」
「え~! 美術部でもないのに、モデル? っていうか、それってもう――青春じゃん?」
からかわれてるのはわかってるけど、否定もできなかった。
なぜなら、自分のなかでその言葉を少しだけ肯定してしまっていたから。
――青春、か。
陸上にすべてをかけてきた私にとって、
それは“別の世界”の話だと思っていた。
でも、今は。
あの人の筆の先にいる私が、走ってるときとは違う感情を持ってる気がする。
それが何なのか、まだ言葉にはできないけれど。
*
次の日も、佐伯先生は「完成までもう少しかかる」と言った。
私はまたモデルとして、部活後に立った。
昨日よりも、少しだけ落ち着いて立てた気がした。
先生は絵に集中していて、私も無言のまま、ただ立っていた。
けれど、その沈黙が、居心地が悪くなかった。
走ってるときとは別の静けさ。
誰にも伝えたことのない感情が、ほんの少しずつ、先生の手のなかで形になっていく気がしていた。
――もうすぐ完成。
そう思うと、なぜだろう。
期待と同時に、胸の奥が、少しだけ怖くなった。
完成したとき、私はどんな“自分”を見せられるんだろう。