静かな午後
部活後の放課後。教室の窓の外は、まだ明るかった。
……行くべきじゃない。行ったってなんら日常が変化するわけじゃない。
そう思いながらも、気づけば足は美術室の前に立っていた。
別に、絵を描いてほしいわけじゃない。
モデルになりたいわけでも、興味があるわけでもない。
――じゃあ、なんで来たの?
わからない。
けど、あのときの先生の目が、ずっと頭から離れなかった。
まっすぐで、冷静で、でも……どこかあたたかくて。
私の「走り」じゃなくて、「私」を見てきた、あの視線。
ドアを開けると、佐伯先生は黙ってキャンバスを立てていた。
絵の具の匂いが部屋に充満していて、窓の外では蝉が鳴いていた。
「……来たんだな」
その一言だけで、心臓が少し跳ねた。
「べ、別に暇だっただけです。特に意味は……」
「言い訳しなくていい。助かる」
私の言葉を、まるごと受け流して、先生はイスを指さす。
「そこに立ってみて」と、何気なく言った。
立つ? 座るんじゃないの?
「その姿勢のほうが、君らしい。――走る前の、静けさがある」
なんでこの人、そんなことまでわかるの……。
私は言われたとおりに、イスの前に立った。
姿勢が落ち着かない。腕の置き場がない。目線も定まらない。
先生が描き始めると、鉛筆の音だけが響いた。
シャッ、シャッというリズムが、やけに耳に残る。
私はただ、立っているだけだった。
けど、なぜか緊張で汗がにじんできた。
「……なんか、変ですね。私、動いてないのに、走ってるときより緊張してます」
ぼそっとつぶやいた私に、先生が鉛筆を止めた。
「当然だよ。走るときは、君のルールの中で動いてる。
でも今は、君が誰かに見られる側だからな」
ドキン、とした。
“見られる側”。
その言葉が、喉にひっかかったまま、飲み込めなかった。
「……先生は、何を見て描いてるんですか」
「君の“姿勢”。あと、目」
「目……?」
「君の目は…何かを探してる目をしてる。
何を探してるのかまでは、まだわからないけど」
私は、答えられなかった。
本当は、ずっと探してた。
誰かにちゃんと、私自身を見つけてもらえる日を。
私の走りじゃなく、記録じゃなく、高城 澪を見てくれる人を。
けどそんなこと、口に出せるわけがない。
「……別に、何も探してないです。集中してるだけ」
「そうか。なら、いい目だ」
また鉛筆の音が静かに響く。
なんなんだろう、この人。
言葉が少ないのに、こっちの内側を掬い取ってくる。
しかもそれを、絵にしようとしてる。
私は、描かれるって、こんなに落ち着かないことだったんだって、初めて知った。
でも、逃げたいとは思わなかった。
このまま何も言わずに立ってるほうが、
誰にも気持ちを話さなくていいと思ってた私には――
逆に、楽だったのかもしれない。
*
その日、モデルとして描かれた初めての絵は、
まだ輪郭だけしかなかった。
でも私は、それだけでもわかった。
この人は、私の“外側”だけを見てるんじゃない。
――たぶん、私の“心のかたち”まで描こうとしている。
怖い。でも、少しだけ、楽しみでもある。
私が言葉にできない感情を、先生はどんな色で塗るんだろう。