スタートラインの外で
スタートラインに立つとき、私はいつも一人だった。
もちろん、周りには他の選手がいて、応援の声も飛び交ってる。
でも、それでも。私は一人だった。
ピストルの音が鳴る前の、数秒間の静けさ。
あの沈黙の中に、自分の全部を詰め込む。
怒りとか、焦りとか、悔しさとか。
誰にも見せたくない気持ちを、ぎゅっと息にして飲み込んで、
スタートの合図と同時に、トラックへ叩きつける。
走ってるときだけは、自分でいられた。
私は、そういう人間だった。
*
「澪、次の大会、400に出られないかって言われてるんだけど」
練習終わり、トラックの隅で水を飲んでいた私に、顧問が声をかけてきた。
蒸し暑い空気の中で、体に染みついた汗が重たい。
「……400? 無理です。私、短距離しかやりませんから」
「いや、でも澪の走りって、後半伸びるじゃん? 持久力あるし、さ」
私は黙って顧問を見た。何を言われても、気持ちは変わらなかった。
100と200が、私の“世界”だ。
それ以外に興味はない。だって私は、そんなに長く走れない。
走ってる時間が長ければ長いほど、頭が言葉を探しはじめるから。
――だから、私は短距離じゃないとダメなんだよ。
けどそんなこと、いちいち口に出さない。言ったところで、理解なんてされない。
*
クラスでは、一応“そこそこ話すタイプ”のポジションにいる。
無口すぎず、目立ちすぎず、軽音部の桐原美優と一緒にいることで、バランスが取れている感じ。
美優は明るくて、ちょっと軽くて、だけど本気で人のことを見てる子だ。
恋バナ大好きで、私の恋愛事情を根掘り葉掘り聞いてくる。
「絶対、澪にも春は来るって! 体育会系×文化系ってエモいじゃん!」とかよく言ってる。
私は恋とか、そういうの、よくわからない。
誰かに自分の気持ちを“好き”って伝えるのが、こわい。
言ったら最後、何かが変わってしまいそうで。
だから、私はいつも走って逃げてた。
人間関係も、家庭のことも。
母親はずっと忙しくて、会話は業務連絡ばかり。
家に帰っても、静かすぎる空気に耐えきれなくて、私は走るように外へ出る。
走ってるときだけは、自分のことを、好きでいられる気がした。
*
――それは、あの日も同じだった。
授業の合間、私は水を買いに行こうとして廊下を歩いてた。
ふと見つけた“立ち入り禁止”の張り紙。けど、ドアは半開きだった。
「……誰もいないなら、ちょっとだけ」
体育館の裏側のような、その部屋は、美術準備室だった。
ホコリっぽいけど、不思議と静かで落ち着く。
美術のことなんてよくわからないけど、絵の具の匂いは、悪くないと思った。
そのときだった。
「立ち入り禁止って書いてあったよな?」
ドキッとして振り返ると、そこにいたのは、無表情の男。
細身で長身。白シャツに黒いジャケット。目の奥だけが妙に静かで冷たい。
――佐伯 蓮、先生。
「あ……すみません、あの、ドアが開いてて……」
「言い訳はしなくていい。別に怒ってるわけじゃないから」
呆れたような、でもどこか優しい声だった。
私はその場から出ようとしたけど、彼はふと、こちらに視線を戻して言った。
「……君、陸上部だよな?」
「……はい?」
「走ってる姿、何度か見た。変な言い方になるけど、君のフォーム、絵になる」
唐突にそんなことを言われて、何かの勧誘かと思った。
でも先生の目は、まっすぐで、からかいも下心もなかった。
「モデルになってみる気はある?」
「……は?」
「いや、強制じゃない。ただ、もし興味があれば、って話」
何もわからないまま、私はその場で立ち尽くしていた。
でもそのとき、少しだけ胸が騒いだ。
あの人の目が、
“速さ”じゃなくて、“私自身”を見ていた気がして。
誰かに、こんなふうに見られたのは初めてだった。
なんだろう、この感覚。
わからない。でも、嫌じゃなかった。
たぶん、走ってるときに感じる“高揚”と似ていた。
*
それが――佐伯 蓮との、最初の出会いだった。
私はこのときまだ、自分の中で何が始まったのかも知らなかった。
これから訪れる感情の嵐も、
描かれることで揺さぶられる心も、
そして、
「好き」という言葉をやっと伝えるまでに、
どれだけの距離を走らなきゃいけないのかも。