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スタートラインの外で

 スタートラインに立つとき、私はいつも一人だった。


 もちろん、周りには他の選手がいて、応援の声も飛び交ってる。

 でも、それでも。私は一人だった。


 ピストルの音が鳴る前の、数秒間の静けさ。

 あの沈黙の中に、自分の全部を詰め込む。


 怒りとか、焦りとか、悔しさとか。

 誰にも見せたくない気持ちを、ぎゅっと息にして飲み込んで、

 スタートの合図と同時に、トラックへ叩きつける。


 走ってるときだけは、自分でいられた。


 私は、そういう人間だった。



 「澪、次の大会、400に出られないかって言われてるんだけど」


 練習終わり、トラックの隅で水を飲んでいた私に、顧問が声をかけてきた。

 蒸し暑い空気の中で、体に染みついた汗が重たい。


 「……400? 無理です。私、短距離しかやりませんから」


 「いや、でも澪の走りって、後半伸びるじゃん? 持久力あるし、さ」


 私は黙って顧問を見た。何を言われても、気持ちは変わらなかった。


 100と200が、私の“世界”だ。

 それ以外に興味はない。だって私は、そんなに長く走れない。

 走ってる時間が長ければ長いほど、頭が言葉を探しはじめるから。


 ――だから、私は短距離じゃないとダメなんだよ。


 けどそんなこと、いちいち口に出さない。言ったところで、理解なんてされない。



 クラスでは、一応“そこそこ話すタイプ”のポジションにいる。

 無口すぎず、目立ちすぎず、軽音部の桐原美優と一緒にいることで、バランスが取れている感じ。


 美優は明るくて、ちょっと軽くて、だけど本気で人のことを見てる子だ。

 恋バナ大好きで、私の恋愛事情を根掘り葉掘り聞いてくる。

 「絶対、澪にも春は来るって! 体育会系×文化系ってエモいじゃん!」とかよく言ってる。


 私は恋とか、そういうの、よくわからない。

 誰かに自分の気持ちを“好き”って伝えるのが、こわい。

 言ったら最後、何かが変わってしまいそうで。


 だから、私はいつも走って逃げてた。


 人間関係も、家庭のことも。

 母親はずっと忙しくて、会話は業務連絡ばかり。

 家に帰っても、静かすぎる空気に耐えきれなくて、私は走るように外へ出る。


 走ってるときだけは、自分のことを、好きでいられる気がした。



 ――それは、あの日も同じだった。


 授業の合間、私は水を買いに行こうとして廊下を歩いてた。

 ふと見つけた“立ち入り禁止”の張り紙。けど、ドアは半開きだった。


 「……誰もいないなら、ちょっとだけ」


 体育館の裏側のような、その部屋は、美術準備室だった。

 ホコリっぽいけど、不思議と静かで落ち着く。

 美術のことなんてよくわからないけど、絵の具の匂いは、悪くないと思った。


 そのときだった。


 「立ち入り禁止って書いてあったよな?」


 ドキッとして振り返ると、そこにいたのは、無表情の男。

 細身で長身。白シャツに黒いジャケット。目の奥だけが妙に静かで冷たい。


 ――佐伯 蓮、先生。


 「あ……すみません、あの、ドアが開いてて……」


 「言い訳はしなくていい。別に怒ってるわけじゃないから」


 呆れたような、でもどこか優しい声だった。

 私はその場から出ようとしたけど、彼はふと、こちらに視線を戻して言った。


 「……君、陸上部だよな?」


 「……はい?」


 「走ってる姿、何度か見た。変な言い方になるけど、君のフォーム、絵になる」


 唐突にそんなことを言われて、何かの勧誘かと思った。

 でも先生の目は、まっすぐで、からかいも下心もなかった。


 「モデルになってみる気はある?」


 「……は?」


 「いや、強制じゃない。ただ、もし興味があれば、って話」


 何もわからないまま、私はその場で立ち尽くしていた。

 でもそのとき、少しだけ胸が騒いだ。


 あの人の目が、

 “速さ”じゃなくて、“私自身”を見ていた気がして。


 誰かに、こんなふうに見られたのは初めてだった。


 なんだろう、この感覚。

 わからない。でも、嫌じゃなかった。


 たぶん、走ってるときに感じる“高揚”と似ていた。



 それが――佐伯 蓮との、最初の出会いだった。


 私はこのときまだ、自分の中で何が始まったのかも知らなかった。


 これから訪れる感情の嵐も、

 描かれることで揺さぶられる心も、

 そして、

 「好き」という言葉をやっと伝えるまでに、

 どれだけの距離を走らなきゃいけないのかも。

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