プロローグ
走るのは、簡単だった。
スタートの合図を聞いたら、あとは身体が勝手に動いてくれる。
頭なんて、空っぽでいい。ただ、ゴールまでまっすぐに、全力で。
でも。
――伝えるのは、難しい。
気持ちとか、感情とか、好きとか。
そんなものを言葉にするのは、怖くて、恥ずかしくて、上手くできない。
私はいつも、走ることでしか自分を表現できなかった。
怒ったときも、泣きたいときも、嬉しいときも。
全部、スパイクを履いて、トラックに叩きつけた。
そんな私が――
あの美術室で、初めて“走れない場所”に立った。
*
「……君、走る子だよな?」
そう言ったのは、美術の佐伯先生だった。
無表情で、声も低くて、何を考えてるのかさっぱりわからない人。
でもその日、なぜか放課後の美術室にいた私に、唐突にそう言った。
「モデルになってみる気はある?」
は? 何それ。走るのと関係ないし。
そう思ったのに、なぜか断れなかった。
たぶん――あのとき、私のことを“まっすぐに見た目”が、嘘じゃなかったから。
私のことなんて誰も見てないって思ってた。
記録や順位ばっかり気にされて、“私自身”には誰も興味なんてないって、ずっと思ってた。
なのにあの人は、私の「速さ」じゃなくて、私の「目」を見てきた。
まるで、絵に描くみたいに。
あの時から私はずっと、走ってる。
心の中で、叫ぶみたいに。
――先生、私をちゃんと見てよ。
――私は、ここにいるんだよ。
言葉にできないこの想いを、
いつか、あなたに届くように。
学園あいすとーりーはじめました