はじめまして、日本
ガタン、と音がした。音? 私は死んだはずなのに。なぜ音が聞こえるの? イヴォンヌは驚いた。ゆっくり、彼女は目を開けた。目に飛び込んできたのは白い天井。どうやら寝転がっているらしい。ここはどこかしら。イヴォンヌは起き上がった。すぐに何か柔らかいものの感触が背中に伝わり、身体に掛かる柔らかな布の重さを感じた。どうやらベッドに寝かされていたらしい。イヴォンヌはふと布団から目を逸らし、部屋を見回した。そして目を疑った。見たことのないものがたくさんあった。
「あれ!起きたんですね!」
ガチャリと部屋の奥のドアが開いて女性が現れた。どうやらさっきの音は彼女が立てた音らしい。綺麗な黒髪黒目の女性だった。彼女の言語はイヴォンヌの知らない言語だったが、何故かイヴォンヌにはその言語が理解できた。
「あなた、昨日私の家の前に転がってたんです」
女性は手に持ったお盆を近くに机に置きながら言った。
「すごく綺麗なドレスでしたけど、海外のコスプレイヤーさんか、何かですか? 昨日はアニコミがあったと伺って。それにいらした人が熱中症で行き倒れてるのかなと思って。あ、海外の方なら日本語で言ってもわからないか……」
「いいえ、あなたのいうことは大体分かるわ。でも、あにこみ? こすぷれいやー? それはなんのことかしら? そしてここはどこなの? なんていう場所なの?」
イヴォンヌは困惑しながら聞いた。黒髪の女性イヴォンヌの発言には目をまんまるにした。
「え、ここは日本ですよ。日本語ペラペラなのに日本を知らないんですか?」
「にほん? 聞いたことがないわ。私もそのにほんごを喋っているの? わからないわ。あなた、マグレード王国を知らない?」
「マグレード王国っていう国は無いと思いますけど……ちょっと待っててください」
女性はズボンのポケットから何か小型の板を取り出すと、それをいじり始めた。何をしているんだろう、とイヴォンヌが不思議に思っていると女性が板から顔をあげた。
「マグレード王国っていう国は見当たらないですね……」
イヴォンヌは途方に暮れた。自分は一体どこへ来てしまったのだろう。というより死んだのではなかったのか。
「……あの、1つ思いつく事があるんですけど、」
黒髪の女性がおずおずと口を開いた。
「あなたにとって、そのマグレード王国というのはあなたが暮らしていたところ、なんですよね」
「ええ、そうよ」
イヴォンヌは頷きながら答えた。
「で、ここはあなたにとって知らない場所。でも私にとってはマグレード王国の方が知らない場所で、こっちの方が知ってる場所……一個だけ考えはあるんですけど……私たちの世界に転移してきた、とかないですかね」
女性はイヴォンヌをまっすぐ見つめて言った。
「てんい? それはなんなの?」
イヴォンヌの問いに、黒髪の女性は少し考えてから説明を始めた。
「転移っていうのは、簡単に言うと……ある世界から、まったく別の世界、異世界に突然移動する現象のことなんです。ネット小説とかアニメとかによくある設定なんですけど……」
「ねっと……? あにめ……?」
女性はうーんと言って首を傾げた。
「アニメは動く絵のことですね。絵を少しずつずらして描いてそれを高速で差し替えことで動いてるように見えるんです。ネットは……説明が難しいですね。世界中の専用機器を繋いでいろんな事ができる仮想空間とでも言いましょうか。……ちょっと難しいですよね」
「いえ、大丈夫よ。とてもわかりやすい説明だったわ。つまり……私にとっての『現実世界』はこの世界の『異世界』であって、私はあなたたちにとっての『異世界』から『現実世界』にやってきてしまった……そういうことかしら?」
「たぶん、そうです。……うーん、証明が難しいですけど……あ、そうだ。たとえば、魔法とかって使えますか?」
「私の世界では使えるものだったわ。その言い方からしてこちらの世界ではないものなのね」
イヴォンヌは優秀なマグレード王国では優秀な魔法の使い手だった。
「そうなんです。ためしに使ってみてくれませんか?」
イヴォンヌは魔力を手に集中させて、光を灯そうとした。が、できなかった。魔力はあるが、何かつっかえを感じる。
「できないみたい。魔力は感じるけれど、放とうとすると枷みたいなものを感じるわ」
イヴォンヌの返事に女性はうんうんと頷いた。
「この世界規格に合わせられているんでしょう。予想通りです」
「私のようにこの世界に違う世界から人がやってくることはよくあるの?」
イヴォンヌが聞くと女性は首をふるふると振った。
「そもそも転移というのも大体は創作物の中で出てくる、想像のお話なんです。しかも、お話の中ではこっちから知らない世界にいくのが普通でして……この場合は逆転移とでも言うんですかね。だからイヴォンヌさんも転移してきたことは人には言わない方がいいと思います」
「そうなのね……わかったわ。そういえば先ほどネットやアニメのものだと言っていたわね……」
「ええ、現実にはならないことだと思われてますね。今でも私も半信半疑ですが、状況的に説明がつくものはこの説しかないですし。それにしても、転移してきたんだとしたら、この世界に転移してきたきっかけとか何かわかりませんか?」
女性はベッドに腰掛けながら聞いた。
「……」
俯き黙るイヴォンヌに、女性は慌てたように言った。
「言いたくないようなことでしたら全然言わなくていいです!」
「ありがとう、優しいのね」
イヴォンヌは笑った。他人から気遣ってもらえるには久しぶりだった。
「私は、凛って言います。桑田 凛です。あの、あなたの名前も教えてもらってもいいですか……?」
「もちろんよ。私はイヴォンヌ・スチュアード。マグレード王国ではスチュアード公爵家の長女だったわ。イヴォンヌと呼んでちょうだい。」
「イヴォンヌさん、公爵令嬢だったんですね……」
「それはもう過去の話よ。こちらの世界のことではないわ。だからあなたもそう畏まらないで」
「分かりました。ところでイヴォンヌさんはこれからどうしたい、とかあるんですか?」
「分からないわ。私、この世界のことを何も知らないもの」
「ですよね。で、そこで提案なんですが、とりあえずはうちで暮らしたり、とかどうですか」
「それはっ……! そんなの申し訳ないわ」
「でもイヴォンヌさん、このままだと確実に困りますよ。あ、それとももしかして、こんな狭い部屋でこんな奴と暮らすのはしんどい、とかですか?」
「そんなわけないじゃない!凛はこんな奴じゃないわ!」
狭い部屋は否定しないんだ、凛は苦笑しながら言った。
「じゃあ住んじゃいましょうよ。ちょうど私も最近退屈だったんです。同居人ができれば楽しそうですし」
「本当に……?」
「ええ」
「……できるだけ早く自立するわ」
「そんなに気にしなくていいのに」
こうしてその日からイヴォンヌと凛の不思議な同居生活が始まった。