第14話:再編版 無慈悲な善
機械的な電子音が、等間隔に鼓膜を揺らす。
鼻の奥を、知らない薬品の匂いがツンと刺激した。
(……うるさい……。くさい……)
思考が、ぬるま湯に浸した綿のように鈍い。
重たい瞼をこじ開けると、視界いっぱいに、無機質な白い天井が広がっていた。
蛍光灯の光がやけに眩しくて、思わず目を細める。
(……どこ…?)
その瞬間、あの夜の記憶が奔流となって脳内に叩きつけられた。
男の歪んだ笑顔。「貧弱なんすね」という嘲り。腹を抉るような痛み。アスファルトの冷たさと、鉄の味。そして、薄れゆく意識の中で聞いた、老夫婦の悲鳴と、けたたましいサイレンの音――。
「――っ!」
飛び起きようとした身体に、内側から楔を打ち込まれたような激痛が走り、思わず呻き声が漏れた。
自分の腕に刺さった点滴の管と、着せられた薄っぺらい病衣が、ここが病院であることを雄弁に物語っていた。
(まずい……!)
安全な場所だと安堵するより先に、背筋が凍るような恐怖が這い上がってくる。
一体、どれくらい時間が経った?
私の身元は? 財布は? 警察は、どこまで調べている?
思考がパニックに陥りかけた、その時だった。
静かに病室のドアが開き、白衣の女性が入ってくる。年の頃は三十代半ばだろうか。
彼女は私の目が開いていることに気づくと、少し驚いたように、しかしすぐに柔和な笑みを浮かべた。
「あら、気がついたのね。よかったわ……本当に」
看護師と名乗った彼女は、手際よく私の体温や血圧を測りながら、優しい声で語りかける。
「もう大丈夫よ。あなたは二日前に、ひどい状態でここに運ばれてきたの。今は集中治療室からは出られたけど、まだ絶対安静にしてないとだめよ」
私は、彼女の言葉の一部を、どうしても理解したくなかった。
「……ふつ、か……まえ…?」
「そうよ。覚えてないかしら。だから、今日が何曜日かわかる?」
喉が張り付いて、声が出ない。
二日前。
私があの路地裏に倒れたのは、確か日曜日の夜だったはずだ。
だとしたら、今は?
「……火曜、日……?」
「そう、正解。しっかりしてるわね」
看護師の褒め言葉が、耳に届かない。
火曜日。
つまり、丸二日が、過ぎている。
ユナメラは? あの子は、あのアパートで、たった一人で、二日間も?
十分で帰るって約束したのに。
今頃、どうしているだろう。私が死んだと思っているかもしれない。あの小さな部屋で泣いて……、いや案外ゲームしてるかも。
食事は不要だし、代謝という概念もないからお風呂入らなくてもいいから安心……。
その瞬間、より直接的な恐怖が私の脳を焼き、私の顔色はみるみる悪くなっていく。
(待って。二日間? 私の身元がもし割れていたら、警察は捜査のために、あの部屋に行ったのでは……? ユナメラは、警察に、見つかった……!?)
心臓が、氷の塊になったように冷えていくのを感じた。
私の表情の変化に気づいたのか、看護師が気遣わしげに私の顔を覗き込む。
「大丈夫? 気分が悪い? 先生を呼ぼうか?」
「……いえ……」
か細く首を横に振るのが精一杯だった。
そんな私を見て、看護師は何かを察したように頷くと、安心させるように言った。
「そうよね、不安よね。あなたが目を覚ましたこと、担当の警察の方に連絡しておくわね。あなたのことを、すごく心配していたから」
その善意の言葉が、私に死刑執行のカウントダウンを開始させた。
警察。
これから、ここに来る。
私の名前を、身元を、家族を、根掘り葉掘り聞き出す人間が。
看護師が「すぐ戻るわね」と病室を出ていく。
残された私は、迫り来るタイムリミットを前に、激痛の走る頭で、この地獄から抜け出すための仮面を必死に作り始めていた。
~~~~
それから、永遠のようにも感じられる三十分が過ぎた頃。
ドアをノックする音に、私は強張る身体を無理やりリラックスさせ、か弱く怯える被害者の仮面を顔に貼り付けた。
「失礼します。お身体の具合は、いかがですか」
入ってきたのは、あの日私を保護してくれたらしい、人の良さそうな警官だった。
彼は私の顔色がまだ悪いことを見て取ると、無理をさせないように、当たり障りのない質問から始めた。
襲ってきた男の見た目は? 何か恨みを買うような覚えは?
私は記憶を辿りながら、時折言葉を詰まらせ、涙を滲ませながら、完璧に「協力的な被害者」を演じきった。
警官は私の言葉に何度も頷き、「辛いことを思い出させてすまない」と、同情的な視線を向けてくれる。
(……ユナメラのことは、何も言われない。家に警官が行ったなら、何か聞かれるはず。もしかして、まだ私の家は割れてない…?)
警官との会話が続くにつれ、私の心に、僅かな、しかし確かな希望の光が差し込み始めていた。
このまま、当たり障りのないことを話して、隙を見て退院できれば…。
一通りの事情聴取を終え、警官は「大変でしたね。ゆっくり休んでください」と席を立った。
私は、この最大の危機を乗り切ったのかもしれないと、張り詰めていた息を、気づかれないように、そっと吐き出した。
――その、瞬間だった。
病室を出て行こうとした警官が、ふと何かを思い出したように振り返る。
そして、それまでの同情的な態度に、少しだけ、父親が娘を諭すような、真剣な色を混ぜて切り出した。
「大変だったところ、こんな話をするのは心苦しいんだが……。君の身の安全のために、もう一つだけ、確認させてほしい」
その真剣な眼差しに、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
警官は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「君のアパートで待っていた、金髪の彼女のことだ。我々が事情を話しても、彼女は一言も発さなかった。ただ、まるで人形のように無表情で、こちらをじっと警戒した目で見つめるだけでね。身分証も、持っていないようだった」
彼の声は、どこまでも優しい。だが、その目の奥には、プロとしての鋭い光が宿っている。
「単刀直入に聞こう。彼女は、一体何者なんだ?君は、何か厄介事に巻き込まれてはいないか? 今回の事件と、彼女は何か関係があるんじゃないか?」
警官の言葉は、全て私を気遣ってのものだ。
私が、これ以上危険な目に遭わないように。
その善意が、痛いほど伝わってくる。そして、その善意こそが、今の私にとって最も恐ろしい刃だった。
「……いえ。あの子は、ただの友達で……。事件とは、関係ありません」
震える声で答えるのが、精一杯だった。
警官は、私の答えに納得していないようだった。彼は重い溜息を一つ吐くと、決心したように言った。
「……そうか。君がそう言うなら、今はそれを信じよう。だが、君がそうやって誰かを庇って、また危険な目に遭うのは、俺は見ていられない」
警官は、力強く、しかし諭すように、言った。
その言葉は、どこまでも優しかった。
だからこそ。
「だから、手を打たせてもらった。彼女は今、警察署で一時的に保護させてもらっている。」
「あそこなら安全だ。君の身体が完全に治って、事情をきちんと話せるようになるまで、我々が責任を持って彼女の面倒を見る。いいね、これも、君のためなんだ」
その、善意に満ちた言葉の意味が、わからなかった。
この物語はリアリティを大事にしています。




