第十三話:再編版 幸せは掴ませない
首を掴む万力が解かれ、ほんの一瞬、肺に空気が戻る。
だが、安堵する暇さえなく、私の腹部に燃えるような鈍い衝撃が突き刺さった。
「カハッッ……! ごふっ…!」
胃の内容物が、灼熱の塊となって喉を逆流してくる。
くの字に折れた身体は無様にコンクリートの上を転がり、路上に胃液と、鉄の味のする血をまき散らした。
後頭部を打ったのか、世界がぐわんぐわんと歪んでいる。全身の骨という骨が、砕けたガラスみてぇに軋んでいた。
霞む視界の中で、男が楽しげに私を見下ろしている。その顔が、ひどく、ひどく憎らしい。
「ハハッ、やっぱり貧弱なんすね。だから俺が鍛えてやるって言ってるんすよ。俺がいなきゃ、あんたはダメなんすから」
何を言っている。何を。
ああ、そうだ。こいつは、私を……。
私は痛む腕をザラついたアスファルトに突き立て、必死に男から距離を取ろうと、芋虫のように這った。アスファルトが柔い腹の皮膚を抉る。痛い。痛い。痛い。
逃げなきゃ。家に。ユナメラのところに。あの子を一人にしちゃいけない。
でも、身体は鉛の塊になったように重く、言うことを全く聞かなかった。
「無駄っすよ。大人しく俺の言うこと聞いてれば、こんな痛い思いしなくて済んだのに。全部あんたが悪いんすよ?」
男が、まるで散歩でもするかのような気楽な足取りで、一歩、また一歩と近づいてくる。
その靴音が、私の命の終わりを告げる秒針の音に聞こえた。
流石に、もう、無理……。
ユナメラ……。
――その時だった。
パチン、と乾いた音を立てて、アパートの二階の一室の窓の鍵が開いた。
明かりが灯り、人影が窓に映る。
「あなた! やめなさい!」
甲高い、しかし恐怖に震える老婆の声が、夜の空気を切り裂いた。
「お前は引っ込んでろ! わしが行く!」
「あなたが行ってどうにかなる相手じゃありません! それより警察に…早く!」
声に気を取られた男が、忌々しげにアパートを睨み上げる。
その隙に、私は最後の力を振り絞って立ち上がろうとした。
……だが、震える足は私の体重を支えきれず、再びコンクリートに膝から崩れ落ちる。
「クソッ、余計な真似しやがって…!」
男が私に再び向き直った、その時。
夜の静寂の彼方から、微かな、しかし聞き間違えるはずのないサイレンの音が、生まれ始めていた。
音は、徐々に、しかし確実にこちらへ近づいてくる。
男の顔から、余裕の色が急速に消えていった。焦りが、その目に浮かんでいる。
「チッ……! 今日のところは見逃してやるっす。でも、次はないんで」
男はそう捨て台詞を吐くと、サイレンの音とは反対方向の闇へと完全に姿を消した……。
後に残されたのは、血と胃液の酸っぱい匂い、そして動けなくなった私だけ。
(助かった……)
緊張の糸が切れた瞬間、全身の痛みが何倍にもなって襲ってきた。
もう指一本、動かせない。意識が遠のいていく。
サイレンの音が、もう、すぐそこまで迫っている。
その時、アパートの鉄製の階段を、カンカンカンと誰かが駆け下りてくる、慌ただしい足音が聞こえた。
さっきの老夫婦だ。
「お嬢ちゃん、しっかりしなさい!」
「ひどい怪我だ…。おい、ばあさん、タオル! 救急箱を!」
駆け寄ってくれた二人の顔を見て、私は安堵よりも先に、別の、どうしようもない恐怖に襲われた。
これが俗に言う『走馬灯』というものなのだろう。
私の脳は、死を間近にしてその性能を最大限に発揮する。
……警察。もしユナメラの事を知られて、身元の一つでも聞かれてしまったら。
もしユナメラがそれで捕まったら、果たして私は身元保証人になれるだろうか。
病院に入院してしまったら、ユナメラを家にも警察署にも迎えに行けない。
意識を取り戻すのが遅れれば遅れるほど、ユナメラが危険になる。
というか今私が救急車に運ばれたら、確実に両親へ連絡が行く。
あぁ……、せっかく自由になれたのに……。ようやく、幸せを掴めたと思ったのに……!
嫌……、嫌…………!!
「おねがい…します……」
薄れゆく意識の中、私は老婆の皺の刻まれた手を、か細い力で掴んだ。
その手は、とても温かかった。
「けいさつ…は……、だめ……。おねが、い……」
私の必死の懇願に、老夫婦が息を呑むのがわかった。
だが、その言葉を最後に、私の視界の端で赤色灯が激しく明滅するのを捉えながら、意識は深い、深い闇へと落ちていったのであった。
第十三話の前バージョンの展開が気に入らなくて失踪していたので、ガラッと変えて自分好みに変更しました。




