6 さんよんぱ
6 さんよんぱ
山形駅に到着して、二人でキャリーバッグを引きずって、スズちゃんが予約しておいたレンタカー店まで行き、搭乗の手続きを済ませた。運転はスズちゃんだ。
車に乗り込むと、彼女が「近くのお蕎麦屋さんで蕎麦を食べて行きましょう」と言うので、「黒鷹が蕎麦の本場じゃないの?」と訊くと、「山形県中いたるところ蕎麦の本場ですよ。すぐそこに有名な蕎麦屋がありますから、そこに行きましょう」と言って車を発進した。車で移動するまでもなく、本当にすぐ近くに蕎麦屋があった。蕎麦屋に入ると、スズちゃんはメニューを見ずに、そしてぼくに断ることもなく、お茶を持ってきた店員に早速「板蕎麦をお願いします」と注文した。なんと手際が良いんだ。
向かい合わせに座った我々の間に置かれたのは、きれいな蕎麦が5玉盛られた長いざる板だった。スズちゃんに言わせると、天ぷらを食べるなら、蕎麦を食べた後にした方がいいそうだ。天ぷらと一緒に食べると、折角の蕎麦が脂っぽくなって美味しくなくなるからという。彼女が蕎麦通だなんて、この時まで知らなかった。
「キノコ蕎麦を食べるんじゃないの?」と彼女に訊くと、「それは後の楽しみに取っておきましょう。最初は蕎麦本来の味を楽しまないと」と言うので、ここは彼女に従うことにした。
ぼくが2玉食べて、先に2玉を食べ終わっていたスズちゃんに残りの1玉を譲って、彼女が合計3玉を食べた。香りも味も舌触りも素晴らしかった。ぼくは出された蕎麦湯を飲んで満足した。
「さすがに蕎麦の名店だね」
「いえ、このレベルの店は他にもたくさんありますよ。それぞれの店で味に個性があるんですけどね」とさすがのスズちゃんも店員に聞こえないように小声で言った。
「へえ、そういうものなの」
「山形駅の立ち食い蕎麦だって、東京の蕎麦の名店に負けていないと思いますけどね。私、東京に出て、最初に蕎麦屋に入ってから、以後二度と東京の蕎麦屋で蕎麦を食べようとは思いませんでしたもの」
「東京で蕎麦を食べていないの?」
「ラーメンかうどんですね」
「まあ、この蕎麦を食べたらわかるような気もするけど。これなら山形にいる間、毎日蕎麦でもいいな」
「じゃあ、また食べましょう。そろそろ出発しますか。十分約束の2時には間に合うと思いますけど、早く着く分にはいいですからね」
我々は車に乗り込んだ。
街中を抜け、郊外の大きなショッピングセンターの傍を通過すると、すぐに辺りの風景は田畑に変わった。すでに稲刈りは終わっていたが、リンゴの大きな紅い実がたわわに実っている果樹園が現れた。リンゴの収穫の時期が間近に迫っているのだろう。
道は上り坂になり、「この山を越えて黒鷹町に入るんです」、とスズちゃんが教えてくれた。特別険しい山岳道路というわけではない。緩やかな上り坂といったところだ。
突然、スズちゃんが「無着成恭の『生活綴方運動』を知っていますか?」と訊いてきた。ぼくは「むちゃく?」と訊き直すと、「無著成恭ですよ」と幾分スズちゃんは大きな声になっていた。「『山びこ学校』という本を書いて、後にこの本は映画にもなって有名になったんですけどね。聞いたことありませんか?」と訊いてきた。ぼくが「多分、聞いたことがないね」と応えると、「生活綴方運動は、戦後に起こった、小学生に自分の生活を作文に書かせることで自分や社会を見つめ直す運動だったそうで、その運動の中心人物だったのが、この近くの小学校の若き教師だった無着成恭だったのです。もうずっと昔のことだから、地元の人たちも知らない人がほとんどだそうですけどね」と教えてくれた。ぼくは何のことかわからなかったので、「ふうん」と気のない返事を返しただけだった。それでも彼女は話を続けた。
「映画化されて全国に有名になると、村の恥を世間にさらしたとして、無著成恭は村から追放されて、東京に出たんだそうです」
「追放? それは穏やかな話ではないね。そのムチャクという人は、東京に出て不幸な人生を歩んだの?」
「いえ、無著さんの実家はお寺だったので、東京の仏教系の大学に進学したそうなんです」
「坊さんになったの?」
「そこらあたりは私も気に留めていませんでしたが、今でもやっているあのラジオの『全国こども電話相談室』の回答者を長く務めていたそうなので、決して不幸な人生を歩んだわけではないんじゃないですかね」
「それにしても、戦後すぐは、田舎ではまだ封建時代が残るような時代だったのかも知れないけど、村を追放とは穏やかな話じゃないね。隠れキリシタンみたいに迫害されたんだ」
「迫害されたのは隠れキリシタンではなく、潜伏キリシタンですけどね」
「そうだね。潜伏キリシタンだ」
(これからはスズちゃんの前では言葉遣いには気を付けなくてはいけない。それにしても、ムチャクセイキョウという人が住んでいた頃は、この辺りはこんなに立派な道路はなくて、街に出るにしても大変だったんだろうな)
「さんよんぱの、あっ、さんよんぱというのは私たちが今走っている国道348号線のことですけど、さんようぱの左側に小滝街道という旧道があって、無著成恭が勤めていた山元小学校があるんですよ」
「時間があったら寄っていかない?」
「もう過ぎちゃいましたけど。なんでしたら戻りますか?」
「それならいいや」
「確か山元小学校はずっと前に廃校になったはずですよ」
「まあ、どこも少子化で廃校は珍しくないけどね。それにしても、子供たちが作文で書いた村の恥って、いったい何だったの?」
「詳しいことは知りませんが、貧しかった生活のことじゃないですかね。ここら豪雪地帯だから、厳しい生活を送っていたことは間違いありませんよ。昔はこの国道がなくて、細い旧道だけだったそうですから、冬には山形の街に出るのも難儀したんじゃないですかね。大雪が降ったら陸の孤島ですよ」
「だけど、戦後すぐだったら日本国中、どこも貧しかったんじゃないのかな。それが村の恥ということになるのかな」
「いくら貧しくても、自分のところより貧しいところを探して、蔑んでいたんじゃないんですか? 実際、当時の東北は半年雪に閉ざされて他の地域よりも貧しかったんじゃないですかね。ここも道路ができてよかったですよ。この道路がなかったら黒鷹から山形まで出るにも、何時間もかかったはずですからね」
窓の外に目をやると、きれいな紅葉が目に飛び込んできた。
3つのトンネルを抜けて峠を越えると下り坂になり、正面にひときわ山頂が急峻な雪で真っ白な山が見えた。ぼくの目が大きく見開いたのがスズちゃんに見えたのだろうか? 「あの山が大朝日岳です。朝日連峰の最高峰です」と自慢げに言った。それからカーブを曲がって道路の左側の駐車場に車を停めた。そこは朝日連峰の展望台になっている絶景の場所だった。我々は車の外に出た。秋の冷涼な空気が気持ちよかった。
「向こうの白い山並みが朝日連峰で、あれが標高1870メートルの大朝日です。この道路の下に黒鷹の盆地があって、南から北に最上川が流れています」
最上川の名前は耳にしたことがある。良い名前だ。
「五月雨を集めて早し最上川」とスズちゃんが厳かな声で口にした。「何、それ」と訊くと、「松尾芭蕉が『奥の細道』で最上川を詠んだ句です。詠んだのはここではなく、もっと北にある大石田という町なんですけどね」と教えてくれた。そう言えば、この句は昔、耳にしたことがある。
「右側をごらんください。あれが標高994mの黒鷹山です。同じ漢字を書いてこくようざんと読む、郷土出身の力士もいるんですよ」
スズちゃんは今回の出張のために、あらかじめ地元のことをあれこれと調べたようだ。いままで、地元出身の相撲取りの話をスズちゃんから聞いたことはなかったし、芭蕉の俳句だってこの旅に来ることになるまで知らなかったんじゃないかな。山にも興味がある風ではなかった。それにしても大朝日岳は美しい。おそらく盆地の下からは、前の山が邪魔をして、大朝日岳を見ることはできないんだろう。
この盆地にキリシタンがいたんだ。
つづく