4 山形新幹線
4 山形新幹線
ぼくはこれまで山形に行ったことはなかったが、東北新幹線で仙台駅まで行って、そこで鈍行に乗り換えて、列車は山の中に入り、県境を越えて山形の盆地に下りて行くのだろう、と勝手に思い込んでいた。スズちゃんにこの話をすると、山形へは乗り換えることなく、東京駅から一本で行けると教えてくれた。福島市から県境を越えて米沢市に入る奥羽線のルートだそうだ。スズちゃんが切符から宿泊までの一切合切を手配してくれることになった。
山形行き前日、スズちゃんがぼくにJRの乗車券と新幹線のチケットを2枚渡してくれた。東京駅発8時56分山形駅着11時37分のつばさ129号に乗るので、東京駅20番ホームの山形新幹線の車内で直接落ち合うことになった。スズちゃんがぼくに「乗り遅れないでくださいね」と言ってきたので、「スズちゃんの方こそ、寝過ごすんじゃないよ」と言うと、エヘヘと笑っていた。
ぼくは20番ホームへのエスカレーターに乗ってホームに入った。電光掲示板の時計を見ると8時半を過ぎていた。チケットには13号車の7番のD席と印字されていたので、13号車の表示に向かって歩いて行った。
山形新幹線は福島駅までは東北新幹線の車両と連結されていて、そこで仙台方面の東北新幹線と離れる。山形新幹線はミニ新幹線と言って、車両の幅が在来線と変わらない小さな車両だ。福島駅から山形に入ると、高架橋の上を走るのではなく、踏切のある通常の線路を走るらしい。そんな小さな山形新幹線だが、福島駅までは東北新幹線の車両を引っ張っていく形になっている。
「山形新幹線13号車」と看板が下がっている乗り口を見つけたが、まだ列車はホームに入っていなかった。13号車は指定席車両にもかかわらず、ぼくが着いた頃には客は大きな荷物を持って整然と列を作って並び、ドアが開くのを静かに待っていた。その列の中にスズちゃんの顔はなかった。スズちゃんが乗り遅れたら、スズちゃんに電話して、山形駅でスズちゃんが遅れて来るのを、待っていればいいだけだ。もし時間があったら、山形駅周辺を一人で散策するのもいい。
20番ホームに山形新幹線が到着すると、たくさんの客が下りて来た。構内放送によると、車内清掃するので、それが終わって発車3分前にならないと列車のドアが開かないらしい。まもなく列車のドアが開いたが、スズちゃんは現れなかった。ぼくは一人で車内に入り、7番の窓側の席に座った。
スズちゃんは発車5秒前に、大きなキャリーバッグを引きずって「間に合った」と息を切らして駆け込んできた。スズちゃんは、荷物棚にキャリーバッグを重量挙げ選手のように両手で持ち上げて、ぼくの隣にどさっと音を立てて座った。はーはーと息を弾ませているスズちゃんは、ぼくの顔を見て「ピッタリですね」と勝ち誇ったように言って、リュックサックの中からペットボトルの水を出して、ぐびぐびと飲んだ。列車が静かに走り始めた。
スズちゃんに「朝ごはんは食べたの」と訊くと、リュックサックからサンドイッチを取り出して、「コンビニで買って来ましたから、今から食べます。ジンさんは食べてきましたか?」と言うので、「ぼくは食べてきたから、ゆっくり食べたらいいよ」と穏やかに言った。彼女は上野駅に着くまでに、サンドイッチを平らげた。
スズちゃんはサンドイッチを食べ終わると、リュックサックからクリアファイルを取り出し、ぼくに「今回の資料です」と言って渡してきた。彼女もぼくに渡してくれたのと同じクリアファイルを取り出し、そこから資料を出した。資料は旅行の工程表と隠れキリシタンの情報がまとめられていた。彼女は口からサンドイッチの匂いを立てながら、ぼくにレクチャーを始めた。彼女がこんなに真面目な人間だとは、今の今まで知らなかった。もちろん待ち合わせ時間に滑り込んだりと、全体としてちぐはぐさは否めないのだけれど・・・。
ぼくだって、出張に先立ってネットで隠れキリシタンのことは一通り調べておいたのだが、このことはおくびにも出さなかった。ぼくは黙ってスズちゃんのレクチャーを聴くことにした。
スズちゃんが年表を自作したのか、それともどこかの資料から年表を抜き出したのかわからないが、この「隠れキリシタン年表」に沿って説明は進んでいった。
年表の冒頭に書かれていたのは、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に最初にキリスト教を伝える、とあった。そう言えば、高校生の時に「以後良く(1549)広まるキリスト教」と語呂合わせで暗記したことを思い出した。上の方に横のバーがあり、室町時代・戦国時代と時代区分がされていた。ザビエルの下に(1506-52)と生没年が書かれてあったのを見て、ザビエルは日本に最初に来てから3年後に、それも46歳という若さで死んだんだ、とスズちゃんの説明を遠くに聞きながら思った。スズちゃんの「聴いていますか?」という言葉で我に返った。「まだ寝ているんじゃないでしょうね」と言われて「しっかりと聴いているよ」とにっこりと微笑んだ。スズちゃんは話を続けた。
ザビエルが九州から山口に入り、そこで布教をしようとしたが、戦国時代では武将の間では普通に行われていた男色を、ザビエルがキリスト教の教えに反すると断罪したので、領主の大内義隆(1507-51)が頭にきて布教を許さなかった、とスズちゃんは何の感情も込めずに淡々と話した。今でこそ男色は、歴史や社会の表には現れてこないが、日本の歴史ではいつも男色は普通に行われてきたことだ。何も大内義隆だけが男色に走った異様な男であるわけではない。それでも、当時の日本人すべてが男色家だったわけではないだろうし、男色家が全員女性を嫌いだったわけでもないだろう。現代のように、男色が白眼視されるのは、キリスト教のせいなのか? そんなこともないと思うけど・・・。世の中、きれいごとで語られ過ぎるのだ。
ザビエルは山口を立って京に入り、将軍や天皇に会おうとしても、豪華な貢ぎ物がなかったり立派な服装を着ていない、とかれらは会ってくれないということがわかり、わざわざ海外から土産を取り寄せたそうだ。こうして貢ぎ物や服装を整えて、会ってもらえることになり、布教の許可を得たそうだ。京から九州への帰り道に再び山口に寄り、そこで豪華な貢ぎ物を差し出したので、今度は大内義隆もたいそう喜んで、領地での布教を許可したとのことだった。きっと見たこともない西洋の文物に日本の権力者は驚き、感激したことだろう。子供みたいに単純な奴らだ。でも、現代人だって、遭遇した宇宙人から見たこともないようなプレゼントをもらったら、きっと大感激して、フレンドリーに接するだろう。どんな出会いでもプレゼントは必須なんだろう。
キリシタンがいたのは、西九州地方が有名だが、ザビエルが来て以降、キリスト教は急速に全国に布教していったらしい。我々が向かっている東北地方の山間部にも、江戸時代初期にはかなりの信者がいて、教会まで建てられていたことが古文書に残っているそうだ。キリスト教の布教が九州や京だけでなく、まともな交通手段もない時代に、辺境の地である東北地方にまで届いていたことに、ただ驚くばかりである。
話は前後するが、仙台の伊達政宗(1567-1636)はこの頃、フランシスコ会の宣教師を正使としてスペインに遣欧使節団(1613)を派遣している。このことを考えると、西洋人は東北地方の隅々にまで来ていたのは確かかもしれない。当時蝦夷と呼ばれた北海道にまで宣教師が入っていたという記録や遺跡があるそうだ。キリスト教の布教というかたちで、日本全国は急速な国際化を果たしていた半世紀だった。
そんなことを考えていたら、話はキリシタンの弾圧に入っていた。聞いていなかったところは、後で資料を読めばいいだろう。だいたい、スズちゃんのレクチャーは一方的で、ぼくの理解を確かめたりはしていない。まあ、いちいち確かめられても困るので、口をはさむのはやめよう。
豊臣秀吉は1587年と1596年にバテレン追放令(禁教令)を出してキリシタンの弾圧を行い、1597年に、後に「日本二十六聖人」と呼ばれる信者が、長崎で磔の刑に処せられている。この中には、日本人の信者以外にスペイン人、ポルトガル人、加えてメキシコ人の修道士がいる。なんてワールドワイドな出来事なんだ。
江戸時代に入って、1612年と1613年に禁教令が出た。キリスト教信者は迫害を受けたために、信仰を捨てる人がほとんどだったが、なかには表向きは棄教したことにして、密かに代々キリスト教を信じ続ける人たちがいた。厳密には、この人たちは「隠れキリシタン」ではなく「潜伏キリシタン」と呼ぶそうだ。このことをスズちゃんは強調した。
1637年から1638年に島原の乱が起こった。現在の長崎県の島原地方と熊本県の天草地方を中心に、あの有名な天草四郎(1621?-1638)をリーダーとする、キリシタンや農民の武力反乱事件だ。スズちゃんが「天草四郎って、かっこいいですよね」とうっとりしたような目つきで言った。天草四郎の本当の顔なんて誰も知らないけど、なぜか美少年のイメージが定着している。天草四郎こそホモセクシャルみたいな感じがするんだけど、冗談でもそんなことを口にしたらスズちゃんにこっぴどく叱られてしまうだろう。それにしても16歳で2万人の兵のリーダーになって、17歳の若さで亡くなった。やはり、よっぽど才気溢れるカリスマ性のある人物だったのだろう。リーダーは必ずしも美形である必要はないと思うが、十代の若さだったらやっぱり容姿も大切な要素だったのかもしれない。現代の芸能人のように、眩いばかりの顔だちで人は熱狂し、付いていくのかもしれない。
あれから250年以上も経った明治時代に入って、明治6年(1873)に禁教令が解かれ、潜伏していたキリシタンが続々と名乗り出て、カトリック教会に入る人たちが出てきた。一方で、潜伏キリシタンの中には、カトリック教会に戻らなかった信者もいて、代々家に伝わる信仰を守り続ける人々がいた。こうした人たちのことを現在では「隠れキリシタン」と呼んでいるそうだ。
言葉遣いは微妙なものだ。一般の人たちの間で使われている「隠れキリシタン」と言ったら、江戸時代の「潜伏キリシタン」のことだろう。カトリック教会に帰属していないとしても、今更「隠れ」ているわけではないと思うのだが、まあこれは学問上の定義の問題なのだろう。
佐和山さんが言っている、黒鷹町の「隠れキリシタン」は、明治になってカトリック教会に戻った「潜伏キリシタン」だろうか、それとも戻っていない「隠れキリシタン」だろうか? 彼の文面だと後者のような気がするが・・・。
文明開化の明治の世からこれまですでに150年以上が経ち、キリスト教を信じていても迫害を受けたり罪に問われることはない。鬼畜米英の太平洋戦争の時代でさえ、クリスチャンは世間から白眼視はされたとしても、罪に問われることはなかったはずだし、キリスト教徒という理由だけで肉体的な迫害を受けることはなかったはずだ。この日本のことだから、陰口や陰湿ないじめはあっただろうが、拷問はなかったはずだ。だから、明治時代以降、キリスト教徒は棄教したり、隠れる必要はなかったはずだ。
いまさら、キリシタンであることを名乗らずに、江戸時代の潜伏キリシタンのように誰にも知られずに生活している「隠れキリシタン」がいたとしたら、かなりインチキ臭い。注目を集めるために「隠れキリシタン」と言い出したのではないだろうか? ぼくは山形に旅立つ前に、ユーチューブを開いて、山形で「隠れキリシタン」を名乗る人を探したが、それらしい人を見つけることはできなかった。
スズちゃんがぼくの方を見て目を輝かせて「黒鷹町隠れキリシタンミステリーツアーが待っているのですかね?」と訊いてきたので、「さあ、どうだかね」と応えた。
つづく