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みちのく転び切支丹  作者: 美祢林太郎
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29 欠けた円座

29 欠けた円座


 熊肉を齧りながら、ぼくは空いている席が気になってしかたがなかったので、勇気を出して訊くことにした。

「子門さんから座布団を全部で15枚準備するように言われて、座布団を15枚並べたのですが、いらっしゃっているのは我々以外ですと7人だけです。他の6名の方は後からいらっしゃるのですか?」

「来ないよ」と又井さんがぶっきら棒に言った。

「えっ、いらっしゃらないのですか? 一人もですか」

「これで全部だ」。又井さんは驚くほどあっさりしている。

「それなら詰めて座った方がいいんじゃないですか?」とぼくは開き直って言った。

「ばってん、昔からの習わしですから。ここにいない人の席は開けておかなければならないのです。座る順番も決まっていますから」と子門さんが言った。

「座る人を教えていただけますか?」

「そう言えば、まだ新しい人の紹介をしていませんでしたね。それを兼ねて、座席の紹介をしていきましょう。藁を敷いた中心の席が黒鷹さんです。今日はいませんけどね」

「あの天草四郎の末裔の黒鷹さんの席ですか?」

やっぱりぼくが予想した通り、この屈辱的とも言える粗末な席が黒鷹さんの席だったんだ。

「そう、そう。粗末な席でびっくりしたでしょう。でも、席に三本の藁を敷くように言ったのは、他ならぬ天草四郎様ご本人が言い出したことなんです。自分のせいで2万人もの黒鷹の人々が亡くなったことを決して忘れないためにそうなさった、と伝え聞いています。さらには、自分の子孫はこの三本の藁の上に座るように、と遺言されたそうです。くれぐれも座布団の上に座らないように、と子供に申し渡されたそうです。

 それにこの円陣ですが、江戸時代は時々隠れキリシタンを摘発するためにふいに手入れが入ったのです。そこでただ一人の隠れキリシタンである黒鷹さんを守るために、誰が隠れキリシタンかわからないようにするために、我々はいついかなる時でも円陣を組んで座っていたのです。もちろん座っている時は全員座布団をとり、黒鷹さんは藁をとって、床に直接座りました」

「そうですか」

「では、稲村さんの隣から時計回りに順番に紹介していきますね。最初が馬留さんで、次が屋古部さんです」

「バルです」と馬留さんがぺこりと頭を下げて低い声で言った。

「はい、ヤコブです」と屋古部さんが快活に右手を挙げた。

「次に欠席の安出さん、遊田さん、経登呂さんの席が続きます。それから夜羽さん」

「ヨハネです」と箸を置いて、ぼくの方を見てペコリと頭を下げてほほ笑んだ。

「次の藁の席が、先ほど紹介した黒鷹さんの席です。その隣が、苫蔵さん」

「トマスです」

「小矢さん、斑入さん、と留守の席が続きます。そして、又居さん、唯井さん、そして私、子門です。以上13名です」

 壁に昔の白黒の写真が飾られていた。それが13名が揃った最後の写真だという。その写真に写っているのが、当代なのか先代なのか、それとも先々代なのか、いつの時代の写真なのか、結局聞きそびれてしまった。

「我々の先祖は明治時代になるまで、名字を名乗ることができませんでしたから、鶴吉や亀蔵だったのです」

「お名前を伺っていると、ユダさん、トマスさん、マタイさん、タダイさん、シモンさんと私が知っているイエスに従った十二使徒の名前と同じものばかりのようですが・・・。他の方々の名字もそうなのですか?」

「そうですね。我々の名字は十二使徒にちなんでつけられたと聞いています。転び切支丹で誰もキリスト教を信じていないのに、十二使徒の名前をちゃっかり拝借しちゃったみたいですね。いい加減なのも程がありますね」

「どうしてそんなことをしたのでしょう? 佐藤や斎藤などのありふれた名字でよかったのではないですか?」

「私が考えるに、十二使徒の名字にあやかったのは、この集落の結束のためであり、我々のルーツを忘れないためだったのではないでしょうか。明治時代に入っても、ここの自然の厳しさはそれ以前と何ら変わりがありませんでした。みんなで一致団結して生きていかなければならないのは、江戸時代と変わらなかったと思います」

「もしかして、この並び方、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画『最後の晩餐』と同じなのではないですか?」とスズちゃんが言った。

「そうなんですよ。わしらもいつ頃からどうしてこういう順番に座るようになったのか正確なところは知らないのです。一説では、ご指摘の通り、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』から拝借したんじゃないかと考えられています」と又井さんが言った。

「失礼ですが、ユダはキリストを裏切った人の名前ですよね。遊田さんのご先祖は天草四郎を裏切ったのでしょうか? お金をもらって藩に天草四郎を売ったのでしょうか?」とスズちゃんが訊きづらいことをずけずけと尋ねた。彼女の質問に又井さんが冷静に答えた。

「いえ、そんな記録はどこにも残っていません。我々は遊田さんを裏切者扱いしたことはありません。どうして彼の家の名字が遊田になったのか、その詳しい事情はわかりません。十二使徒全員の名字を振り分けるために、誰かが遊田を名乗らざるを得なかったのかは確かです。我々の名字は単純に籤で決まったという言い伝えもあります。途中で、遊田さんの名字を改姓してもよかったのでしょうが、実際に我々からそう提案したこともあったのですが、これも何かの巡り合わせだと言って、遊田さんは名前を替えなかったのです」

ここで子門さんが言葉を足した。

「昔、遊田さんご本人から聞いたことがあるのですが、遊田さんの先祖が遊田という名字になったのには、なんらかの意味があるのではないかと考えているとのことでした。遊田の名前になったことが後々起こる試練の予兆だとしても、そのことを甘んじて受けなくてはならないと、遊田さんは覚悟を決めているようなのです。試練は実際これからやってくるかもしれませんし、ただの思い過ごしかもしれません。山百合の12人衆は転び切支丹で、キリスト教を信じているわけではありませんが、試練を受ける覚悟だけは持って生きているのです。三本の藁を見ればわかるように黒鷹一族も試練を受け続けているのですから、私らが試練を受けないというわけにはいかないでしょう」

「それでは、今日いらっしゃっていない方々はどうされているのですか? 病気や旅行でたまたま留守にされているのでしょうか?」

「そうではありません。我々以外の6人というか6軒は、今はもうここに住んでいないのです」

「と言うことは、黒鷹町の中心部やその他のところに移り住んでいったということですか?」

「そうです。江戸時代から、家の跡取り以外は、山形や仙台、江戸に出て行った者がたくさんいました。山を伝わってもっと北の山で猟師を続けている者もいるそうです。蝦夷地に渡ってヒグマを追いかけているという話を聞いたことがあります。

 ばってん、長男は家を継いでここに残るのが宿命でした。ですから、ずっと山百合集落の13軒は守られてきたのです。我々は猟をするのも、杉の植林や伐採をするのもみんなで力を合せてやってきました。家を建てたり、改修するのもみんなでやってきたのです。それは明治時代に入っても変わりませんでした。嫁は13軒の中の娘が互いに嫁いでいくことになっていました。男の子が生まれてこない家には、我々の子供の中から、その家の養子に入りました。ここの13軒は互いに縁戚関係にあります。

 昔は子だくさんでしたから、跡継ぎ以外は成長したら望むと望まないとに関わらず、家を出ていかなければなりませんでした。分家するにも山百合の土地は狭いですし、財産もありませんでしたからね。土地を分けるような余裕はありませんでした。

 明治時代に入ると、東京に出た者の中には、牛鍋屋で大儲けした者もいたそうです。学者になった者もいるようです。出た者は帰ってこないのが習わしとなっています。

 山百合の13軒は昭和に入っても守られてきましたが、戦後になって、跡継ぎまでもが集落を捨てて出て行くようになりました。ここに住んでいては、現金収入がなくて世間並みの生活ができなくなったからです。戦後になって、社会の人並みの水準がそれ以前よりもはるかに高くなっていったのです。老人の歯が次々に抜けるように、集落から人がいなくなりました。

私は学校の先生になって冬場は下で暮らすようになりました。唯井さんは、冬場の半年は東京に出稼ぎし、あとの半年をここで暮らす生活を続けていました。又井さんは、現職の頃はずっと黒鷹の町で暮らして、退職後ここに戻って来たのです。こうした人たちの中には、山百合に戻ってこなくなった人たちもいるのです。山百合集落は戦後に入って急速に時代の波に飲み込まれ、集落を維持できなくなっていったのです」

「女性の方や子供さんが一人もいないようですが、今いらっしゃるみなさまは、お一人でここにお住まいですか?」

「わしは10年前に妻に先立たれてから、一人でここに暮らしています。子供たちは東京や札幌に家を建てて住んでいて、もうここには戻ってきません」

「わしの妻は、黒鷹の町で子供や孫と一緒に暮らしています。買い出しに町に下りて行った時に妻と会っていますし、子供たちは年に一度墓参りのためにここに帰って来ます」

「我々の代で、ここも終わりですよ。残った我々は、最後は熊の餌にでもなればいいと話し合っています。先祖代々、熊にはどれだけお世話になってきたことやら。熊の胆嚢や毛皮が高値で売れて、現金収入が得られてきました。それに、肉食禁止の江戸時代においても、我々の先祖は熊肉を食べて、元気に生きてこれましたからね。最後は我々の体で恩返しと思っているのですが、さてどうなりますことやら。こんなに骨と皮の筋っぽい老人なんか食べてくれないかもしれませんからね。いつ食べられてもいいように、毎日きちんと風呂に入ろうとみんなで言っているのです」


    つづく

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