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12 高野家の朝

12 高野家の朝


 尿意をもよおして、目が覚めた。障子越しに外が明るくなっていることがわかった。だけど、ぼくはどこに寝ているんだろう? ベッドではなく畳の上に敷かれた布団に寝ているってことは、ここはホテルではない。かと言って、部屋の中の佇まいを眺めると、旅館でもなく、普通の家のようだ。そうだ、思い出した。ぼくはスズちゃんの実家に泊っているんだ。二日酔いの頭がずきっと疼いた。

 腕時計を見ると、6時を過ぎていた。部屋の外で人が動いている気配がした。きっと、家人が起きて、朝の活動を始めているのだ。着替えをしようと思ったが、周りには脱ぎ散らかしたズボンやシャツや靴下しかなく、ぼくの着替えが入ったバッグはどこにも見当たらない。そう言えば、ぼくのバッグの入ったレンタカーはどうしたんだっけ? 昨日は、ここまでどうして帰って来たんだっけ。ぼくは回らない頭で、それでも必死に考えた。

 そうだ、代行車で帰って来たんだ。ああ、思い出した。代行車の人が運転してレンタカーでここまで帰ってきた。レンタカーはこの家の外にあるはずだ。その中にぼくの着替えの入ったバッグがある。取りに行きたいけど、玄関の方に行ったら、家の人に見つかってしまう。それよりもなによりも、おしっこが我慢できなくなってきた。

 ぼくは脱ぎ散らかしたズボンやシャツを拾い集めて、それに着替え、静かに障子を開けて、抜き足差し足でトイレに向かった。用を済ませて部屋に戻るまで誰にも会わなかったので、ほっとした。さて、これからどうするか? 情けなくも、まるで盗みに入った家で、家人がいるのがわかって、身動きできないでいる泥棒のような気分になった。

 もう一度、パジャマに着替えて寝直すか? この現実逃避もまんざら悪くない。寝てれば、時間になれば誰かが起こしに来てくれて、ぼくは爽やかに「おはようございます」と挨拶をすればいいだけなんだ。滑り出しが良ければ、あとは自然にうまく事が運ぶだろう。ぼくはパジャマに着替えて、再び布団の中に潜り込むことにした。

 目が冴えて、寝ることができない。このままずっと寝ていて顔を出さなかったら、家の人たちは何てぼくのことを思うだろう。きっと娘の上司とはいえ、他人の家に夜遅く忍び込んできて、勝手に寝て、朝には起きてこない、なんてだらしのない人間なんだ、とみんなでお茶を飲みながら、ぼくのことを悪く言っているかもしれない。そもそもぼくのことをスズちゃんは家の人たちにきちんと説明してくれているのだろうか? もうスズちゃんは起きて、家族の人たちに遅くまで呑んだことや、深夜の帰宅を話して聞かせたのだろうか? やっぱり、スズちゃんのことだから、まだ起きていないだろうな・・・。ぼくだけ起きていって、みんなの前に顔をさらけ出すわけにはいかない。土産も持参していないし・・・。でも、いつまでも寝ているのも、一人前の大人がやることじゃない。ぼくはどうしたらいいんだ・・・・・・・・・・・・・。

 ぼくは意を決して起き上がり、音を立てずに布団を畳んで、部屋の隅に重ねて置いた。パジャマを脱いで、シャツを手に取ると、これが酒臭い。ズボンを手に取ると、これもまた酒臭い。それに皺くちゃだ。ぼくは部屋の中央で、下着姿のままで、ズボンとシャツを伸ばして広げた。

 部屋を見渡すと長押なげしにハンガーが何本か掛かっていたので、ズボンとシャツを一本ずつにかけ、それぞれを右左の手で持って、ゆらゆらと揺すり、皺と酒の匂いを飛ばすことにした。これを繰り返しているうちに、自分が下着姿で立っていることに気づき、今誰かが部屋の障子を開けたら、ぼくの珍妙な姿を見られてしまう。

 そう考えていたところに、障子の向こうから「お目覚めですか」という優しい声が聞こえてきた。ぼくは上ずった声で「は、はい」と返事した。「よろしかったら、朝食の準備ができていますので、居間の方へどうぞ」と声をかけられ、ぼくはまた上ずった声で「は、はい」と言った。その声を聞いて、自分でも情けなかった。

 ぼくはあわてて服を着て、部屋を出ることにした。障子を開けると、女の人が正座していて、「失礼しました。まだ、お顔を洗われていらっしゃらないかと思いまして。洗面所はこちらです。タオルや歯ブラシは部屋にあるものをお使いください」と丁寧に教えてくれた。部屋の隅を見ると、タオルと歯ブラシがあったので、それを持って洗面所で顔を洗った。冷たい水が、頭を少し蘇らせてくれた。

 居間には、4人の人が座布団の上に座っていた。みんながぼくの方を見て朗らかに笑って、口々に「おはようございます」とか「おはよう」とか言った。それを見て、ぼくの緊張が一挙にほぐれ、爽やかな朝が舞い降りてきたように思えた。ぼくも彼らに呼応するかのように、できるだけ爽やかに「おはようございます」と挨拶をした。

 指定された座布団の上に正座すると、スズちゃんの父親らしき人が「よく寝られましたか?」と訊いてきたので、「はい」と明るく返答した。父親はぼくに対して敵意がないようだ。部屋の前で正座をしていた母親らしき人が「いつもスズがお世話になっています」と口をきいたので、ぼくは「こちらの方こそお世話になっています」と返した。お祖父さんらしき人が「孫が大変お世話になっています。世間知らずの孫なので、他人様に迷惑をかけているのではないかと心配しているんですよ」と言うので、「そんなことはありません。会社でもみんなから信頼されています」と安心させた。お祖母ちゃんらしき人が「課長さんには、随分お世話になっているとのことで、ありがとうございます」と感謝された。ぼくは「そんなことはありません」と言ったが、ぼくはいつの間に課長になったのだろう? 会社にそんな役職があっただろうか? それともスズちゃんが勝手にぼくのことを課長だと家族の者に話したのだろうか? 確かに、田舎では役職名が物を言うのかも知れない。まあ、とりあえず、これで高野家への挨拶が無事一巡したことになる。

 父親が母親に「スズはまだ寝ているのか? 起こしてきなさい」と言ったので、ぼくは「夜遅かったので、まだ寝かせておいてあげた方がいいのではないでしょうか?」と優しいふりを前面に出した。そんなぼくの話を聞いていなかったようで、母親はスズちゃんを起こしに行った。階段のきしむ音を聞いたので、スズちゃんの部屋は二階にあるらしい。

 「一人娘で甘やかせて育てたもので、我ままに育ってしまいました」と父親が言った。お祖母さんが「久しぶりに家に帰って来たので、ほっとしているんじゃないの。もっとゆっくりと寝かせておいてやっていいんじゃないのかい?」と父親をたしなめた。父親は「スズは遊びで帰って来たんじゃなくて、仕事で帰って来たんだから、しっかりと働かなくては、課長さんに迷惑がかかるんだよ」とお祖母ちゃんを諭した。ぼくは「いえ、大丈夫ですから」と、どうでもいいことを口にした。お祖父さんが「昨日は夜遅くまでお仕事で大変でしたね」と言うので、ぼくは「はい」ときっぱりと言った。そこにトレーナー姿の頭をぼさぼさにしたスズちゃんが眠そうに入って来た。いかにものん兵衛の寝起きだ。「挨拶は」と父親が言うと、スズちゃんは「おはよう」とだるそうに言った。すると父親は「おはようございます、だろう」と言ったが、スズちゃんはそれを無視して、座布団にどさっと胡坐をかいて座った。

 お母さんが「遅くなって、すみませんね。すぐに食事にしますので」と、ご飯と味噌汁をよそって、みんなの前に並べていった。食卓の中央には、それぞれの大皿に、サラダ、トンカツ、鮭の塩焼き、目玉焼き、漬物、がドドドドンと並んでいた。これは一種のバイキングだ。だが、ぼくの前だけには、それぞれの品が中皿に一品ずつ盛られていた。ぼくは朝からトンカツと鮭の塩焼きと山盛りのサラダとつけものを食べなければならない。二日酔いの体にはきつい。全部食べられるだろうか?

 お母さんがにっこりして「田舎なのでたいしたものはないですが、お米だけは美味しいですので、お代わりしてくださいね」と言った。ぼくは全力を尽くして食べるしかないと覚悟を決めた。

 最初に口にしたご飯で驚いた。これまで食べたことがないほどの美味しさだ。ご飯それ自体がこんなに美味しいとは・・・。

 「これは何というお米ですか?」とぼくが訊くと、お祖父さんが嬉しそうに「うちで作った「つや姫」です」と教えてくれた。茶碗のご飯を見ると、ひと粒ずつがしっかりと立っていて、真っ白くピカピカに光っていて大きい。ぼくはご飯だけを5口かけ込んだ。それから味噌汁を口にすると、これがとろっとして味がある。お椀の中を見ると、大きなキノコがあった。

「このキノコは、何ですか?」

 お祖父さんが「ナメコです。東京じゃあ、ナメコを売っていませんか?」と訊いてきた。ぼくは「いえ、東京でもナメコは売っているのですが、どれも小さな粒ばかりで、こんなに傘の開いたシイタケのように大きなナメコは見たことがありません。シャキシャキしていて、歯ざわりがいいですね。野趣に溢れています」と感激して言った。

「そうでしょう。ナメコは大きくないと美味しくないんですよ」

 お母さんが「おかわりをどうぞ」とお盆を差し出したので、思わずぼくはそこにお椀を出してしまった。ぼくはまだ目の前のトンカツや鮭や目玉焼きに、手をつけていない。ご飯と味噌汁だけで終わるわけにはいかないんだ。

 ぼくはまず比較的軽そうな鮭と目玉焼きを攻略した。それからぶ厚いトンカツに箸をつけた。これは険しい。

 お祖母ちゃんが「ゆっくりと食べてくださいね。残してもいいですから、無理をしないでくださいね」と助け船を出してくれた。ぼくが格闘しているのが、傍からもわかったのだろう。

「今日のご予定はどうなっているんですか」と父親が訊いてきた。ぼくは黙って食べることに専念したかったが、そういうわけにもいかなかった。

 「今日は、佐和山さんと穂刈さんに案内していただいて、隠れキリシタンの史跡巡りをすることになっています」と、ぼくはトンカツを食べながら応えた。肉厚だが柔らかくって肉汁が染み出てきて美味しい。

 「かあさん、黒鷹に隠れキリシタンの史跡があるって話を聞いたことがあるか?」と父親が訊くと、お母さんは「いえ、聞いたことはありませんね。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんはどうですか?」と訊いた。二人も「聞いたことがない」とお茶を飲みながらぶっきら棒に応えた。お祖父さんが「隠れキリシタンは九州ではないのか? こんな北国にキリシタンがいたという話は、とんと聞いたことがないな」と言った。するとスズちゃんが「有名じゃないけど、かつて黒鷹にもキリシタンがいた、ということが明らかになってきたの。町の博物館にはそれを示す古文書や踏絵まであるんだから」と教えた。お祖父さんが「ほう」と感心したような言葉を発した。スズちゃんは「これから、私たちが黒鷹の隠れキリシタンを全国に有名にするんだからね。今回はそのための取材旅行なの」と少し鼻息が荒かった。まだ酔っているのだろうか? お祖父さんは「それは頼もしいな」と喜んだ。

 ぼくは味噌汁やご飯をおかわりすることはなく、黙々と目の前のおかずを食べ、なんとか完食することができた。お父さんが「やっぱり若い人は違うの」と感心してくれた。大皿の中のトンカツには、家人は誰も手をつけていなかった。お母さんが食後のデザートを勧めてくれたが、ぼくはきっぱりと断った。ぼくの胃袋にはどこにもそんなものが入る余地はない。

 「高野さん、レンタカーのキーを貸してくれないか? ぼくの荷物が入っているから」とぼくはあらたまった口調でスズちゃんに声をかけた。スズちゃんは「大丈夫です」と言って腰を上げて、居間を出ていった。しばらくして戻って来て、「部屋にバッグを入れておきましたから」と言った。

 「今日の予定はどうなっていたんだっけ」とスズちゃんに訊くと、「9時半に博物館で佐和山さんたちと会う約束になっています。9時に家を出発しましょう」

 ぼくは「ごちそうさまでした」と言って立ち上がり、部屋に戻って、服を着替えて出かける準備をした。

 玄関に9時前に出ると、すでにスズちゃんが車のエンジンをかけて、いつでも出発できる準備をしていた。玄関の入口には、家族全員が我々を見送るために出ていた。

 お父さんが「今晩は早く帰ってきてくださいね。一緒に夕食を食べましょう。美味しいお酒も準備しておきますから」と言った。ぼくは「はい」と明るく返事するほかなかった。スズちゃんは返事することなく「では、行って来るね」と言った。お母さんが「運転、気をつけてね」と言った。お祖母ちゃんが「暗くなる前に帰って来るんだよ」と言った。車は走り出した。


   つづく

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