東大の駒場キャンパスに通うためにも東京へ本社ビルを持ってその近くに寮も作ろうか
一九八八年四月一日。
新年度が始まった。
東京情報大学、大阪国際大学、八千代国際大学が開学し、今年もまた多くの若者が新しい生活へ踏み出していく。
そして四月十日には、瀬戸大橋が開通する。
前年に開業した青函トンネルと合わせ、日本列島が鉄道で一本につながる。
新聞には「一本列島」という言葉が踊っていた。
北海道から本州へ。
本州から四国へ。
さらに九州へ。
これまで海に隔てられていた土地が、一本の鉄路で結ばれていく。
日本そのものが、新しい時代へ向かって動き始めている。
そんな空気が、そこかしこに漂っていた。
そして――。
俺たちもまた、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
◇
俺と斎藤さん、それに北条さんは、西千葉にあるライジングの事務所へ集まっていた。
春の陽射しが窓から差し込み、机の上に広げた資料を白く照らしている。
窓を少し開けると、冬の冷たさが抜けた風が入り込んできた。
通りを走る車の音。
遠くから聞こえる電車の音。
いつもの事務所なのに、今日は少しだけ空気が違う。
俺たち三人とも、四月から東京大学へ通うことになるからだ。
三人とも無事に現役合格。
ついこの間まで合格発表を気にしていたと思ったら、もう入学の日が目の前まで迫っている。
「……しかし、本当に大学生になるんだな」
俺が呟くと、斎藤さんが小さく笑った。
「そうね。まだ少し実感がないけど」
「私もですわ」
北条さんも手元の書類から顔を上げる。
普通なら、これから始まる大学生活に胸を躍らせればいい。
けれど――。
俺たちにはライジングの経営がある。
大学へ通いながら、会社の仕事も続けなければならない。
そこで問題になるのが、通学だった。
東大といえば本郷キャンパスが有名だ。
だが、一、二年生が通うのは駒場キャンパス。
渋谷区の西側にある。
船橋から通うとなれば、朝の満員電車に揉まれ、何度か乗り換え、授業が終われば今度は帰宅ラッシュ。
それだけなら、普通の大学生には珍しくない。
だが俺たちは、その合間に会社へも顔を出さなければならない。
「……これ、毎日やるのはきついな」
俺がそう言うと、斎藤さんも苦笑した。
「大学だけなら何とかなるんでしょうけどね」
「会社までありますもの」
北条さんも頷く。
俺は机の上に置かれた東京の地図を引き寄せた。
「だから、東京に拠点を作ろうと思う」
二人の視線が集まる。
「東大へ通いながら社長として仕事を続けるなら、東京に生活拠点があったほうがいい」
地図の上を指でなぞる。
「部屋を借りるだけでもいいけど、それならいっそのこと、ライジングの東京本部を作る」
「東京本部……ですか?」
「そう。社員寮も兼ねられるビルかマンションを購入するんだ」
俺は一度言葉を切った。
「そこを俺たちの生活拠点にもする。大学へ通いやすくなるし、東京で人を採用する時にも使える」
北条さんは地図を見つめながら、しばらく考えていた。
やがて、納得したように頷く。
「合理的ですわね」
「だろ?」
「事業規模を考えれば、いずれ東京へ本社機能を移す必要があると思っておりました」
北条さんは地図上の東京へ視線を落とす。
「駒場は渋谷寄り。本郷は上野寄りですから、その中間となる新宿あたりは候補になりますわね」
「新宿か……」
俺も地図を見る。
駅を中心に広がる巨大な街。
繁華街があり、高層ビルが並び、その一方で数多くの企業が集まっている。
ライジングの看板を掲げる場所として考えるなら、確かに悪くない。
「もっとも、千葉方面との交通まで考えるなら、品川や新橋も候補になりますわ」
「将来的な支社ってことか?」
「ええ。東京大学への交通だけでなく、企業としての立地も重要ですもの」
北条さんがペン先で地図を軽く叩く。
「それに、本社所在地が変われば、会社を見る人の目も変わります」
「まあ、それは確かにそうだな」
俺は苦笑した。
「こう言っちゃ悪いけど、千葉ってどうしても『東京の隣』って見られがちだし」
「千葉の人間としては複雑な発言ですわね」
北条さんが少し笑う。
「俺も千葉なんだけどな」
斎藤さんが吹き出した。
「自分で言っておいて、それはないでしょ」
三人の間に小さな笑いが起きる。
だが、北条さんはすぐに真顔へ戻った。
「とはいえ、立地は採用にも影響しますわ」
「やっぱりそうだよな」
会社の名前だけでなく、どこにあるのか。
それだけで、応募してくる人間の層まで変わってくる。
結局、人は分かりやすい肩書きや場所に弱い。
それは大学だって同じだ。
俺たち自身、東大合格が決まっただけで、周囲の反応が目に見えて変わった。
世の中なんて、そんなものだ。
「ただ、新宿って治安は大丈夫なの?」
斎藤さんが不安そうに口を挟んだ。
「テレビだと、ちょっと怖い場所ってイメージがあるんだけど」
「確かに東口側には歓楽街もある」
俺は地図を指差した。
「でも西口側にはオフィス街が広がってる。住む場所を選べば問題ないと思う」
「そうなんだ」
「それに、社員寮も兼ねるなら、セキュリティは重視する」
俺は少し考えてから続ける。
「一軒家じゃなく、オートロック付きのマンションのほうがいい。エントランスから部外者を絞れるだけでも違うからな」
斎藤さんが納得したように頷く。
「なるほど」
その横で、北条さんはすでにメモを取っていた。
「では、候補物件を探しておきますわ」
「もう動くのか?」
「こういうものは早いほうがいいですもの」
北条さんは当然のことのように言う。
「良い物件ほど、誰かに先を越されますから」
「いつもお願いばかりで悪いけど、頼んだよ」
「仕方ありませんわ」
そう言いながらも、口元には少し得意げな笑みが浮かんでいる。
「こういう仕事は私が一番得意ですもの」
それを聞いた斎藤さんが苦笑した。
「ほんと、北条さんって何でもできるのね」
確かにそうだ。
経営。
財務。
交渉。
不動産。
法律関係まで。
大学生とは思えない仕事を、平然と片付けていく。
俺たちだけなら、物件探し一つで頭を抱えていたに違いない。
そんな北条さんを頼りにしながら、俺はもう一つの話を切り出した。
「それと、西千葉の本社は残したい」
「残す?」
「ああ」
東京へ拠点を作るからといって、今の場所を捨てるつもりはない。
「むしろ、あそこを人材の拠点にしたい」
北条さんが顔を上げた。
「具体的には?」
「最新のパソコンを自由に使える、会員制サロンみたいな場所を作る」
俺の頭の中には、すでに光景が浮かんでいた。
机の上に並ぶコンピューター。
画面に表示されるプログラム。
絵を描く学生。
音楽を作る学生。
ゲームについて熱く語る若者たち。
「千葉大学をはじめ、西千葉周辺の大学生や専門学校生、高校生まで来られるようにする」
「高校生までですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「そこで面白い才能を持った人間を見つける」
「……採用につなげるわけですね」
「そういうこと」
アルバイトとして仕事をしてもらう。
学生のうちから現場を経験してもらう。
そして卒業したら、そのまま正式入社してもらう。
「人を探すだけじゃない。育てながら集めるんだ」
北条さんの目が細くなる。
「なるほど。採用と育成を一体化させるのですわね」
「これからは、そのくらいやらないと足りなくなると思う」
ホムコンの頃とは、ゲームを取り巻く環境が変わっていく。
グラフィックはより精細になる。
音楽も豪華になる。
ゲームそのものも複雑になっていく。
必要になるのはプログラマーだけではない。
イラストレーター。
サウンドクリエイター。
シナリオライター。
そして、ゲーム全体をまとめる人間。
作る人間が増えなければ、作品そのものを大きくすることもできない。
「最初はたった五人で作っていたのが、嘘みたいですわね」
北条さんが懐かしそうに笑った。
「ああ」
俺も笑う。
「でも、それだけ業界が大きくなるってことだ」
開発費も上がっていく。
小規模な作品なら少人数でも作れる。
だが、大型タイトルになれば億単位の金が必要になる。
そして、その金の大部分を使うのは人間だ。
人数を集め、時間をかけて作る。
声優まで起用するようになれば、さらに規模は膨らむ。
だからこそ、ここは削れない。
「結局、一番大事なのは人だよ」
俺は机の上の資料を指で叩いた。
「人を育てて、良い人間を集める。そこに金を使う」
北条さんも頷いた。
「そのための人材拠点が、西千葉というわけですわね」
「ああ」
窓の外へ目を向ける。
春の空は明るい。
西千葉の街並みも、いつもと変わらない。
けれど、これから少しずつ変わっていく。
東京に拠点を作る。
西千葉では人を集める。
育てた人材で、より大きなゲームを作る。
そして、そこで得た利益を次の事業へ回す。
そのために、まずは会社そのものを一段上へ引き上げる必要がある。
考えているだけでは、何も始まらない。
だったら――。
「……まずは東京だな」
俺が呟く。
「ええ。まずは物件探しですわね」
北条さんはさっそく手元のメモを整理し始めた。
斎藤さんが、その横から覗き込む。
「大学が始まる前から忙しくなりそうね」
「今さらだろ」
俺は笑った。
窓の外では、春の風に揺れた街路樹の枝が小さく音を立てている。
新年度。
大学生活。
東京進出。
新しい人材。
そして、新しいゲーム。
まだ何一つ形にはなっていない。
それでも、最初の一歩は踏み出した。
西千葉から――東京へ。
ライジングの次の段階が、いま始まろうとしていた。




