ミラーボックス CoCTRPGリプレイ小説
そこは神のみぞ知る部屋。そこで目覚めた数々の人間は仕掛けに頭を悩ませ、自分を正当化して殺し合ってきた。どんな正義を吐く者も、傷ついた者に手を差し伸べる者も、結局は己のために他者を差し出す。そうして生き残った者は己の非力さを思い知り、自己嫌悪に陥ることもある。そうやって人間を堕としていく邪神の遊び場だ。
ほら、またどこからか人が連れてこられた。いつものように醜い殺し合いが始まるのだろう、そう思っていた。しかし…まさかあのようなことが起こるとは・・・
PL 夕凪あや(あやのさん) 宮国琢矢(sugarさん)
そこは神のみぞ知る部屋。そこで目覚めた数々の人間は仕掛けに頭を悩ませ、自分を正当化して殺し合ってきた。どんな正義を吐く者も、傷ついた者に手を差し伸べる者も、結局は己のために他者を差し出す。そうして生き残った者は己の非力さを思い知り、自己嫌悪に陥ることもある。そうやって人間を堕としていく邪神の遊び場だ。
ほら、またどこからか人が連れてこられた。いつものように醜い殺し合いが始まるのだろう、そう思っていた。しかし…まさかあのようなことが起こるとは・・・
男は目を覚ました。目の前にはテーブルを隔てた椅子に腰かける美しい顔立ちの女性が眠っている。そこは壁も床も家具も白い部屋だが一方だけ鉄格子があり、その向こうには壁一面の大きな鏡がここ全体を映していた。テーブルには紙切れが一枚と長方形をした大きめの鏡が鏡面を上にして置かれている。ふと、その鏡面が目に入った男は自分の目を疑った。そこには黒く巨大な穴が映っているのだ。見上げると、六メートルはあるかという白い天井に大きな穴が開いているではないか。穴の先は暗闇で、大人三人は余裕で入るだろう。ここが何処なのか、何故ここにいるのか、男には全く記憶が無かった。
「……ここは、どこだ。夢…なのか?」
男は自身の体が無事なことを確認したあと、椅子から立ち上がり女性の方に向かった。
「おい、大丈夫か?……寝ているだけか?」
肩を揺らすと彼女はうっすらと目を開けた。
「う…。うーん……って、え? ここは…? あなたは誰ですか……?」
上品な雰囲気で、しかしどこか疲れた様子のその女性は騒ぐこともなく、横に立つ落ち着いた雰囲気のある男の眼にまっすぐ尋ねた。
「そっちこそ……。いや、まず俺から名乗ろうか。俺は宮国琢矢っていう者だ。あなたは?」
「私は夕凪あや、と申します…。あの、ここは一体…?」
「あなたも知らないのか……。俺にも見当がつかない。ここに来るまでのことは覚えているか?」
「普通に仕事をしていたはずなのですが…。」
そう言って部屋を見回す夕凪の髪は美しく揺れた。
「とにかく、部屋を探索してみませんか? 何か見つかるかもしれないので…。」
「そう、だな。」
宮国が返事をするやいなや彼女は立ち上がり、足を踏み出した。しかしその足はテーブルの脚に引っかかる位置だった。宮国はそれを見逃さなかったが、注意する前に夕凪はつまずいて派手に転んでしまった。その衝撃でテーブル上にあった鏡が床に落ち、うるさい音を立てる。
「っ…!」
宮国が慌てて鏡を拾い上げると、幸いにもヒビなどはなかった。体を起こす夕凪を横目に、彼は注意深く部屋を見渡した。そして彼の目は鉄格子とは反対側の壁の小さな穴を捉えた。近づいてよく見ると鍵穴のようだ。しかしそこに扉はない。白い壁に不自然にそれはあるのだ。というより、この部屋の何処にも、鉄格子にさえも扉が無い。
「これは鍵穴か…? 随分と意味深な…。」
「何かあったんですか?」
夕凪は遅れて宮国に駆け寄る。
「いや、ここに鍵穴らしきものがあってだな。」
彼の指先の壁にはちょうど腰あたりの高さに鍵穴があった。
「なるほど…。なぜ鍵穴が。どこかに扉があるのかもしれませんね。それとも何かの仕掛けかも。紙切れを見てみませんか?」
そう言って今度は夕凪がテーブルの上の紙切れを指差した。
「そうしようか。」
紙切れには『相方を死なせるな』と黒く滲んだ文字が書かれていた。
「…相方? この場で言うと宮国さんのことかしら。」
「これは……相方、と言われてもこの場には二人しかいないからな。どういう意図でこれを置いたのか…。」
「…? 裏にも何か書いていますよ。」
夕凪が紙を裏返すと、滲んだインクは別の文字を形作っていた。
『他に誰がいる?』
「どういう意味なのでしょう。私たちのことなのかな…。」
「今は色々と見てみるしかないだろう。」
宮国はさっき拾い上げた鏡をもう一度よく見てみた。両手で持てる大きさでしっかりした鏡だ。何の変哲もない。
「この鏡、一体何なのだろうな。」
「少し大きいですね、その鏡。私も問題なく映っていますね…。」
このとき鏡に映った夕凪は、誰もが一度は目を止めるほど美しかったろう。
次に二人は鉄格子に向かった。まだ新しい状態でかなり頑丈そうだ。格子は腕くらいなら通せそうだが、どういうわけかその2,3メートル先には壁一面の一枚鏡があるのだ。
「鉄格子の向こうに鏡…ね、一見意味の分からない構造物だが…。」
「今はどうすることも出来なさそうですね……。」
夕凪が宮国に視線をやると、彼はおもむろに鉄格子に手を伸ばしていた。そして・・・
バチバチバチッ‼
彼が格子に触れた途端、耳がつんざくような音と共に宮国はこれまで経験したこともないほどの電流を浴びた。
「ぐわぁっ‼」
「ちょ、宮国さん大丈夫ですか⁉」
たまらず退く宮国に彼女は駆け寄った。髪の毛の焦げる臭いが漂っている。
「なんだ、くそっ! 趣味の悪い仕掛けを施しやがって!」
夕凪は彼の赤くなった掌を手当しようとし、笑いをこらえた。彼の整っていた髪は見事に崩壊していた。
「あら、髪の毛が…。」
しかしそんなことで笑っている場合ではない。直ぐに彼女は真剣に彼の手を診たが、幸いにも軽い火傷で済んだようだ。
「なんとか大丈夫だ。……って、今笑ったか?」
宮国にはなんとなく察しはついていた。だから髪を戻そうといじった。
「い、いえ…。そ、そんなことより次はあの椅子を見てみませんか?」
夕凪にはこの場を誤魔化し切る自信は無かった。彼女は逃げるように椅子に向かった。
「ああ、そうだな。もう鉄格子は懲り懲りだ。」
宮国も髪をある程度整えて後を追う。
椅子には床に固定されていることを除いて特別なにもないようだ。
「この椅子動きませんね……どうします?」
「……まあ、動かないのならそのままでいいだろう。また電流でも流されたらたまらん。」
「そうですね……。あ、そう言えば鍵を見つけていないですね。」
「そうだな…。」
宮国は次にテーブルを調べてみた。これも固定されているらしい。さらに裏には『穴には落ちるしかあるまい』と文字が書かれていた。
「穴……? 穴というのは、アレのことか?」
天井の穴を指さす宮国につられ、夕凪も見上げる。何度見ても穴ははるか頭上にぽっかりと開いている。
次に二人はそれぞれ反対側にある棚を調べることにした。夕凪の見た棚にはスタンドマイクと無音のスピーカー、それらの手前に長方形の鏡をはめられそうな台が置いてあった。宮国の見た棚には本が数冊と、棚の上面に別の鏡が立てかけられていた。しかしその鏡は宮国を含めて映るもの全てを上下逆さまにしていた。さらに鏡の横の壁には意味ありげな文字が赤く刻まれている。
『慎重に使え。殺したくなければ。』
宮国はその文字を気にしながらも数冊の本に目を通した。本はどれも鏡について書かれており、歴史や物語なども記載されている。その中で一ページだけメモ用紙が挟んであった。メモ用紙には『鏡は事実を映すが、時に真実をも映しだす』とあり、挟まれていたページにはマジックミラーについて書かれている。
『明るい方からは鏡に見えるが、暗い方から見ると向こうが透けて見える。』
「『真実を映しだす』か。鏡は丁重に扱った方がいいだろうな。」
宮国がいったんテーブルに戻ると、ちょうど夕凪も棚を調べ終えたところだった。二人は互いに見たものを報告し合い、夕凪はテーブル上の鏡を、宮国は上下反転して映す縁に凹凸のある鏡を持ち出した。そのまま互いの持つ鏡で映し合うが、宮国の持つ鏡には夕凪もやはり逆さに映った。
「え、上下逆さまに映っている…?」
夕凪は驚かずにはいられなかった。
「不思議だろ? 一体どういう仕組みなんだか……。」
「それはそうと…マジックミラーか否かってどのように分かるのでしょう。それに鍵がまだ見つかりませんね…。」
「そうだな…。」
二人はしばらく頭を悩ませた。ほんの僅かに暗いテーブルの下に鏡を置いてみたり、棚をもう一度調べたりしたが鍵は出てこなかった。それどころか、この部屋には光源らしきものが無いのだ。どこも均一に明るく、影ができない。
「…考えていてもらちが明かない。あなたが調べた棚の台にその鏡をはめてみないか。」
「してみましょうか。」
二人は夕凪が見た方の棚に向かい、彼女が持っている鏡をはめようとした。しかし、鏡をはめるとスタンドマイクが隠れてしまうようだった。
「はめる前にこれらの機械を調べよう。」
そう言うと、宮国はマイクのスイッチを入れた。するとマイクに赤いランプが点灯し、スピーカーは沈黙を破ってノイズ音を話し始めた。コンセントや配線は見当たらないが、電気は通っているようだ。
「あー、テストテスト。」
宮国がマイクに向かって話しかけると、少し間を開けてそれに答えるようにスピーカーのノイズ音が一瞬強くなった。自分の声が返ってきたのかとも思えたが、どうにも判断がつかない。
「このマイク、壊れているのか?」
「さっきからノイズしか聞こえないですね……! 鏡をはめちゃいましょう。」
夕凪が手に持った長方形の鏡を台にはめると、その鏡からは二人の姿が消え全く別のどこかの部屋を映しだした。部屋の間取りは同じくらいだが全体的に鉄が錆びたような色をしており、天井には黒いモヤがかかっている。家具はどれも上下逆さにひっくり返っている。そしてそのような部屋をウロウロする男の姿と、首から血を流し床に倒れ伏す女性の姿があった。男は長身でヨーロッパ風、女性は日本人にも見えるが既に絶命しているようだ。こちらに気づく様子はない。
「……え? ここは……。」
「なんだ、これは。それとあの壁の文字は…確かあれはオランダ語だ。」
宮国が鏡越しに指した向こうの部屋の壁には『Leid ze』と赤文字が書かれていた。
「俺の専門外だ。あなたは分かるか?」
「私ですか? …すみませんちょっと……。」
夕凪は突然の問いかけに少し戸惑った。というのも、彼女の目は遺体の首にある切り傷を捉えていたのだ。夕凪にはその女性が首からの多量出血が死因だということが分かっていた。そして、鏡の中の男に話しかけることを決めた。鏡に隠れたマイクへ声が入るように大きめの声で問いかける。
「あの、すいません。…ここは?」
「…は? どこから話している。お前は誰だ。聞きたいのはこちらの方だ。」
男は一瞬驚く様子をみせたが、その場で言葉を返してきた。マイクも何も使わずに。スピーカーのノイズ音はいつの間にか消え、そこから男の声がはっきりと聞こえる。やや発音に癖がありながらも、ちゃんとした日本語だ。
「私は夕凪あや、です。あなたは?」
夕凪は男に問いかけながらも宮国に視線を向けたが、彼は黙っておくことを決めたようだった。
「ゆうなぎ…? 俺は…エスパーだ。」
「エスパーさんですか……。あの、エスパーさんは何故そこにいるのですか?」
「知るか。」
エスパーの鋭い即答に、夕凪は思わず体を縮ませた。男はそれを見透かしたように畳みかける。
「逆に聞こうか。何故お前はそこにいるんだ。俺を見張るためか? その様子じゃ、俺の姿が見えているようだし。」
「違いますよ! 私も気づいたら変な部屋にいたんですよ……!」
「ふーん。…一人か?」
夕凪は返答に困り再び宮国を見たが、彼はまだ自分の存在を隠してほしいらしく首を横に振った。
「実質あなたと私の二人です。」
そう言うとエスパーは一瞬困惑したような表情を見せたが、それ以上人数についての追求はしてこなかった。
「ああそう。お前の部屋には何がある。俺もここから出たいし、情報交換しようじゃないか。」
彼のその申し出は今の二人には早かった。
「怪しいですね。」
「敵か味方か…。しかしどうやら男もそこから出たがっているみたいだ。苛立っているようにも思える。」
「なるほど……。ありがとうございます。」
小声で相談していると、スピーカーから男の呼ぶ声が割って入った。話し合いに気が取られているうちに、結構な間が開いてしまったようだ。夕凪はとりあえず鏡の前に戻った。
「私の部屋には棚が二つと、まあ色々あります。あとは鏡がありますが…そちらには何があります? それと、誰か他にいますか?」
「色々って…そこは誤魔化すなよ。俺のところには何もない。この女の死体以外には。」
「死体…?」
「ああ、首切って死んでいる。それと…俺は鍵を一本持っている。この部屋に使い所が無いことからすると…俺が持っている鍵は恐らく、お前の部屋で使うものだろう。俺が出られずに死んだら、お前も道連れだ。」
エスパーと名乗る者はそう言うと、上着のポケットから一本のアンティークな鍵を取り出した。
「…分かりました。私の部屋も少し探索するので待っていてください。」
彼の了承を得ると、二人は彼と彼の部屋を注意深く見ることにした。男にこちら側が見えないのであれば、なんとでも言って一方的に観察できるのだ。男は死体に動揺する様子はなく、嫌がる素振りもない。殺人犯とも疑ったが、凶器になるものや返り血は見当たらない。ふと、二人は男の部屋の床の一部が黒ずんでいるのを見つけた。その黒ずみは大きさといい形といい、こちらの部屋の天井にある穴と同じように思える。ここで宮国が男に声を掛けた。
「おい、あなた。こちらの声が聞こえているようだな。」
先ほどと異なる声に男は一瞬顔をしかめたが、落ち着いた声で二人の予期せぬ回答を口にした。
「ああ、声が違うようだが…お前はマイクテストとか言っていた奴か。何故黙っていた。」
宮国がマイクにそう言ったのは鏡をはめる前、スピーカーがノイズを発している時だった。その時から既に男に声が届いていたということだろうか。宮国はそう理解した。
「なるほどな…。そりゃ、見知らぬ遺体と一緒にいる男なんて疑わないわけにはいかないからな、少し様子を見させてもらった。」
「いつから監視されていたのかは知らんが、気分のいいものではないな。それに、俺が殺したわけではない。こいつは自殺したんだ。」
「自殺…。その言いぶりだと、死ぬ瞬間を見ていたようだが?」
宮国の問いかけに男は変わらず冷静に続ける。
「ああ、目の前で首切ったからな。フッ、俺が犯人だとでも思ったか?」
そう言って鼻で笑った。宮国にはその発言が嘘のようには思えなかった。
「なら凶器はどこだ? 刃物でも落ちていると思ったが。」
「おや、これが目に入らなかったか? あえて触れなかったんだがな。」
男はそう言うと女性の遺体に近づき、傍に転がる血の付いた鋭利な物を拾い上げた。鏡の破片のようだ。しかし男の部屋に欠けた鏡は見当たらない。
「……ふーん、そうか。聞いておくが、あなたの部屋には鏡が何枚あったんだ?」
「…さあな。どこから持ってきたのやら…。」
男は破片を見つめたまま答えた。その曖昧な答えに、宮国は男が何か隠し事があるように感じずにはいられなかった。そこに夕凪が小声で話しかける。
「この方が殺したんですかね…?」
「この人は殺していなさそうだ。が、まだ何か隠し事をしているな。」
この少しの間を自分に対する疑いと感じたのか、男は言葉を付け加えた。
「俺を犯人扱いするのは自由だが、鍵を持っているのは俺だからな? 協力する他ないんだぜ?」
「しかし…まだ完全に信じるわけにはいきませんね…。」
夕凪たちにはまだいくつか疑問があった。男は鍵をこちらの部屋で使うものだと言っているが、それはこちらの壁の鍵穴に使うもので合っているのだろうか。だとしたら何故、鍵を持っているのか。
「協力しない、とは一言も言っていないぞ。それにそちらには鍵穴が無いんだろ? 協力する他ないのはあなたも同じだと思うが。」
「ああ、だから鍵を持っていることなんかを話したろ。」
「そうだな、こちらはこちらで探索を続けてみる。何か分かったらまた情報交換でもしよう。」
宮国が話を切ろうとすると、他二人が口を挟んだ。
「待て、俺はまだそちらにあるものを詳しく聞いていないんだが。」
「ちょっと待って、その鍵はどこにあったの? 気づいたら持っていた?」
「あ? 鍵は…気づいたらあったな。」
男は夕凪の質問に少々困った様子だった。
「そう。じゃあこちらの詳細だけど…棚以外には椅子とテーブル、後は…壁に文字が見えるわ。」
「ん? お前らの部屋にも文字があるのか。」
男は少し驚いたようだった。しかし文字があるのは男の部屋の方だ。宮国が急いで付け加える。
「いや、俺たちの部屋にその文字はない。オランダ語のようだが、意味は分からないな。あなたは読めるか?」
すると男は壁に書かれた文字に目をやり、なんの迷いもなく答えた。
「ああ、『彼らを誘導しろ』とある。」
「『彼らを誘導しろ』……? 意味がはっきりとしないな。」
「ですね…。彼らが何かすら分からないです。」
「お前らに向けてなのか、俺らに向けてなのか。もっとも、俺らの場合だと既に一人は死んでいるがな。」
「その女性は首を切る前に何か言っていなかったか?」
「もう耐えられないだのなんだの。…なあ、俺がそちらへ行く方法を考えてくれないか。」
夕凪にはまだ男が信用できず、こちらの部屋には来てほしく無かった。だが鍵は欲しい。
「それは現状分からない。あなたが何処にいて、俺たちが何処にいるのかも。」
「仕掛けがあるはずだ。俺のところには鍵しかない。あと気になるのは天井のモヤだが…。」
男の部屋の天井にはモヤが一面にかかっており、何も見えない。男の方も天井が調べられずに困っているようだ。宮国が言った。
「なあ、そっちに大きな鏡があるだろ? 壁一面覆っているそれだ。それに異常はないか? 軽く叩いてみてくれないか。」
「特に異常は見られないがな…。」
男はそう言ってため息交じりに鏡をコンコンと叩いてみせるが、その音はスピーカーから聞こえてくるだけで、二人のいる部屋の鉄格子先の壁鏡から音は無かった。男の部屋は鏡を挟んで隣にあるというわけでもなさそうだ。
「これが何だ。」
「……いや、なんでもない。気にしないでくれ。」
宮国はそう言うと、台から鏡を外した。すると男の部屋を映していたそれは、再び普通の鏡に戻った。さっきまで隠れていたマイクに今度は直接話しかけてみる。
「おい、聞こえているか?」
「おお…。先ほどよりもはっきりと聞こえる。」
「そうだろうな。そちらにはマイクやスピーカーがあったりはしないのか。」
男は今でも何も機械を通さず、ただ独り言のように空中に話している。
「一体何をしたんだ。というより、どうやってこちらを見ている。監視カメラは無さそうだが…。何度も言っているが、こちらには鍵以外、何もない。」
「俺たちは鏡を使ってそちらを認識している。仕組みはよく分からんがな。声はマイクを通じて送り出せているし、そちらの声はスピーカーを通じて受け取っている。」
「エスパーは私たちのこと、見えていないのよね?」
この時エスパーは何か呟いた。何を言ったかは分からなかったが、それは本当に独り言のように、何かに安堵するような、呆れるような、そんな声だった。
「ああ、俺からは見えていない。鏡と言ったな、一つだけか?」
「今あなたを認識できた鏡は一つだけだ。」
「他にも鏡が?」
「あと二枚あります。片方は私たちが上下逆さまに映っているんです…。」
「何かに使えそうだな。その鏡。」
エスパーは何の疑問も持たずに短と答えた。何かを促しているようにも思える。二人は上下反転する鏡の使い方を長い時間考えたが、映す以外には割って武器とすることくらいしか思いつかなかった。その鏡を棚の台にはめようともしたが、こちらは上手くはまらない。暫くしてエスパーが口を挟んだ。
「上下反転していることの意味はなんだろうな。上下逆さなのは、気持ちが悪いな。」
その言葉を機に、今度は上下反転した鏡を180°回転することにした。するとどうだろう、逆さに映っていたものが元の位置に戻ったではないか。普通の鏡となんら変わりない映り方になった。しかしそうなった途端にスピーカーからエスパー悲痛な叫び声と、何かに突き刺さるような音が聞こえてきた。二人が急いで元の鏡を台にはめると、鏡には現実とは信じがたい光景が映った。男の部屋は180°ひっくり返っており、天井だった黒いモヤが床になって天井には家具がくっついている。そしてエスパーと女性の遺体は黒いモヤの中に横たわっているのだが、その体には幾本もの針が刺さっていた。天井には無数の針があったのだ。どれほどの勢いがあったかは体に深々と刺さる針と、所々ちぎれた女性の遺体が物語っている。その中でもエスパーは僅かに動いていた。まだ生きているようだ。宮国が台の鏡で部屋を確認しながらゆっくりと手に持つ鏡を傾けると、男の部屋も連動するように同じ方向に傾いていく。すっかりもとの傾き、つまり上下逆さに映る位置まで戻し終えると向こうの部屋も天地が戻り、二つの体は針から抜け出て大量の血雨と共に床に降った。エスパーは吐血しながらゆっくりと体を起こす。その表情は苦痛に満ちていた。もはや彼に残された時間は少ない。『相方を死なせるな』とはこのことだったのだ。鍵をもらえないまま死なれては、どうすることもできない。この部屋の回転を利用して何ができるのだろう。
「…俺を殺す気か?」
エスパーがやっとの思いで発した第一声はこれだった。ある程度の知識があるのか、自身で止血しようと試みている。
「いや、全てこちらの不手際だ。すまない。ここでは常識が通用するとは考えない方がいいな。」
「まったくだ…。」
エスパーは体を引きずって壁にもたれかかった。浅い息を繰り返している。
「あの、床の黒ずみに触れてもらえませんか?」
夕凪は床の右端上にある黒ずみが気にかかっていた。今はほとんど赤に侵食されているが。しかし、エスパーは困惑した様子を見せた。それが何処にあるかとでもいうように辺りを見回す。
「黒ずみ…? 何処にある。」
「部屋の右端上です。」
「そんなものはない。それとも…俺には見えていないだけか? それがどうかしたのか。」
「その黒ずみと似たような大きさのものが、私たちの天井にあるんです。もしかしたらそこを通っていけるかと思っていて…。」
「ほう…。天井に黒ずみがあるのか。…穴、ではなく?」
エスパーは最後にそう付け加えた。
「黒ずみではなく、そちらの黒ずみと同程度の大きさをした底なし穴だな。」
宮国が答えると、彼は一息吐いてから
「そうか。穴には落ちるほかあるまい。」
と、テーブルの裏にあった文字と同じようなことを呟いた。
「とは言ってもだな、穴は天井にある上に先が全く見えない。……まあ前者の問題は解決できそうだが。」
「底なし穴に落とすのは流石にね…。」
この時、二人にはある考えがあったのだろう。しかしそれは計り知れないリスクを伴う可能性があった。一方、エスパーにも考えがあるようだ。
「俺のところにあるという黒ずみ…と関係があるのなら、俺がその黒ずみに落ちればいいのかな…? お前たちに天井穴に落ちてもらうことはできないだろうから。まあ、こちらに来られても困るが。」
「かと言ってそちらにあるのはただの黒ずみだ、穴ではない。落ちることはできないだろう。」
「天井からなら、落ちられるんじゃないか? 現に俺はさっき落ちたろう。」
「天井から…? 勢いを利用するということか?」
「まあ、そんなところだ。落ちるにはそうするしかない。愚策だろうか。しかし他に案があるか?」
「上手くやればできるかもしれないですね…。」
「俺を床の黒ずみに誘導し、天地を返した後、元に戻せば…。」
エスパーの中で結論は出ているようだ。しかし宮国にはまだ試したいことがあった。そのことを告げると、エスパーの舌打ちと引き換えに宮国は鏡を台から外して傾けた。だが、こちらの鏡はそれによる変化を見受けられなかった。
「こちらの鏡は普通のものか…。いや、別の場所を映しだしている時点で普通もクソもないな。」
「段々、感覚が麻痺してきましたね……。」
夕凪の言うことはもっともだった。この部屋にはそもそも普通が存在しない。こんな状況下では何事も起こりそうだ。
「ああ……早くここから出なければ。」
宮国は鏡を再び台にはめた。そこから鏡が血に染まった男の部屋を映しだすことはもう言うまでもないだろう。
「それでは……回すぞ。」
宮国は心を決め、先ず上下逆さの鏡を90°回した。すると向こうの部屋も同じく傾き、エスパーは壁鏡の上に位置した。鏡は強固なものらしく、重みでヒビが入ることはない。ただ、回転に伴って赤い液体が床だった壁から行き場を求めてゆっくりと降りてくる。女性の遺体だった肉塊も踊るように赤をまき散らしていく。目をふさぎたくなるような光景だが、エスパーはそれでも平然としているようだった。彼は壁の位置に移動した黒いモヤを見た。部屋が90°傾いた今ならよく見ることができるのだ。
「なあ、お前らが黒ずみのあると言っていた床(今は壁になっている)の真上にあたる黒モヤには…針が無いようだ。」
「……作成者の意図が透けて見えるような作りだな。全く、親切なこった。」
針がないのであれば…と、宮国はもう90°回転させた。今度はエスパーは針に刺さることなく黒いモヤの上に立った。だが、すぐ傍に転がった肉塊には刺さっている。
「なあ、これで俺を床に、黒ずみの上に落としてくれないか。」
エスパーは上を見上げて言った。
「それでは…もとに戻すぞ。」
宮国が一気に鏡を反転させると、部屋は勢いよく回転した。エスパーは黒ずみに吸い寄せられるように落下していくが、床にたたきつけられることはなく通り抜けて姿を消した。
宮国と夕凪がそれからどうしようかと考えあぐねていると、頭上から赤い液体が降ってきた。顔を上げると天井の穴から男が降ってきていた。何をする間もない。男はそのままテーブル上まで落ちると、ぶつかる寸での所で受け身をとり、血をまき散らしながら椅子を伝って床に転がった。あっという間の出来事だった。エスパーは呻きながらなんとか体を起こそうとしている。
「エスパー⁉ 大丈夫?」
「おい! 大丈夫か‼ まさか本当に降ってくるとは。」
二人は急いで駆け寄た。彼の体の至る所には痛々しい刺し傷がついており、その苦しみは想像に難くない。彼は二人の存在を感じたのか、顔を上げた。その眼は青く鋭く、力強い。
「……お前らか…俺と話していたのは…。」
「あ、そうです……。夕凪あやです。」
「ああ、宮国琢矢だ。」
二人が名乗ると、彼は安堵するように腕の力を抜いて床に伏した。
「はあ…。死ぬかと思った。」
宮国はこの男の生命力に驚いた。天井は6m以上もある。加えて穴の長さを落ちてきてよく耐えたものだ。
「いや、どのくらいの距離を落ちてきたんだ? 本当によく死なかったな……。」
夕凪はすぐにエスパーの体をひっくり返し、血で汚れるのもお構いなしに傷口に手を当てて止血を試みた。しかし、まだ彼女は看護師になったばかりで経験は浅い。抑えた場所が悪かったのか、痛がったエスパーに手を退けられてしまった。
「痛ってぇな‼ 触るな!」
「あ、ごめんなさい…。」
今度は見かねた宮国が試みる。
「ちょっと見せてみろ、この位の怪我なら……。」
夕凪から代わると適切に傷口を押さえた。
「慣れってやつだ、動くなよ。」
「お前…医療に勤めているのか。」
「いや、親から教えてもらっただけさ…。まあ、気にするな。」
「…医療に勤めているのは私ですね。」
夕凪は宮国の後ろで居心地悪そうに苦笑いした。エスパーはそれを聞いて鼻で笑う。
「……まあ、こんな辺鄙な状況だ。仕方ないことも、あるだろう、うん。」
宮国は肩を持つように夕凪に言った。すると彼女はせめてと言わんばかりに宮国の軽火傷を処置した。
「ほら! 私、看護師ですよ!」
夕凪の必死のアピールを聞き流し、エスパーは懐から鍵を取り出して宮国に差し出した。その鍵は彼と同様、血で濡れている。
「確かに、あなたの本来の腕は良さそうだな……っと鍵か、受け取っておこう。」
ある程度応急処置をし終えた三人は壁にある鍵穴へと向かい、鍵を差し込んだ。すると壁と一体化した扉が開き、上へと続く階段が姿を現した。先から音はしない。外には通じていないようだ。
「まだ出られそうにないですね……。」
「そうだな、別の密室に繋がっていると考えるべきか。」
二人の後ろからエスパーが声を掛ける。
「階段か…。様子を見てきてくれないか? 俺はこのざまだし。」
「そうだな、そこでじっとしているのがいいだろう。俺たちが見てくる。」
宮国がそう言うと、エスパーは頼んだと言うように椅子に腰かけた。二人は宮国を先頭にして階段を一歩一歩上って行った。
階段を上り終えた二人を迎えたのは教会のような空間だった。ここも高い天井で、壁の上方にはステンドガラス、奥には大きな十字架。そこに続く通路には真ん中を開けて左右に物や本が乱雑に積まれている。そしてよく見ると、十字架の前には人が立っている。黒いローブのようなもので全身を覆い、こちらに背を向けて何か読んでいるようだ。ここからでは声を張らないと気づいてはもらえないだろう。
「ここ……何かの教会みたいですね。」
「ああ、これはまた随分と不自然な場所に出たものだ。」
「とりあえず私はそこの書物を見ようと思うのですが……。」
「……俺があの人物と話して気を引こう。その間に物色するといい。」
宮国は奥の人物にそっと近づいて行った。できればそのまま真後ろまで行きたかったが、半分くらい来たところで気づかれてしまった。ゆっくりとローブ姿の男は振り返った。青年のように見えるが、おおよその年齢は分からない。顔と手と裸足を残して他はすっぽり服で覆っている。その者は二人の存在を認めると、不思議そうにこちらに向かって来た。
「人がいたとは…。何処から来たのだ。」
片手には先ほどまで読んでいたであろう本が握られている。
「どこから? ここに入る入り口は一つしかなかろう。」
宮国が階段を指摘すると、ローブ男は目を見開いた。
「…我がここに来た時はそのような階段は無かったのだが…。」
「あなたはいつからここに?」
後ろにいた夕凪が横に出た。
「ええと、つい先ほど。気が付いたら居たのだ。」
「……そもそもあなたは何者だ?」
続いて宮国が問いかける。しかしその質問に男は顔を困らせた。
「…何者かと言われると……返答に困るな。我はエバンという。」
「私は夕凪あやです。」
「エバンさんか、俺は宮国琢矢。ここに来る前は何をしていた?」
「よく…覚えていない。記憶が曖昧でな…。」
己についての返答を濁す様子に、二人は段々怪しさを感じていった。
「宮国さん、この人本当に気づいたらここにいたんですかね。」
「嘘はついていない……恐らくだが。」
二人がコソコソ話す様子をエバンと名乗る者はただ黙って見ていた。宮国は気を取り直して再び問いかけた。
「気が付いたらこのような教会みたいな場所にいた、と。ここに来てからは何をしていたんだ?」
「して……書物を見ていたんだが、気になるものがあってな。」
そう言うと手に持つ本を二人の前で開いた。ページには『生贄の血』と題されている。
【神への捧げものとして使われてきた。生きている者の血でなければならない。強く、体を針で貫かれても死なないような者が欲しい。指を切り落とし、足をもぎ取ってでもその血を流し器を満たせ。十字架に磔にし、その身を捧げよ。さすれば願いは叶えられるだろう。】
「該当する生贄を捧げればここから出られるやもしれん。我はこの贄を探しているところだ。」
夕凪はこの生贄に該当する者というのがエスパーのことを指しているように思えてならなかった。そして彼のことをできるだけ隠そうと決めた。
「生贄ですか……。」
「生贄…ね。趣味の悪い本だ。しかし捧げると言っても『器』はどこにあるんだ?」
「残念ながら其方らは違うようだが…。ウツワに関しては我も分からぬ。物理的なものなのか象徴なのか。」
「この大きな十字架に磔に…。」
奥の十字架は人がはりつけられるほど大きい。それに、ちょうど腕がおけそうな位置に鉄杭が鎖で垂れ下がっている。
「何か調べ物をしたいようであれば好きにするがよい。我は止めはせん。」
「そうか、なら遠慮せずに調べさせてもらおう。」
「…分かりました。」
二人は手分けして物の山を漁った。夕凪は『要望』と表紙に書かれた中白紙の本を見つけた。
「宮国さん、これ要望っていう中身が白紙の本があったんですけど、何でしょうかね。」
そう言って宮国の方を向くと、彼は山からはみ出た棒きれを引っこ抜いていた。すると突然山が崩れ、彼にのしかかった。
「ぐわぁ!」
夕凪は急いで駆け寄り、山から宮国を引っ張り出した。彼の腕や顔には擦り傷が付いている。
「いたた……。くそっ、やりづらい場所だ。」
宮国の周りには物が散乱していた。夕凪はその中から丈夫そうなロープや斧、テーザー銃が目に入った。彼女は宮国の心配もほどほどに、ロープを自分の腰に巻き付けた。宮国は銃を持っておくことにした。そこに音を聞きつけたエバンがやって来る。
「この有様は……何か見つけたかい?」
「あ、この要望っていう中身が白紙の本がありましたよ。何かは分からないですけど…。」
「あとはそうだな、丈夫なロープがあったが、持って行っても構わないか?」
他のことは隠しておくことにした。
「ほう…、ようぼう…とは確か願いのことか。ロープなら構わない。」
「ありがとうございます!」
「…ふと思ったのだが、其方らは二人だけかい? 他に誰かおらんか。」
「いや、見てないな。」
「ええ、起きたら二人だったんですよね。」
「困ったな。これではだれを生贄にするのか分からなくなるではないか。」
エバンは相当困ったようだった。二人はこの間にエスパーが上に来ないことを願うばかりだった。もしエバンに知れたら、生贄にされてしまうだろう。
「なあ、階段の下に行っても良いか? 何があるか知りたい。」
この申し出に二人は頭を悩ませた。もちろんそれと知られないように。
「下ならもう私たちが調べ尽くしましたし…。」
「…そうか。行ってはいかんのか。」
「エバンさんにはここの探索を任せても構わないか? 私たちは下をもう一度調べてくる。」
「そうか。…ならばここをもう少し調べるとしよう。」
エバンはやや残念そうにしながらも二人から距離を置き、また物を漁り始めた。
「……さて、私たちはいったん戻るか。出口も無かったことだしな。」
「そうですね…!」
二人がエバンを置いて階段を降りると、少々焦げ臭いにおいが鼻をついた。髪が焦げるような臭いだ。嫌な予感がしながら部屋に出ると、鉄格子の前でエスパーが膝をつき苦痛の表情で手を押さえていた。二人はすぐに何が起こったか分かった。エスパーは鉄格子に触り、感電したのだろう。
「……‼ あのバカ! おい! 大丈夫か!」
「エスパー⁉ 大丈夫?」
夕凪は彼に走っていき、揺さぶる。
「…テ…シ…ビ…レ…。」
エスパーは蚊の鳴くような声で答えた。手袋をした手は痙攣している。
「……え?」
夕凪は彼を鉄格子から離した。宮国が遅れて駆けつけて来る。
「くそっ! 確かに俺たちの情報の伝達不足だった感は否めないが、じっとしていろとは言ったぞ!」
そう言ってエスパーを床に横たわらせた。
「じっとしていろ…だと? 簡単に言ってくれるな! 痛みでそれどころではないんだ。じっとしていられるか!」
エスパーの声には怒りが籠っていた。
「口を動かすんじゃない。確かにそうかもしれないが、だからと言ってよく分からない鉄格子に触るものじゃないだろ。」
「うるさい! 事故だ。」
「とりあえずそこで寝ていて…。」
夕凪は体を起こそうとするエスパーを押さえる。
「だから! 寝ていられないって言っているだろ…!」
エスパーは声を張り上げた。
「ちょ、静かに…。」
夕凪はエバンに彼の声を聞かれまいかと気が気でなかった。
「宮国さん、エスパーに生贄のこと話します?」
「そうだな…。話そうか。」
「エスパー、ちょっと聞いてくれる?」
先ほど声を張った代償に痛み苦しむエスパーへ夕凪は声を掛けた。彼は薄っすらと目を開けて応える。
「…あ? 上の奴と…何を話したんだ。」
「上の階には教会みたいなものがあってね、そこにローブを着たエバンという男がいたの。彼の読んでいた本には、針に刺されても死なないような男を生贄として捧げればここから出られる…というような旨のことが書いてあったの。」
エスパーは黙り込んだ。なんとか冷静さを保とうとしているのが分かる。夕凪は続けた。
「だから、そのエバンという男はエスパーを見つけたら殺しに……いや、生贄にしようとしてくるかもしれないの…。」
夕凪の手から彼の体が強張るのが伝わってきた。
「……お前らはどうなんだ。」
エスパーはようやく口を開くと、小さく問いかけた。
「…そりゃ生贄以外の方法で出たいに決まってる…。」もちろんそんな方法があればだが。
「……人殺しをする趣味は俺にはないな。」
二人がこう言ってもエスパーは表情を変えず、空に言葉を投げかけた。彼の眼の力強さはいつの間にか消えていた。
「口先ではそう言っても…手段がなけりゃ俺を差し出すんだろ? そのロープで俺を縛り上げれば済む話だ。」
「じゃあ約束する。絶対生贄以外の方法でここから出られる方法を見つけるわ。」
「……そうだな。まだ全ての謎が解けたわけじゃない。探索を続ける価値はある、か。」
エスパーは再び口を閉ざした。しかし何か思考を巡らせているようだ。二人は自分たちにできることを考えた。先ずは、エバンが下に来ないよう足止めすることだ。
「私は上に行ってきます…!」
夕凪は階段を駆け上がって行った。一方、宮国はまだ行動を決めかねていた。夕凪が行った後、しばらくしてエスパーは起き上がり椅子に腰かけた。二人とも顔を合わせることも言葉を交わそうともしなかった。ただ一切を考えることに集中した。
夕凪が上に戻ると、エバンはまだ本を漁っていた。その様子に夕凪は少し安堵しながらも声を掛ける。
「こんにちはエバンさん。何か見つかりましたか?」
エバンはゆっくりと夕凪の方を向いた。手元には様々な言語の本が散らばっている。
「ああ。いや、どれも我には読めなくて。…もう一人はどうしたのだ?」
「手分けして探すことになったんですよ。私はエバンさんの手助けに来ました。宜しければここで一緒にお手伝いさせていただけますか?」
「…しかし、これ以上何かあるだろうか。」
「ええ、そのことなんですが、まだ器が見つかってませんよね? 下にもそれらしきものは無いですし、正直ここしか考えられないんですよ…。」
「そうか。」
エバンは返事をすると視線を手元に戻したが、首を少し傾けてゆっくりと夕凪に問いかけた。
「…ちょいと聞きたいのだが、そなたは針に刺さったことはあるか。小さなものでも。」
「いえ……私は特にそういったものを扱うことはないので…。」
エバンのこの質問が何を意味するのか、夕凪にそれが感じられたのかどうかは本人にしか分からない。回答を聞き終えると、エバンは調子を戻した。
「ではウツワを探そうかな。…しかしウツワとは何なのだ。我はウツワというものを知らん。」
「私も器については存じ上げませんが…。やはり、なにかお皿状のものなのでしょう。」
「では探しようがないではないか。形すらも分からぬのに。」
続けてエバンは何か引っかかるように聞き返した。
「ん? サラ…? サラとはなんだ。」
それは夕凪にとって耳を疑うような質問だった。彼は服装と口調こそは現代離れしているものの、その他は普通の青年と変わりないのだ。教養もそこそこあるように見える。彼の聞き間違いなのか、こちらをからかっているのか…。しかし彼の眼は至って真面目だ。
「皿を知らないのですか? 基本的にはご飯をのせているもののことですが……。」
「ほう…? 食物を食う時に使うのか。では平らなものを探せばよいのかな。」
「そうですね…。では探しましょうか!」
何がともあれ、夕凪は時間を稼ぐことが最優先。器を探すという行動はもっともこの場にふさわしい口実だったろう。
「あら、これは…。」
夕凪は本の山の中に茶色い木椀を見つけた。それは丼もののように深みがあり、500mlくらい入りそうだ。これを贄の器として使うなら、十分な大きさと言えよう。
「…これが器? 随分質素な…。」
「良さそうではないか。」
エバンは彼女の持つ器を認めると、安心したように口角を上げた。
「さて、器も見つかったのなら…下の者を呼んでこよう。」
「ちょ、ちょっと待って!」
階段に向かった彼を、夕凪は遮った。
「私が呼んでくるので、エバンさんはここで待っていてくれませんか。」
下には負傷したエスパーがいるのだ、エバンに連れていかれては抵抗することすら難しいだろう。しかしこの申し出はエバンには聞けないようだった。表情が一変し、夕凪を不審そうな眼で捉える。
「何故、頑なに我を止めるのだ。見られては困るものでもあるのかい?」
ゆっくりと、低い声で問いかけてくる。彼の穏やかな優しい雰囲気は消え去っていた。夕凪はもうそれらしい理由が思いつかず、一歩一歩押されていった。
下の階ではしばらく沈黙した時間が流れた。エスパーは椅子に腰かけたままテーブルに足を乗せ、頭上の穴を見つめる。宮国は壁にもたれ片足を立てて座り、弓を引くときのように一点に集中する。時が止まったように、音も空気も動かなかった。
「なあ。」
エスパーが静かに沈黙を破った。
「ん、なんだ。」
「俺も上へ行っていいか。」
天井を見つめたまま宮国に問いかける。
「……上にはお前を狙っている奴がいるんだぞ。」
「分かっている。話は通じそうか?」
ここで彼はようやく宮国に視線を移した。
「まあ、言語は同じだ。常識がどこまで通用するかは……あまり話していないから分からないな。」
「お前たちを疑っているわけではないが、実際に見てみたくてな。」
「とは言え、な。まだやることが残っている。あなたたちが会うのは最後でいいだろう。」
「やること? なんだ。」
「そうだな、例えば……。」
宮国は立ち上がり、鉄格子の方を向いた。そしてテーザー銃を取り出すと、格子の隙間から向こう側にある鏡に発射した。不自然にあるこの一枚鏡が気になっていたのだ。しかし鏡はびくともしない。
「ヒビも入らないのか…。」
宮国はエスパーに振り返る。彼は宮国が銃を取り出したことに少々驚いた様子だった。
「夕凪は犠牲なくこの場を出たいと言っていたが……もし、必ず一人が犠牲にならなければならないのなら、俺はあの男を生贄にする。あなたは俺たちの協力者だ。」
エスパーは2,3回瞬きすると、鋭い眼で問いかけた。
「…相手は男か。勝算はあるのか?」
「勝算、か。そう言われると急に現実味が帯びてきたな。……まあともかく、それは最終手段だ。」
「…その銃、俺にくれないか。」
「銃の使い方に心当たりが?」
「ああ。」
エスパーは短く答えた。宮国は直ぐには答えを出せなかった。銃を渡すことは心配事を増やすのと同じだからだ。夕凪とも相談したかった。だが彼女はこの場にいない。考え込む宮国にエスパーが更なる申し出をぶつける。
「お前たちの話を聞く限りでは、俺かその男がどうにかなればいいのだろう。なら、俺とそいつがぶつかるのが最も早くないか? 俺とそいつの二人にしてくれないか。」
「ふむ……。」
「ただ、その銃はもらっておきたい。」
彼はそう言って片方の手を前に差し出した。宮国は武器を持った彼と上の男が出会ったら争いが起きることを危惧したが、銃を渡すことにした。エスパーは銃を手に取ると、慣れた手つきで銃の状態や手のなじみ具合を確認し始めた。一体何者なのか。一通り確認し終えると、手で銃をくるりと回して言った。その顔は少し嬉しそうにも思える。
「俺、上に行くわ。」
「……そうだな、もうやり残したことはないだろう。俺もついて行く。」
宮国は部屋の端に置いてあった鏡二枚を持って階段を上るエスパーに続いた。
上では夕凪がエバンを必死に止めていた。今にも押し返されそうだ。エスパーは大きく見回した。
「…ここが教会か。っと、あいつだな。」
「宮国さん……え、エスパー…?」
彼女はエスパーが上がってきたことに一番驚いたようだった。エバンも思わぬ増員に目をぱちくりさせたが、直ぐにエスパーを品定めするような眼に変わる。
「ああ、連れてきた。いづれ会うことになっていただろうしな。」
「そうですか…。そうだ、宮国さんこれ…!」
夕凪はエバンから離れ、鏡を持った宮国に『要望』と書かれた本を手渡した。
「これをその鏡に映してみてください。何か分かるかもしれません。」
「鏡……なるほど、試してみる価値はありそうだ。」
そう言って鏡に映そうとした時、横をエスパーが通り過ぎた。若干ふらついてはいるものの、しっかりとエバンに向かっている。手には何も持っていない。
「おい、いきなり暴力は振るうなよ。見ているこっちが冷める。」
「ん? 俺に言ったか。そこまでバカではない。」
エスパーは振り返り、ニヤリと笑った。
「……それなら、いい。」
本はどのページも白紙。しかし二枚の鏡で映してみると、そこには別々の言葉が浮き記された。
『種は問わないが、生贄は強い者が望ましい』
『頭はいらないだろ?』
二人は後ろから聞こえてくるエスパーとエバンの話し声を気にしながらも、これらの文字の意味について考えてみた。『頭はいらない』とはどういうことなのだろうか。そのままの意味で頭は要らないのか、それとも頭を使う必要はなく、そのまま強い者を選べという意味なのか。生贄は針で刺された者のみがふさわしいのだろうか。それとも単純な比喩で、ただ強い者を望んでいるのか…。
・・・やけに静かになった。後ろの話し声が止んだ・・・
「……話は終わったようだな。円満な解決策は見つかったか?」
振り返ると、エスパーとエバンは向き合ったまま無言を貫いていた。しかしエスパーはため息を吐くと懐から銃を取り出し、何をするもなく床に置いた。そして一言、
「…俺が贄になる。」
それは感情の入っていない諦めた声だった。エバンは変わらず何も言わない。夕凪と宮国は一瞬自分の体が固まるのを感じた。
「……でも見て、あのステンドガラスの割れ目。もしかしたらここから出られるかもしれない。」
夕凪が指した上方のステンドガラスには小さな割れ目があり、そこから赤い空が覗いていた。だがエスパーは見ることもせずに続ける。
「磔なり何なり好きにしろ。それ以外にここから出る方法なんて無いんだよ。しくじったら、俺みたいな目に遭うんだから。さあ、俺の気が変わらないうちにやれ。」
彼は誰の顔も見ようとはしなかった。エバンは夕凪と宮国の答えを待つように二人を見る。二人は本当に困った。二人ともエスパーを生贄にはしたくない。しかしエスパーは自ら贄になることを望んでいる。それにそれ以外の脱出方法が見つからない。ここでの打開策は・・・。
「余計なことを考えているとロクなことにならない。お前らには帰ってほしい。俺はあそこにいた時から死んでいるようなものだ。体も痛いし、解放してくれないか?」
エスパーは二人にとどめを刺すように言った。
…宮国は心を決めた。彼はエスパーに近づくと足元の銃を拾い上げた。
「さあ、俺を撃てよ。一発で気絶するだろうよ。」
そう言うとエスパーは宮国に正面を向いて両手を広げた。
「俺はここから出られれば、正直なんだっていいんだが……。自分で致命傷を負わせておいて瀕死にさせた奴を殺すなんて、外道みたいなことをするつもりはない。」
その答えにエスパーは怒りの眼を向けた。
「だから! そんなことを言っているからいつまでも出られないんだよ…!」
「……俺はな、『相方』達を生贄にする気はないんだよ。」
宮国は静かに強く答えると、エバンに銃を向けた。
「エスパーを生贄にしてまで出たいなんて私たちは少なくとも思っていないのよ…。メモに書いてあったわ。相方を死なせるなってね。」
夕凪もエバンに向き直った。彼女も心を決めたようだ。エスパーは二人の様子に焦るように言った。
「おい、待て! これでどうだ。俺は犯罪者だ。罪深いことをたくさんやってきた。死んで当然だろう。」
「犯罪者? 知らないね。ここでは誰もが対等だ。誰にでも選ぶ権利はある。」
二人にとって、エスパーが何者だろうと関係なかった。彼の制止する声はもう届かない。
「俺から望んでやっているのに…!」
エスパーはよろよろと後ろに下がった。眼は光を失い、信じられないというように力なく膝をつく。一方、銃を向けられたエバンは驚き呆れ、怒りに震えていた。
「なぜ……我なのだ。其方ら、ここから出たくないのか?」
「エバンさん……そりゃ出たいに決まってるじゃないですか。でも私、エスパーさんを生贄にしないって約束したので無理なんですよ。」
夕凪の横で宮国は黙って銃を向け続ける。
「…全く理解できん。生贄を望む者がいるというのに。約束……って…。」
エバンは俯き、力なく数歩下がった。そして息を整えると顔を上げた。
「では、我が敵に。其方らの悪になれと言うのか、その約束のために。我だって、贄など本心から望んでいるわけではない! しかし方法が無いのだ。其方らの約束のために殺されるくらいなら…!」
ゆっくりとした言葉は徐々に力を増し、彼は目を見開いた。閉じることのないその眼は殺意に満ち、赤く変色していく。そして服からはみ出た手は、黒くかぎ爪のように変わっていった。もう穏やかな人の面影はどこにもなかった。
「私だってエバンさんを生贄にしたいわけはないです。でも私も生贄にはなりたくない。皆そうに決まってます‼」
夕凪の力強くも熱い言葉に続けられたのは、エバンの黒く冷たい声だった。
「全員、殺してやる。」
「……そうかい。人殺しは趣味じゃない、と言ったが人外なら別だ。俺の前から消えてくれ。」
宮国は引き金を引いた。しかし思うようにいかず、電弾はエバンの横を過ぎていった。エバンは物が積まれた山に飛び乗り、固く尖った爪を鳴らしながら様子を窺っている。宮国はただ傍観するエスパーに話しかけた。
「ほら、お相手さんは俺ら含めて全員殺そうとしてくるぞ。俺たちに死んでほしくなければ、ちゃんと元の場所に帰ってほしいなら、一緒に戦ってくれ。」
「……勘違いするな。俺はそんなバカ共を助ける気はない。戦って死にたいなら、勝手に死んでくれ。道を誤るな。」
エスパーは表情一つ変えずに答えた。微動だにしない。まるで殺してくれる者が現れることを待っているようだ。
「そうかい、分かったよ。」
物山の上では黒い塊が三人を見下ろしていた。
「其方らが邪魔だ。エスパーは我が捧げてやる。」
全身黒いものは液状化し、人の形を崩していく。夕凪はまだその液体が動き出さないうちにエスパーのもとに駆け寄った。彼の腕に巻いた布が緩んでおり、血が滴っていたのだ。しかしエスパーは布を巻きつけようとする彼女に嫌悪をあらわにした。
「近寄ってくるんじゃねえよ。」
夕凪は手を止めなかった。何度かエスパーに手を押さえられるが彼の力は弱々しく、力に自信のない夕凪でも解けるのだ。同時にそれが、彼の傷によるダメージを物語る。尚更、彼女には看護師としても人としても、見過ごすわけにはいかなかった。
「エスパー。私たちは死ぬために戦っているわけじゃないんだから。生きるために戦っているの。だからエスパー、あんたも戦うのよ。」
エスパーの制止する手はいつの間にか止まっていた。彼女の声が届いたのかは分からない。しかし彼は何か考えるように、交互に夕凪と宮国に視線を移した。
山の上の者はいよいよ本性を現した。山を覆ったどろどろとした黒液は伸縮を始め、大型犬ほどの赤眼を持った狼を形作った。そして低いうなり声で牙を剥き出しにして宮国に飛びかかった。鋭い牙は彼の真横を通り過ぎ、床に降り立つと旋回する。その黒く平らな背中を、夕凪のこぶしが叩きつけた。狼は返しに彼女に怒りの叫びをぶつける。このままでは彼女が危ない。宮国は再び銃を構えた。しかし銃に不慣れな彼にとって、狼までの距離は遠かった。近いのは彼女か、エスパーだ。
「おい。」
宮国の声にエスパーは眼をよこした。
「あなたは自分が死んでもいいと思っているかもしれないけどな、俺たちはそうは思っていないんだよ。これは俺たちの身勝手な我儘だ。そんな我儘を聞いてはくれないか?」
彼の言葉は確かにエスパーに届いた。エスパーは苦笑いした。
「……本っ当に…もう…。どうしようもない…バカ共だな…。」
息を吐くように答えると今度は大きく吸い込み、そして大きく吐く。
「その銃よこせ。」
片方の腕を宮国に差し出した彼の眼は、声は、力強い生を帯びたものに変わっていた。
「…ああ!」
宮国は口角を上げ、彼に銃を放り投げた。エスパーは受け取ると、直ぐに狼に向けて発砲した。
「抗ってやる。さっきまでは俺らしくなかった。」
「エスパー……!」
彼の変化は狼のうなり声と恐怖の中でも夕凪に届いていた。同時に狼もといエバンにも。エスパーの放った電弾はまっすぐ狼に向かい、命中した。痺れる音と共に狼は尋常でないほど暴れまわり、形を崩していく。夕凪が離れ際にその物体にこぶしを振ったが、液体のような体に手が沈むだけで大した感触は無かった。そのうちに黒いそれは長い首と尾、通路の幅を占めるほど巨大な体と手を持った龍のような姿へと変わった。そして鼓膜が破れそうな咆哮を上げると、長い尾を振り回した。幸運にも三人には当たらなかったが、周囲の物は砕けて飛び散った。
「弓さえあれば戦えるんだが……肉弾戦は苦手だ!」
宮国は果敢にも黒龍に近づき、胴体を思いっきり蹴った。しかし相手の皮膚は固く、跳ね返されてしまう。続いてエスパーが電弾を放ち命中させるが、こちらもあまり効いていなさそうだ。しかし先ほどよりは反応が激しい。エスパーは気づいたようだった。
「固すぎだろ…。しかしこいつは電気が苦手なようだな! どこかに大量の電気があればいいが…。」
その言葉に夕凪はピンときた。下の鉄格子には人が火傷するほどの電気が通っているのだ。
「これは二人で探したもの…。これなら気を引けるはず…!」
彼女は木の器を取り出した。生贄を完成させるには器が要る。エスパーを捧げようとしているエバンには重要なものだろう。案の定、龍は器を認めると夕凪に牙をむいた。そのまま階段を降りる彼女の後ろ髪を、巨大な口がかすった。だがまだ龍は諦めない。口に込み上げた炎を彼女の後ろ姿に吐き出した。狭い階段で夕凪は直撃こそは喰らわなかったが、その熱と炎勢に下まで吹き飛んだ。
龍の背後では暴れ狂う尾の波が二人を襲っていた。エスパーと宮国が放つ一撃は尾で全て防がれ、尚且つ効いていないようだった。
「だめだ…効いていない。」
エスパーは焦っていた。体の傷口が開き始めていたのだ。動く度に激痛が走る。
「どうする! 負け試合はしたくないぞ。俺を奮起させたからには責任をとれ。」
「さっさとアイツを鉄格子まで誘導して、それから夕凪さんを助ける。これしか方法はないか。」
階段への入り口は龍が完全に塞いでいた。下で体を起こす夕凪を噛み潰そうと首を伸ばしているが、ギリギリ届かないようだ。その隙に夕凪は白い部屋の棚から本を取り出し、龍の頭に投げつけた。しかし火に油を注いだようだ。相手は怒り狂い、夕凪に首が届かないのが分かると体を溶かし始めた。そして大きな塊になると、弾丸のように彼女に突っ込んだ。夕凪は体へのとてつもない衝撃と共に視界が宙を舞い、暗闇に堕ちてしまった。
エスパーと宮国が階段上まで来ると、下には黒い液体とその横にひどく負傷した夕凪が転がっていた。彼女はピクリとも動かない。このままでは夕凪は死ぬ。だが液体にどいてもらわねば何もできない。それに階段を降りている間、何もしてこないとは限らないのだ。
一瞬の迷いも許されない時だが、宮国は決心がつかないでいた。するとエスパーが申し出た。
「俺が前に出よう。あいつは俺を殺せないはずだ。」
「…その確証はどこにあるんだ。」
「さあ。だが、あいつの目的はあくまでもここからの脱出だろ? 俺を捧げる他ないなら、殺さないんじゃないか。」
そうエスパーは下にも聞こえるような大きな声で言った。エバンにも聞かせるように。
「お前は後ろに続け。もし襲ってきたとしても、盾くらいにはなるだろう。」
「……分かった。気を付けろよ。」
エスパーに迷いは無いようだった。二人が慎重に降りていくと、それに押されるように液体は白い部屋に入って行った。
「こいつは任せる。」
エスパーはそう言うと液体の後を追った。宮国の足元には全身火傷と深手を負った夕凪が息を無くして横たわっている。宮国は直ぐに応急処置に取り掛かった。だが、出血は止まらずなかなか彼女の心臓は動き出さない。
「エスパーさん! この傷、見られますか!」
宮国は部屋に入った。そこでは大きな狼がエスパーに乗りかかり、彼の腕に押さえつけられながらも噛みつこうと暴れていた。
「今、それどころじゃない!」
エスパーは顔を歪ませながらも暴れる狼を必死に押さえつけた。そして狼を少し持ち上げると、開いたその腹に蹴りを喰らわせた。狼は鉄格子の方に吹っ飛んだが、格子の一歩手前で着地してよろめいた。この隙にエスパーは急いで夕凪のもとへ駆けつけた。
「ひどいな、息をしていない。俺が傷を押さえる。…お前、人工呼吸できるか?」
「人工呼吸…?」
唐突な質問だった。
「悩んでいる暇はない! なら俺がやる。お前はここを押さえてろ。感染症のリスクはあるが…仕方ない。まったく世話の焼ける奴だ。」
二人にはあまり時間が無かった。エスパーは息を吐く度に命を削り、宮国の背後には黒い影が近づいていた。
「げっほ…! ごほっ…。」
命を懸けた尽力は夕凪の息を吹き返させた。エスパーは疲労困憊だった。
「はあ…これでいいか。」
「ああ! 本当に助かった!」
「…後ろ。」
宮国の背後には牙があった。彼は体制を整えると、飛びかかってくるソレに向かって渾身の蹴りを放った。狼は鉄格子に飛んでいき、それに触れた途端、
バチバチバチッ‼
激しい音と共に悲鳴を上げ、形を崩し溶けていく。液体化したものは蒸発するように気化し、悲鳴が消えるころには数滴ほどの黒い液が残っていた。
夕凪は体を起こして自分である程度傷を手当し、エスパーも壁にもたれかかった。
「こいつは…倒したのか?」
「はあ…はあ‥…エスパーさん。あなたに頼り切るのも、こちらの格好がつかないのでね。」
そう言って二人に振り返った宮国はもう不愛想な作家ではなく、誇り高い戦士だった。
床に残った僅かな黒い水滴は微動していた。
「木の器! 木の器にこれを入れましょう。」
黒滴は指で摘めるほど弾力があった。しかし器にはまだまだ空きがある。
「これでは器は満たせない。やはり、俺が贄になる。」
エスパーはため息交じりに言った。
「探したらもっと小さな器があるかもしれないじゃない。とりあえずこれに入れていきましょう。」
「……ともかくだ。あいつを倒したことで何か変化が起きているかもしれない。軽く上を調べてみよう。」
階段の途中でエスパーが口を開いた。
「俺の血で残りを満たしたらどうだろう。」
「エスパーの血で…?」
「贄はこいつで、俺も一応該当者なら…。血だけは俺のを。」
「500ml程度なら、まあ献血でも抜く量だろう。死にはしないだろうが……。」
上の階では変わらず十字架が生贄を待ち続けていた。
「俺の傷をえぐったら血は出てくるだろう。」
看護師である夕凪の助けもあり、エスパーの血液は器の黒液を覆い、満たした。しかし同時に彼は倒れた。これまでにも多くの血を失ったのだ、無理もない。意識朦朧とする彼を二人が看ていると、十字架前の床に文様が浮き出た。それは器を求めるように赤く光りだし、夕凪がその真ん中に器を置くとステンドガラスから別の光が漏れ出した。それは直ぐに辺りを包み、宮国も夕凪も意識を手放した。
目が覚めると、宮国と夕凪はそれぞれの家の洗面所に立っていた。目の前の鏡には何の外傷もない自分が映っている。そしてこの日を境に、あの何処かも分からない場所での出来事が、鏡を見る度に鮮明に蘇ってくるようになった。
数週間後、風のうわさがやってきた。ある病院で入院していた患者の一人が忽然と姿を消したらしい。国籍不明の外国人男性だそうだが、入院時は意識不明の重体だったそう。どこの監視カメラにも映っておらず、警察が調査を進めている。気がかりな点は、雨が降ったわけでもないのに発覚当時、彼がいた病室の床には大量の水がまき散らされていたということだ。そしてそれは鏡のようによく反射していたとか。
【エスパー視点】
目の前には見知らぬ女が座っていた。鉄格子付きの白い部屋に俺と二人きり。こんな奴は記憶に無いし、この部屋も知らない。だが、俺みたいに普段犯罪じみた事をする者は恨みを買うこともあるから…捕まったのかとも思った。しかし奇妙なことに何も起こらないし、扉も光源も見当たらない。さらにはテーブルの上の紙切れと鏡、極めつけは天井の穴だ。女も俺も警戒して何も口にしなかったから、この状況が人間の仕業だとばかり思っていた。そして色々調べるうちに、相方が鏡の向こうの住人二人であることや、そいつらと協力が要ることが分かった。しかしテーブル裏の『穴に落ちるしかあるまい』という意味だけは分からなかった。謎が解けた時にはもう、鏡の向こうの者は肉塊となっていた。それを見て女が俺のせいだと喚いた途端、どこからか嘲るような笑い声が響いてきた。そしてソレはこう言った。
「次はお前たちが相方の番だよ。」
聞いて背筋が凍った。瞬く間に白かった部屋は薄汚れた茶色へと変色し、家具の向きも何もかも変わった。この時の邪神の高らかな笑い声は今でも忘れられない。
部屋が様変わりすると、女はさらに嘆きだした。そして一通り泣き叫ぶとどこからか鏡の破片を取り出し、己の首をかき切った。女の死については次に白い部屋に来た奴に殺害を疑われる可能性があったが、(まあ実際疑われたが)気にしなかった。それどころではなく、どうやってこの部屋のことを伝えて出してもらうかに頭を悩ませた。俺はあの針の部屋にいる間中、ずっと何かおぞましい者の視線を感じていた。俺はあくまでも白い部屋にいる者の『相方』であり、探索者ではない。答えを知っていても、与えられた情報内で助言することしかできなかった。だから夕凪が、部屋には自分一人しかいないと主張していた時には既にもう一人男がいることを知っていたが、知らないふりをするしかなかった。加えてマイクやスピーカー、鏡を通して俺と会話していることも既知の範囲内だった。知らなかったのは鉄格子の電流と、鍵穴…あとは床の黒ずみの位置くらいか。だから情報さえくれれば俺は針に刺されることなく上手く導けたはずだった。色々ある、などと誤魔化されたときは内心とてもイラついた。それでも既に部屋からの脱出法を知っているということを二人に知られないようには尽力したつもりだ。因みに鍵に関しては、針の部屋に入れられたときに床に肉塊と一緒に落ちていた。俺と女の相方役が持っていたものだ。だから白い部屋で使うものだと知っていた。その肉塊となった相方役も、死ぬ前に俺らに訴えていたからな。俺は同じ目に遭うまで信じなかったが…。
階段の先からは本当に未知の領域だった。加えてひどい怪我を負っていたものだから、二人に先を見に行かせたのだ。だがなかなか戻ってこなかったから見捨てられたことを念頭に置いて階段を少し上ると、誰かと会話しているのが聞こえてきた。だがよく聞き取ることができず、とりあえずは部屋に戻って腰かけた。ところが傷が痛すぎてじっとしていられない。そこでなんとなく鉄格子が気になって近づいたのだが…足がもつれてしまい、倒れた先が格子だった。反射的についた手からとてつもない強さの電流が流れてきて、それはもう…痛いなどという表現を通り越した。逆に何が起きたか分からず、腕が硬直し熱をもって痙攣していた。そこに夕凪と宮国の声が聞こえてきて、俺を叱りつけ始めた。じっとして寝ていろだと? 鎮痛できるものも無いのに、どうやって耐えろと言うのだ。看護師や応急処置の知識を持つ者ならそういうことが分からないのか? 特に看護師‼
生贄のことを聞かされた時、瞬時に俺自身は究極の二択を迫られた。諦めて大人しく従うか、全員を殺して生き延びるか。だが夕凪と宮国は俺を連れていくこともせずに時間を与えてくれたものだから、協力などの他の道も考えることができた。それでも、互いに他人であることに変わりはない。誰だって自分が生き延びたいものだ。だから二人を信用し切れずにいた。宮国から銃を受け取った時も、まだ彼と夕凪を殺すという選択肢は拭えなかった。誰かのために死ぬよりも、生き延びることに尽力して死ぬ方が俺は納得がいく……この時まではそう思っていた。
階段の先にいた男は俺の想像と乖離していた。大人しい青年のようで、おおよその年齢も国籍も分からない。弱く見えるのが逆に不気味だったが、警戒はしつつも会話を試すことにした。
「お前だな、俺を生贄にしようと企むのは。」
「そなたが…? その傷は何なのだ。」
怪訝な表情で、見た目にそぐわない口調とゆっくりとした声が真っ直ぐ入ってきた。耳で聞いているというよりも、脳で聞いているような感覚だった。思えばこの時から、俺は思考をこいつに操作されていたのかもしれない。
「ちょっとしたことがあってな。あそこにいる二人に殺されかけた。」
「…それはお気の毒に。して、そなたは生贄になる気はあるか。」
「そこで承諾するバカはいない。俺はその気は一切ない。」
「…我も贄を出さなくてよいなら、是非ともそうしたい…。しかし他に方法があるだろうか。」
俺がきっぱりと断ると、そいつは残念そうな、しかし辛いとでも言いたげな表情に変わった。畳み掛けるチャンスだ。
「逆に聞いてやろうか。お前は生贄になる気はあるのか。まあ無いよな。お前こそ何者だ。」
男は一瞬息を詰まらせた。そして目を逸らして
「…さあ…。」
と、息を吐くように答えた。明らかに身の内を隠したがっている。この時だけは最初に感じた不気味さも、おかしな声の感じ方も消えていた。
「さあ…? どこの出身だ。」
「…し、しゅっしん? ……? ええっと…。」
男はとぼけた表情で、記憶をたどるように俯いた。あるいは言葉の意味を考えているようにも思えた。何となく、雰囲気的にこいつは人でないような気がしてきた。
「身の内を明かせないのか。俺には記憶がないというより、自分を説明できるものがないように思える。」
男は俺の眼を見て黙った。
「単刀直入に聞こう。お前は…人か?」
「…そうでなければ何なのだ。我が生贄にふさわしいとでも言うのか。」
奴の眼は強いものに変わった。俺は何故か信じてしまったんだ。人でなければ戦ってもこの傷では勝ち目がない。ここで、再び夕凪と宮国を生贄にすることが頭によぎった。
「まあ、そこまでは言っていない。ところであの二人はどうだろうか。贄にふさわしくはないだろうか。」
「あの二人は違うだろう。間違った者を捧げるわけにはいかない。」
「なぜ違うと言い切れる。」
「それは……そなたがよく分かっているであろう。」
俺を見透かしたように男はそう言った。実際、俺も分かっていた。俺は確実に生贄候補に入っている。仮にあの二人も候補人だとしても確かめようがない。安全な選択肢は他に無いわけだ。それに俺は物理的に抵抗する力が残っていない。男もそれが分かっているのだろう。
「…結局俺か。」
そしてまたこの男の声が頭に響くようになった。聞く度に他のことを思考できなくなる。
「厳しいことを言うようだが、そなたに勝ち目は無い。我と戦ったところでその傷では。」
「ああ…。よく分かっている。ここに来て、しくじった時から…俺は死んだも同然だ。…もういい、好きにしろ。」
全てのことがどうでもよくなった。ここに来てから死が約束されていたと考えると、抗う気も失せた。そこに宮国や夕凪の声は俺を生かすなどとほざきやがる。俺が何を言っても聞こうとしない。ここに簡単に贄にできる体があるというのに、なぜ使おうとしないのか理解したくなかった。そのうちにエバンという男はいよいよ人ならざる姿を露わにし、ただ死を迎えるだけの戦いが始まった。俺は何も考えず、傍観していることにした。
希望は捨てたはずだった。だが宮国と夕凪の戦姿を見ていると、少しずつ俺の何かが動き出していった。夕凪は俺が抵抗しても傷を処置し、二人とも相変わらず話しかけてくる。彼らの言葉はエバンのものとは違い、頭ではなくココロに染みついてきた。「死ぬために戦うのではなく、生きるために戦う。」「俺たちの我儘を聞いてくれないか。」と。
我儘……。俺は俺の本当の主張を思い出した。俺が本当に言いたかったのは、「俺を生贄にしろ。」ではなく「俺は誰かのために死ぬ気はない。俺を贄にしたけりゃ、力づくでやってみろ。ただしお前の命も無い。」だ。結果死ぬとしても、何もしないままで終わるのは性に合わない。俺は一気に自分を取り戻したような気がした。そして生を迎えるための戦いに参加したんだ。
エバンも決して悪とは言えないだろう。奴も生きるために襲ってきたのだ。結果エバンは小さな黒滴に成り果て、俺たちは思わぬ勝利を果たしたわけだが…俺にはまだ試練が残っていた。器を満たすだけの血を出して生きられるのかどうか。小さな黒滴と俺の血で認められるのか。残念ながら器を血で満たすあたりから覚えていない。
「だが今こうしてお前の前にいるなら、成功したんだろうよ。」
エスパーは自分の病床の横で心配そうに話を聞く義理妹を向いた。一切何も問いかけずここまで話を聞いてきた彼女は一つだけ質問した。
「…願いごとには何を願ったの?」
「もちろん生きて出られるように、だ。」
「それを…エバンという者も願っていたとしたら…? 黒滴になっても生きて、願いは叶えられるとしたら。」
「…あいつが生きていたら? 報復にでも来るって言うのか。」
「まさか…ね。」
生贄にされた者の願いも叶うとすれば、きっとエバンも生き延びているだろう。
「なあ。」
それは二人の声ではなく、二人に掛けられた声だった。エスパーは聞いたことがあった。病床のすぐ傍の窓が僅かに開けられており、その前にローブを着た青年が立っていた。穏やかな雰囲気だが、やや緊張した表情をしている。
「お前…。」
エスパーが身構えると、青年は慌てたように言った。
「我はそなたを襲うのではない。警告に来たのだ。何かが我らを狙っている。きっとまだ逃げきれていないのだ。我はずっと何かに見られているような気がして…。」
エスパーは急に胸が痛くなるのを感じた。心臓をつままれているような感触だ。そしておぞましい視線も感じた。この病室があの白い部屋と同じようにさえ思えてきた。
「バカだろ、お前…。」
「…え?」
「警告しに来たんじゃなくて、俺のところまで何かを導いてきたんだろ! 二人一緒になれば、まとめて連れていかれる。」
「ああ…。盲点であった…。」
気づいた時にはもう遅かった。まだ昼で窓際だというのに部屋は薄暗くなり、床には水が湧くように溢れてきた。それは窓の光を反射してまるで鏡のように映し、何かの手がその中へ三人を引きずり込んだ。
【エバン視点】
目の前には我の背を越える十字架があった。どこかの室内で、周囲には物という物が雑多に積まれている。出口のような扉はなく、頭上の煌びやかな窓からは光がほのかに降っていた。そこまで行こうともしたが、何かに押さえつけられるように体が重くて持ち上がらなかった。我以外に誰もおらず、我の音が響くのみ。仕方なく、まずは十字架の前に置いてある本を見ることにした。我はあまり文字を読むのが得意ではないのだが、案の定そうで、読める言語だったが内容がさっぱり分からなかった。しかしある一ページの『生贄の血』と題された箇所だけはっきりと意味が分かった。不思議なことはまだ続いた。急に背後から人の気配がしたのだ。振り返ると、先ほどまでいなかったはずの人が、しかも二人いるではないか。どこから来たと問えば、これも先ほどまで無かったはずの階段が出現していた。人は臆病な生き物であるから、我が人でないことを告げるわけにはいかなかった。だから何者かと聞かれたときは困ったが、名を名乗ることでとりあえずはその場を凌ぐことができた。贄について二人に話してみたが、思い当たるものは二人には無いようだった。他にも人がいるかとも聞いたが、これも違うようだ。この時はとくに二人を疑う事もなく自由にさせたが、我が階段で下に降りることを止められた点は気がかりであった。最初はもう少しこの部屋を調べてからでもいいかと思ったが、夕凪と名乗る者が頑なに我を止める姿からは隠し事が垣間見えた。あまり争いは好まないが、この時はかぎ爪を使うことを考えていた。ところが夕凪らの隠し事は突然に自ら顔を出した。階段から刺し傷だらけの男が上ってきたのだ。いくらか傷の処置はしているらしかったが、それらは確実に男の身と精神に食らいついていた。我は贄にするならこやつだと確信した。
男と話すなかで、最初に見た二人が男の存在を隠していたことや、男とあの二人の中で何らかの信頼関係があることが分かった。となれば、普通に話し合う分では我の考えは通らない。男の存在を隠すほどなのだから、二人に話してももはや無駄だ。しかしエスパーというこの男ならば自ら贄に赴かせられると我は思った。男は我が人でないのを見抜いているようだし、これを剣としてかざせば手負いのこやつは退く他ない。賢い者は無駄なことを避けようとするものだ。して、これは成功した。こやつは刃を自分に向けるよう他の二人に言い張った。しかしそれでもその二人は聞こうとせず、あろうことか我を倒すと言うではないか。自ら贄となろうとする者がいるのに何故聞かないのか。全く理解できない。男を助けて何か益があるわけでも無いだろうに。流石の我もこの事態には狼狽えた。理解はひとまず置いて、身を守るのに徹することにした。
予想外の出来事は終わりを知らないようだ。今度は男も反抗に加わってきた。つい先ほどまでの奴の絶望は何処へ行ったのか、影もなかった。さらに奴は我の最も苦手とする電気を放ってきた。何か小さく奇妙な形をした物を手に持ち、我に向けるとそこからビリビリとしたものが全身を駆け巡った。それは我を怒らせるのには十分で、我は遂に自分を忘れた。我の口も爪も尾でさえも、彼らを殺すことに振った。だが怒りに任せていると色々と見えなくなるものだ。ようやく己を思い出した時には知らない部屋にいた。壁は白く鉄格子があり、床には血が飛び散っている。そして部屋の出口か入り口かからあの傷だらけの男が姿を現した。その手に持った電気を放つ代物を目にすると、また怒りが込み上げてきた。
「貴様…よくも我に電気を…!」
「悪いが俺は死んでやるつもりはない。お前こそ、もう生きる道は崩れかかっている。」
「…この死に損ないが。」
我は再び怒りに身を任せ、奴に牙を剥いて飛びかかった。だが生きようとする奴の抵抗力は我が思うより強く、首に牙を突き立てる前に蹴り飛ばされてしまった。体制を立て直すと男の姿はなかった。そこで階段下に見えた背中に飛びかかったが、我に気づいて振り返ったソレは宮国と名乗った者だった。我の牙は奴の腕をかすめた。すると首辺りに衝撃が走り、我の体は勢いよく宙を舞ったかと思うと一定の間隔が開いた固いものにぶつかった。ぶつかった途端に、今度は男が放った電気を大きく上回る熱と痺れが我を襲った。体が溶けて消えていくのを感じながら何もできなかった。
我は人が指で摘まめるほど小さくなってしまったのであろう。体にはほとんど水分が残っていなかった。放っておかれれば乾燥して死んでいた。ところが掴まれて何かに入れられた後、液体が降ってきて全身を潤した。それは少し温かった。水ではなかっただろうが、独特の臭いをもつあれは一体何だったのだろう。我はその水分でなんとか生き永らえた。
目を覚ますとどこかの木々の中にいた。建物ではく外にいるのだ。先ほどまでの出来事は夢だったのだろうか、そう思ったとき気配を感じた。何かおぞましい者の気配と視線だ。我を見ているような気がした。そしてふと、あのエスパーという男が頭に浮かんだ。それだけでなく、奴の胸の鼓動や体温、血の匂いも感じる。そして奴にも危険が迫っていることが分かった。この時、我は一切の怒りを忘れていた。それよりも、奴に危険を知らせねばなるまいと強く思った。そして匂いをたどり、白い建物に入って奴を見つけた。だがそれが邪悪な者による罠だったとは…。我はまんまと導いてしまった。我らは再び、何処かに連れていかれたのだ。
人物紹介
・エスパー・サイ・ヒプノーシス
オランダ出身で、薬関係の犯罪業を営んでいる。なんでも合理的に考え、新薬の試験には動物ではなく人を使っている。宮国と夕凪が来る前に白い部屋に女性とやってきた。鏡の向こうに相方がいたが、鍵をもらう前に死なせてしまい脱出の術が無くなったことで次の相方役にされてしまった。その後、部屋の脱出法を解くが既に一人では出られない状態だった。そして話しかけてきた二人に対して助言に留めながらも脱出へと導こうとする。
・エバン・ジ・エスター
人ではない何か。体のほとんどが水分でできており、液体状になってあらゆる姿に変わることができる。力も能力も変身した姿に相応しいものとなる。温厚な性格で滅多に人を襲うことはないが、電気を浴びせられると怒りに身を任せてしまう。言葉を苦手とし、文字は日本語の簡単な文だけ読むことができる。ただし会話に関しては相手の脳に話しかけるため、どの言語でも通じることができる。
・フィジックス・タフ・アブソルト
エスパーの義理妹。エバンが連れてきてしまった邪神によって巻き込まれてしまう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。