月の魔女と薔薇の王子2
あの死体愛好家の名前を何と言っただろうか。ミス…ミスト…?などと考えながら、私は塔の窓から顔を覘かせて今にも泣きだしそうな情けない面の王子を見下ろす。
「姫ぇぇぇ!この国で最も美しく眠るように死んでいる姫様はどちらにおられるっ!」
魔物や獣の棲む混沌の森を抜けて、モスティーニュ領へ足を踏み入れれば五体満足なわけがない。本来は美しかったであろう軍服はボロボロで体中には切り傷や擦り傷が目立つ。ダークブラウンの髪には草や枝が絡まり頬はこけ、ブラウンの瞳は血走っていた。
「必死ね…」
《頼むから…お伽噺のお姫様よろしく。あんな変態王子にキスされるのだけは勘弁してくれ》
「そうね…きっと口付けをしたところでクリスが目覚めるわけがないものね…」
必死に頼み込むクリスチャンが可愛く思い、私は少し悪戯をしようと窓の外に向かって人差し指をスイッと流す。すると疲れ切った王子の目の前に荊で出来た大きな迷宮が現れた。
「もう少し…付き合ってね」
口元に薄っすらと笑みを浮かべた私は、迷宮の入り口で愕然と膝から崩れ落ちた王子を見下ろす。
(今すぐ追い出しちゃったら…またクリスが眠っちゃうから…もう少し…お話がしたいわ)
窓辺から立ち上がった私は魔法でティーセットをクリスチャンの隣に出すと、ゆったりとティータイムに落ち着いた。クリスチャンが意識を取り戻した時のお楽しみはクリスチャンが眠っている間に私が体験した事を話して聞かせる事だった。
「クロエの息子がね、素敵なお菓子屋さんになったの…」
《クロエ…あぁ。前に話していた街の噴水に落ちたところを自警団の男に助けられたって子か》
「ええ…そのクロエの息子。すっかり立派な青年になったわ」
《そうか…ヴィオ…》
睫毛も揺れない眠り続けるお姫様(王子様)にも、どれだけ私が寂しい思いをしてるのかくらいは理解しているようだ。
《ごめんな…》
クリスチャンが小さな声で謝ると、私は湧き上がる悪戯心で、真っ白で美しい額に小さなケーキを乗せた。
《おいっ!何で乗せる…くっそ…美味そうな匂いだな…》
「とても美味しいわよ?残念ね、こんなに美味しいものが食べられないなんて…」
悪戯っぽく微笑んだ私はクリスチャンの額にケーキを乗せたまま、優雅に他のケーキを口に運ぶ。
《おい。いい加減にしろ…》
(大丈夫…私はいつまでも貴方を一人にしない…)
いつまでも額にケーキを乗せられたままのクリスチャンは、私に文句を言うしか術がない。そんなクリスチャンを見下ろしてソッと額のケーキを指で抓むと、クリスチャンの額の薄く残った砂糖にゆっくりと口付ける。
《ヴィオ…》
「うん…」
ギギッ…ギギッ… ガタッ…ガタン… ガチャン…
ひと際クリスチャンの声に深みが増すと、私はゆっくりと目を開く。薄紫の美しい瞳の中でゆっくりと歯車が回り出し大きく動いた。
混沌の森で暴れる火の魔法。森もモスティーニュ領も私に見えないところは無い。森の魔物たちを相手に派手に火の魔法を使い戦う男。「あいつ…」街で出会ったオーギュストと名乗った赤い男だ。
私は小さく溜息をつくと残りの紅茶を飲み干して立ち上がる。クリスチャンは私の行動を探るような気配を見せるが口を出さない。
「ちょっと挨拶してくるわ…」
《かなり強力だぞ…大丈夫か?》
「クリスは寝てばかりだろうから知らないだろうけど。私はどんどん強くなってるのよ?クリスはあの変態王子が塔を登って来ないか心配していなさいな」
《ちょっ…本当に登ってこないように頼むよ》
「あの変態王子の運…次第」
本気で怯えている様子のクリスチャンに私は愉しそうに笑って両手を広げると、目の前に複雑な魔法陣を編んでいく。
《気をつけろ…》
「分かってるわ…」
ゆっくりと優雅に魔法陣に足を踏み入れた私は、口元に笑みを浮かべて魔法陣の向こうへ消えていく。