成長
ヒスイは、鼻を擽る良い匂いに目を覚ました。
階段を降りると、台所でジェイドが何やら作業をしている。
「何してるの?」
「起きたんですか。台所を借りていますよ」
暖炉に置かれた鍋が、グツグツと音を立てている。
美味しそうな匂いはここからだ。
「ご飯、作ってくれたのね」
ぐぅ、とヒスイのお腹が鳴る。
それが聞こえたのか、ジェイドが笑った。
「もう出来ますから、顔を洗って来てください」
ヒスイが顔を洗って戻って来ると、机の上に食器やパンが並べられていた。
鍋の中身を器に取って、ジェイドは椅子に座ったヒスイの前に置く。
「どうぞ、牛肉のシチューです」
大きめの肉と野菜が入った、とろりと艶のある褐色のスープだ。
赤ワインの甘い香りが食欲をそそる。
スープを口に入れようとして、ヒスイはこっそりジェイドを見た。
目が合ったジェイドが、諭す様に言う。
「熱いですよ」
「そうよね」
ヒスイはスプーンに息を吹き掛けてから、慎重に口の中に流し込んだ。
思わず笑顔が溢れる。
とろりとしたスープに凝縮された旨味が、コクとなって現れていた。
自分でもシチューは作るが、ここまで上手に出来上がった事は無い。
そもそも、料理は食えれば良しを旨として来た為、拘りも何も無かった。
それでは嫁の貰い手が無いと父親に発破をかけられて、ジェイドの料理教室に行く決意をした経緯もある。
先日彼が食べさせてくれた魔物料理もスープだったが、後味がすっきりしていたそれと違って、今回はお腹にしっかり貯まり、慣れない事で疲れた身体に染み渡った。
「美味しいわ、ジェイド。すっごく美味しい」
目を輝かせて次々とスープを口に運ぶヒスイを見て、ジェイドは満更でもなさそうだ。
「ありがとうございます」
拳大のパンを二個平らげながら、スープを二回おかわりしてようやく落ち着いたヒスイは、満足げな顔でお腹をさすった。
「さて、ナイトは元気にしてるかしら」
食卓の脇に置かれた木箱の中を覗き込んで、ヒスイの顔が強張る。
「ねえ、ちょっと、ジェイド! 何これ!」
素っ頓狂なヒスイの声に、食器を片付けていたジェイドが顔を上げた。
「ああ、大きくなりましたよね」
「いやいや、大きくなりましたよね、じゃないわよ。大きくなり過ぎでしょ、これ!」
箱の中では、昨日と比べて二倍程の大きさに成長した猫が丸くなっていたが、ヒスイの大声に起こされたのか、背伸びをしながら大きな欠伸をする。
その場に座った猫は、ヒスイを見て小さく鳴いた。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
ヒスイが抱き上げて背中を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らす。
鼻の頭を指でくすぐると、がぶりと噛み付いて来た。
「痛いよーナイト。て、あれ? 歯が生えてる?」
ヒスイはそのままジェイドの傍に駆け寄る。
「ねえ、猫ってこんなに成長早いの? 犬はこんなに早く歯なんて生えなかったわよ」
ジェイドは、こちらを見ようともせずに答えた。
「猫も、普通はそんなに早く歯が生える事は無いですね」
「それって、どう言う事なの」
猫をまじまじと見ると、ぱっちり開いた瞳の色が、灰青色から黄色っぽく変わっていた。
しばらく困惑した面持ちで猫を眺めていたヒスイは、ハッと顔を上げる。
「もしかして、この子魔物なの?」
食器を片付け終わって、暖炉の鍋を食卓に移したジェイドが、事も無げに頷いた。
「恐らくそうでしょうね」
ジェイドの反応に、ヒスイは思いっ切り顔を顰める。
「ちょっと待って。もしかしてジェイド、初めから知ってたの?」
「いいえ。私もただの猫だと思ってました」
「なら何でそんな冷静なのよ!」
「私は、君が起きる前にしっかり驚きましたから」
「何よそれ」
顰めっ面のままのヒスイを尻目に、ジェイドはその手から猫を取り上げた。
「知っていたら、君に託したりしませんよ」
少し大きくなったとは言え、猫はまだふわふわの産毛を纏っているし、目も開きはしたもののまだ青味がかっている。
ジェイドは溜め息を吐いた。
「この子とは、お別れするしかありませんね」
「え、どうして?」
「魔物を街の中に入れる事は禁じられています。見付かれば、最悪極刑ですよ。森に返しましょう」
ヒスイは青褪める。
しかしすぐに首を振ると、背を向けようとしたジェイドの腕を取り、猫を取り返した。
「待って。歯が生えたって、まだ狩りも出来ないのよ。せめて自分で獲物が獲れる様になるまでは、ここに置かせて」
「駄目です」
「どうして!」
「狩りが出来る様になったその子が、人を襲わない保証はありません」
再度猫に手を伸ばすジェイドを、ヒスイは半身になって躱す。
「そうならない様に言い聞かせるから」
「魔物に、人の理屈が理解出来ると思いますか?」
ヒスイは言葉に詰まった。
その両肩を、ジェイドは優しく掴む。
「子供の様に駄々を捏ねるのは、良い加減やめてください」
「嫌」
「ヒスイ」
「一度は拾ったの。一日だけど世話をしたの。それを、また捨てるなんて出来ない」
完全に情が移ってしまったらしい。
ヒスイは涙を溜めた目で、ジェイドを真っ直ぐに見つめた。
「ちゃんと躾けるから。父さんも私が説得する。だからお願い、もう少しだけナイトをここにいさせて」
ジェイドは顔を背けて、ヒスイの肩から手を離すと腕を組む。
男が女の涙に弱いと言う話は、彼にも当て嵌まる様だった。
やがて腕を下ろすと、ジェイドはヒスイを見る。
「仕方が無いですね。自分で獲物を捕まえられると私が判断したら、森に返しますよ」
ヒスイの顔がパッと輝いた。
「ありがとう、ジェイド!」
猫を片手に移し、ヒスイはもう片方の手でジェイドに抱き付く。
「ちょっ、何を」
狼狽えるジェイドの胸に頭を預けたヒスイは、目を瞑って囁いた。
「ありがとう」
そのまま、良かったねーナイト、と猫に話し掛けるヒスイを引き剥がす事も出来ず、ジェイドはただそれを眺めていた。
***
ヒスイの父親は、正にこの親にしてこの子ありの人物であった。
娘が連れて来た猫が魔物だったと告げられても、魔物と言えど子育てを途中で放棄する事は許さない、と言ったそうだ。
猫はスクスクと成長し、その翌日には木箱も小さくなって、ヒスイのベッドで共に寝る様になった。
ミルクも自分で飲める様になり、ジェイドが用意した離乳食も嫌わずに食べる事が出来た。
三日も経つと、ピョンピョン辺りを跳ね回る様になり、棒の先に布切れを結んだおもちゃに飛び付いて遊び、五日後には生肉も噛み千切れるまでに成長した。
猫がヒスイの家にやって来てから七日目には、すっかり産毛も抜けて大人の毛並みになった。
そして、羊程の大きさになっていた。
「ここまで大きくなるのは、想定外でしたね」
ヒスイが、猫と一緒になって家の中を所狭しと跳ね回っているのを眺めながら、ジェイドは呟く。
あれから毎日ここに通い、ヒスイと共に猫の成長を見守っていた彼である。
ただ、人間と猫の食事は彼が用意し、手が空くと家の片付けもしていたので、どちらかと言うと通いのメイドと言う方がしっくり来た。
「ジェイド! 見て見て。ナイト、狩りが出来る様になったのよ」
ヒスイが宙に向かって指を差す。
「『火の鳥』」
彼女の指先に、掌大の炎の塊が現れた。
それは小さな鳥を形作る。
羽ばたく火の鳥に気付き、猫は頭を下げて尻尾を振った。
狩りの体勢だ。
右に左に揺れる火の鳥に狙いを定めて、猫は宙に飛び上がる。
その両前足が火の鳥を捉えた。
と、火の鳥はポンッと軽い音を立てて消える。
後には白い煙が残った。
「これは……」
「ね、凄いでしょ。昨日はまだかすらない事も多かったんだけど、今日はもう百発百中なのよ」
「ええ、凄いですね」
ジェイドはそう返したが、感心しているのは猫の狩りにではない。
炎の大きさや形まで自在に操るのは、炎属性の魔法の中でも最上級だ。
魔力の強さは元より、魔力を練り上げる精巧さも求められる為、その辺を火の海にするよりも難しい。
それを難無くやってのけるとは、しかも彼女の話し振りによると複数回にわたって。
「そんなに魔力を使って、身体は大丈夫ですか」
「ナイト中々飽きてくれなくて、何十回もやってるから少し疲れたけど。でも楽しいわよ」
多少顔は上気しているものの、それは部屋の中を猫を追いかけて走り回っていた為だと思われる。
「その魔法も、お母様から教わったんですか?」
「違うわ。昨日、父さんが教えてくれたの。ナイトと遊ぶのに丁度良いからって。私ね、光の属性は母さんから、炎の属性は父さんから貰ったのよ」
彼女の魔力は母親譲りかと思いきや、父にも魔力があるらしい。
本人に自覚は無い様だが、鍛えれば相当な腕前の魔法使いとなるだろう。
自分の左手薬指に指輪を嵌められるだけの事はある、とジェイドはその左手をちらりと見た。
猫が近寄って来て、指輪を不思議そうに見つめる。
中腰でその頭から肩を撫でてやると、猫はグルグルと喉を鳴らした。
ジェイドの目尻が下がる。
「赤ん坊の産毛も良いですが、成猫の艶々した毛の触り心地もたまりませんねえ」
しかし、猫は既に大きさも見た目もすっかり猛獣であった。
ジェイドは言う。
「狩りもしっかり出来る様ですし、そろそろ潮時ですね」
ヒスイは目を見張ったが、その目を閉じると静かに笑って頷く。
「そうね」
寂しそうではあるが、彼女が前回の様に拒否する事は無かった。
それは逆に、ジェイドの胸をチクリと痛ませる。
しかし同時に、安堵もした。
泣いている彼女など、ジェイドは見たくなかったのである。
気を取り直したジェイドが口を開く。
「この子の姿を見られない様、夜中に出発します。それまで、沢山遊んでやってください」
「うん。あ、私も一緒に行くわね」
「いや、危険なので私だけで」
「一緒に行くからね」
「……分かりました」