子育て
家に猫がやって来たのは良いが、まだ目も開き切っていない子猫である。
人間の赤ん坊の様に頻繁にミルクを与え、更には自分で排泄も出来ない為、その世話もしなくてはならない。
あくる朝、初めての育児に目と口が半開きのまま固まっているヒスイを見て、朝の支度を済ませた父親が声を掛けた。
「大丈夫か?」
恰幅の良い父親の丸いお腹を眺めながら、ヒスイは少しだけ口角を上げる。
「うん、大丈夫よ。問題無いわ」
どう見ても問題大有りだ。
恐らく昨晩、彼女は一睡もしていない。
「四六時中見張ってなくても良いんだぞ。猫が寝てる間はお前も寝て、飯を食え」
「でも、私が寝てる間に何かあったらどうするの」
「あのな」
父親は、パンを片手に猫の入れられた木箱を挟んで、娘と向かい合う。
「そうやって無理をしてお前が倒れたら、誰がこの子の面倒を見るんだ」
「父さんが」
「……うん?」
「冗談よ、この位で倒れないわ。私、結構丈夫だし」
任せて、とでも言いたげな娘に、彼はこめかみを押さえた。
猫を飼う事を許可したのは、確かに彼自身だ。
彼も農場で動物に囲まれて暮らしていただけあって、動物が好きだった。
農場を手放す際に、飼っていた動物達も纏めて引き渡し、世話を焼く相手がいなくて寂しかったのもある。
何より彼は、誰かの手助け無しには生きて行けない子猫を前に、捨てて来いときっぱり言える非情な人間ではなかった。
但し、猫と娘を天秤にかけて、猫に傾く事は決して無い。
どう叱ってやろうかと口を結んだ彼は、ふと随分前にあった出来事を思い出す。
目の前にいる娘が、まだ生まれたばかりの頃だ。
「お前が赤ん坊の頃、同じ事を母さんに言われたよ」
え、と瞬きをするヒスイの口に、彼はパンを捻じ込んだ。
あの時も言葉で説得し切れずに、彼は同じくパンを妻の口に捻じ込んだのだ。
彼は言った。
「まあ、猫だから付きっ切りなのは一週間程度の事だろう。これから先、自分の子供が出来た時の予行練習だと思って頑張れよ。父さんは仕事に行って来る」
ヒスイは口をモゴモゴさせながら頷く。
その頭を軽く撫でて、彼は箱の中身を覗き込んだ。
「なあ。こいつ、こんなに大きかったか?」
「ん?」
パンを何とか飲み下したヒスイも、改めて猫を眺める。
猫は柔らかい布の上で、すやすやと眠っていた。
「こんなもんじゃなかった?」
「そうか? 俺の勘違いかな」
首を捻りつつ、彼は立ち上がる。
「じゃあ、行って来る。少しでも、休める時に休むんだぞ」
「うん。お昼前にはジェイドが来るって言ってたから、来たら休ませてもらうわね」
彼は、玄関を出ようとして足を止めた。
初めに猫を拾って、引き取ったヒスイに世話の仕方まで教えてくれたのがジェイド・グリーンなる男だと、聞いてはいる。
先日、ヒスイが行った料理教室の講師にして、バル・キングフィッシャーの店主、更には領主の娘、アン・ダゴンの騎士であるらしい。
料理教室は食材調達が出来ず流れたが、後日食べさせてもらった魔物料理は大層美味だったとの話だ。
それ以降、娘は彼の店を手伝っているらしい。
「おい。大丈夫なのか、その男」
眉を寄せた父親に、ヒスイは笑って見せた。
「大丈夫よ。あの人、もふもふしてないものに興味無いから」
その判断基準は甚だ疑問だったが、生憎問い質している時間は無い。
「まあ、今度きちんと挨拶させてくれ」
そう言い残して、彼は今度こそ玄関から外へ出た。
***
「そんな所で涎を垂らしてないで、ベッドで少し寝て来たらどうですか」
木箱の前で船を漕いでいたヒスイは、その声に思い切り肩を震わせた。
顔を上げると、呆れ顔のジェイドが目の前にいる。
「あー、来てたの」
「ノックをしても反応が無いので、勝手に上がらせてもらいました。もしかして、ずっと起きてたんですか?」
「らって、この子見てなきゃらし」
ヒスイの目は半分閉じたままだし、呂律も回っていない。
ジェイドは息を吐いた。
「君が倒れたら、誰が猫の面倒を見るんですか」
閉じかけていた目を見開くと、ヒスイは小さく笑い声を上げる。
「ンフフ、父さんと同じ事言ってる」
ジェイドは眉を寄せた。
「そうでしょうね。お父様も君のそんな姿を見れば、さぞ心配でしょう」
「ジェイドも心配?」
とろりとした目で小首を傾げたヒスイに、ジェイドは言葉を詰まらせる。
視線を外して答えは出さないまま、ジェイドはヒスイの腕を取って立たせた。
「寝室はどちらですか?」
あっち、と階段の上を指すヒスイの背中に、ジェイドは手を添えた。
「ほら、行きますよ」
「んー。ナイト、おかあさんはちょっと寝て来るから、良い子にしてるのよ」
箱の中身に手を振って、ヒスイは歩き出す。
ジェイドは老人を介助する様にヒスイをベッドまでエスコートし、寝かせて布団を掛けた。
「ナイトをよろしくね」
「ええ、任せてください」
瞳を閉じたヒスイは、直ぐに寝息を立て始める。
両手を頭の横に置くその姿は、まるで小さな子供だ。
ジェイドは息を吐いた。
「こんな子供に、してやられるとは」
自分の左手を右手で包み込む。
そこに光る指輪の事は、この一週間で粗方調べ上げていた。
『神聖なる契約』
光魔法の一つで、対象をその意思と無関係に隷属させ、闇の属性を封じる効力を持つ。
それを具現化したものが、左手薬指の指輪だ。
指輪の材質は多岐に渡るが、魔法の具現化である為、物理的にそれを取り除く事は不可能である。
指輪を嵌める指の無い動物や魔物であれば首輪の形を、実体を持たない精霊には、それを閉じ込める壺や瓶の形を取る。
但し、相手の魔力が使用者より強ければ、この魔法は効力を発揮しない。
つまる所この指輪は、ヒスイがジェイドの魔力を上回る事を示していた。
こんな小娘に魔力で劣るなど、どれだけうず高く積んだプライドであろうと、一息で塵と消える。
しかも、公言してはいないがジェイドの中に存在していた筈の闇の属性が、今は欠片も感じられなかった。
闇属性の魔法は日常生活にこそ必要無いが、戦闘時には非常に有効である。
それを見込まれ、ジェイドはアンに専属の騎士として雇われたのだ。
闇属性の魔法が使えないまま、もし何かが起きた時、ジェイドにはアンを守り切れる自信が無い。
渋々受けた騎士と言う仕事ではあるが、引き受けたからにはきっちりこなしたかった。
その為に、指輪は邪魔でしかないのだ。
無邪気に眠るヒスイを眺めて、ジェイドはもう一つ息を吐く。
その頬にかかった髪を、指でそっと払ってやった。
今、彼女の寝首を掻く事は容易く見える。
しかし、指輪が隷属の魔法の具現化である以上、手出しは出来まい。
何より、アンがそれを許す筈が無い。
ジェイドより強い魔力の持ち主であり、その上母親が、ドラゴンを倒した聖女ルシアだと言う。
アンはヒスイを仲間に引き入れようと躍起だ。
婚期が遠退くからと嫌がるヒスイに、ジェイドを当てがおうとしてまで。
それを回避する為にも、この指輪をなんとか外さなければならない。
ジェイドは踵を返した。
「それはさて置き、今は子猫の毛を堪能するとしましょうか」