出会い
芋と人参に、おまけで貰った柑橘をエプロン一杯に包んで、ヒスイは石畳の上を歩いていた。
ジェイドのお使いである。
魔物料理をご馳走してもらったヒスイは、ジェイドの店を一日手伝った。
以降、何かしら理由を付けて店に顔を出していると、そんなに暇ならとお使いを言い渡された次第である。
陽が雲の合間を縫って石畳を照らし、肌寒くなって来た空気を温めてくれていた。
そろそろ冬服を調達しなければ、そんな事を考えていると、丁度良く服屋の前に差し掛かる。
窓から見える洋服達は、どれもお洒落で暖かそうだ。
対してヒスイは、いつものワンピースにオーバースカートと言う出で立ちである。
折角最新ファッションが揃う街に越して来たのだから、たまにはお洒落でもしてみたい。
しかし芋と人参にまみれている今は、店内に入る事が憚られた。
「またにしよう」
呟いて、ヒスイは再び歩き出す。
「そう言えば、ここに越して来てからまだ一月も経ってないのよね」
彼女は、父親と共に田舎からこの街へやって来た。
それから随分と経った気がしていたが、実際には数週間である。
一週間程前の森での出来事が強烈過ぎて、時間の感覚が多少麻痺している様だ。
「どうして、こうなっちゃったのかしら」
ヒスイは、ジェイドの涼しげな容貌に似合わぬ、ゴツゴツとして傷だらけの手を思い出す。
その左手薬指にしがみ付いて離れようとしない、ヒスイの瞳と同じ輝きを持つ指輪もついでに思い出し、ヒスイの顔は赤くなった。
指輪を発生させた魔法について調べる為、城主の娘であるアンに、城の書物を見せてくれと頼んだら、その必要は無いとにべも無くあしらわれたヒスイである。
アンはどうしても、光属性の魔力を持つヒスイを自分の下で働かせたいらしい。
その為に手段を選ばないのは言うまでも無く、婚期が遠退くからと断ったヒスイを、ジェイドと結婚させようと躍起になっている。
毎日彼女から届く手紙には、ジェイドの知識の豊富さや、間違いを正してくれる優しさ等、彼の様々なアピールポイントが、他愛も無い日常の話題と共に綴られていた。
そこまで彼の事を知り尽くしているアンこそ、ジェイドの相手に相応しいとヒスイは思う。
しかし、そう思う事に引っ掛かりを感じる自分もいて、彼女の頭は混乱の渦中にあった。
彼の性格云々は、この際置いておく。
ヒスイはこれまで、料理は旨いに越した事は無いが、食べる事が出来れば御の字との考えだった。
ジェイドはそれを、見事に覆してくれたのだ。
森でいただいたショコラトルもサンドイッチも、お店で出されたマンティコアのテールスープも、今までにない感動を彼女に与えてくれた。
仮に彼がアンと結婚して、彼の料理の腕をアンが独り占めしてしまう事になるのは、ヒスイには耐えられない。
まだ見ぬ結婚相手の胃袋を掴む為に行った筈の料理教室で、彼女は講師に胃袋を掴まれてしまったのだった。
しかし、結婚となると話が違う。
なるべく早く結婚したいと願ってはいても、まだ十六歳で結婚に夢を見る年頃だ。
ドラマチックな出会いや、感動的な物語が無い結婚では、ときめかない。
まして婚約が、魔物に喰われかけて自分を守る為に使った魔法が切っ掛けであるなど、夢見る少女に赦せる訳が無かった。
かと言って、このままアンが引き下がってくれるとは思えない。
指輪を外す方法も見付からない。
現状の打開策を一つも見付けられないまま、ヒスイは大きな溜め息を吐き出した。
その耳に、聞き覚えのある声が届く。
「はあ、幸せですねえ。このふわふわの毛並み。これは赤ん坊だからこそですねえ」
見ると、ジェイドが切れ長の目尻を思いっ切り引き下げて、手の中の何かに話しかけていた。
ヒスイは、先程までの憂いをすっかり忘れて、そちらに歩み寄る。
彼女の顔からは、好奇心が駄々漏れていた。
「しかし、困りましたね。私の家は酒場なので、君を連れて行く事は出来ないのですよ。引き取り手を見付けなくては」
立ち上がろうとしたジェイドが、彼の手の中を覗き込もうと身を乗り出したヒスイの顎に、頭突きをかます格好になった。
「いったぁ!」
「すみませ、ん?」
体勢を崩しながらも手の中の物だけは必死に守り抜いたジェイドは、隣で顔を歪めて痛みに堪えているのがヒスイだと気付いて、眉を片方跳ね上げる。
「何だ、君でしたか」
「何だとは何よ。痛かったわよ」
「それは失礼。お、きちんとお使い出来た様ですね」
「子供扱いしないで。買い物位出来るわよ」
ヒスイは涙目でジェイドを睨んだ。
しかし、ジェイドは動じない。
「大方、私を見付けて何をしているのか覗き込もうとしたんでしょう」
図星であった。
顔を背けて唇を尖らせたヒスイは、横目をジェイドに向ける。
「で、何してたの?」
出し渋るかと思いきや、ジェイドは素直に両手をヒスイに差し出した。
そこには、ふわふわの産毛に包まれた、小さな小さな黒猫が載っている。
産まれて一週間経っているだろうか、まだ開き切らない灰青色の瞳をヒスイに向けて、猫は小さく鳴いた。
ヒスイは思わず悲鳴を上げる。
「可愛い〜!」
その反応を見て、ジェイドは何かを思い付いた様に目を細めた。
「君は田舎から越して来たんでしたね」
「うん、そうだけど」
ヒスイは緩み切った表情で根菜の入ったエプロンを片手に纏めると、空いた手で猫の毛に触れる。
指先から伝わる温もりは、蕩けてしまいそうな程に心地良い。
「猫を飼った事は?」
「牛と馬と犬と鶏はいたけど、猫はいなかったわ。でも、猫も可愛いわねえ」
まだ立っていない耳を触ると、猫は気持ち良さそうに目を閉じた。
溜め息を漏らしながら猫を見つめるヒスイに、ジェイドが言う。
「ヒスイ、これも何かの縁です。君がこの子を引き取ってください」
「え?」
ヒスイは手を引っ込めた。
猫が再び目を開けて鳴く。
「ほら、呼んでいますよ。この子はきっと、君の所へ行きたいんです」
「いやいや、ちょっと待って」
「動物の扱いには慣れているでしょう?」
「それはそうだけど、こんな小さい子、親猫が一緒にいないと育てられないよ」
「残念ながら、母親はこの辺りにはもういない様です。私の家は酒場で連れて行けませんし、君しかいないんです。私が世話もお手伝いしますから、お願いします」
真っ直ぐに銀色の瞳を向けられ、ヒスイは困った様に眉根を寄せた。
「本当に、手伝ってくれる?」
「ええ。君がこの子を引き取ってくれるなら、毎日でも通いますよ」
二人が会話を交わす間にも、猫は小さな鳴き声をヒスイに向かって懸命に投げかけ続ける。
その必死な様子は、ヒスイの心を掴んで離さなかった。
しかし、本当にこんな小さな猫を自分が育てられるだろうか。
猫とにらめっこしながらしばらく唸って、ヒスイは頷くと顔を上げた。
「分かった。うちに連れて帰るわ」
ヒスイの言葉に、ジェイドの表情が綻ぶ。
「ありがとうございます」
ジェイドのゴツゴツした手にちょこんと収まって、猫はまだ鳴いていた。
ヒスイは、猫の額を擽る。
「私の家に行こうね、ナイト」
「ナイト?」
「うん、夜みたいに黒いから」
我ながら良い名前だわ、と呟いて、ヒスイは歩き出した。
何か言いた気だったジェイドは、結局そうですかとだけ呟いてそれに続く。
こうして、ヒスイの家に猫がやって来た。