酒場にて
その数日後、ヒスイはバル・キングフィッシャーの前にいた。
今日は、店の前に『料理教室→コチラ』の立て看板は無い。
ヒスイがドアを開けると、ドアベルがカラカラと音を鳴らした。
カウンターの向こうで、ジェイドがグラスを片付けている。
「すみません、まだ開いてないんですよ」
言いながら首を巡らせたジェイドは、そこにヒスイの姿を認めて目を見張った。
「君でしたか」
ヒスイは愛想笑いを見せる。
「こんにちは」
おずおずと店に足を踏み入れるヒスイを、ジェイドはカウンターから出て迎えた。
店内をキョロキョロ見回しながら、ヒスイは言う。
「今日、ジャスパーはいないの?」
「ええ、森に出掛けています」
「ふうん」
店内に二人きりである事に、ヒスイは妙に緊張した。
その様子に、ジェイドが怪訝な顔をする。
「どうしたんですか。何かありました?」
「えっと」
ヒスイは、ギュッと目を瞑ると深く息を吸う。
そして勢い良く頭を下げた。
「ごめんなさい!」
少しだけ顔を上げて、ヒスイはジェイドの左手を指差す。
「それを外す方法、どうしても分からなかったの。引っ越しの時に紙で出来たものは全部処分しちゃったし、何も手掛かりが残ってなくて。男の人の左手薬指に指輪嵌めちゃったなんて、父に言う訳にも行かないし」
もう一度、ヒスイはごめんなさいと深く頭を下げた。
ジェイドは自分の左手薬指を見遣る。
鈍い輝きを放つ翡翠の指輪が、存在を主張していた。
街に帰ってから、色々な方法で指輪を外そうと試みたヒスイである。
しかし、温めても冷やしても石鹸を使ってみても、勿論ヒスイの知る範囲の魔法を使っても、指輪は外れなかった。
トンカチを持って来て割ろうとした時は、ジェイドも流石に「私の手ごと砕くつもりですか」と止めたのだが、魔法で作られたものだ。トンカチ如きで割れる訳がない。
そこでヒスイは、この魔法を解く手掛かりが家に無いかと探していたのであった。
それが空振りに終わり、今に至る。
悲痛な面持ちのヒスイにいっそ憐憫の情が湧いて、ジェイドは軽く息を吐いた。
「まあ、これを取る方法は追々探しますよ」
「でも、困ってない?」
「困ってない訳じゃありませんが」
店の常連にはいつの間に結婚したのかと驚かれ、仕入れ先のおかみさんには相手は誰だと問い詰められ、アンには早く結婚なさってくださいねと言われ、ジャスパーにすら、もう諦めて結婚しろよと言われ、他にもいくつか問題は起きていたが、それはヒスイに心配されても仕方が無い。
「まあ、大丈夫ですよ。それよりも」
ジェイドは笑みを作った。
「魔物料理を食べた事はありますか?」
「無いけど。どうして?」
魔物は狩る事の出来る人間が限られている為、希少である。
その肉を口に出来るのは貴族よりも上の身分の者か、たまたまその辺に転がっていた死体を発見した者位だ。
ヒスイが魔物料理を食べた事が無くても、全くおかしな話ではなかった。
ジェイドは言う。
「わざわざ魔物料理の教室に参加したのに、魔物料理を食べていないのはとても勿体無いと思うんですよ。良かったら、食べてみませんか?」
「え、良いの?」
目を丸くするヒスイに、ジェイドは頷いた。
「勿論です。そこに座って待っていてください」
椅子の一つを指してから、ジェイドは奥の扉の向こうに消える。
ヒスイは椅子に座り、どんな料理が出て来るのか考えてみた。
グロテスクな魔物の首がドーンと皿に盛られた一品か、謎の臓物が煮込まれたこの世のものとは思えない色のスープか、はたまた巨大な骨付き肉のローストか。
最後の一つ以外は出て来ても遠慮しよう、とヒスイが心に決めている内に、ジェイドが戻って来た。
彼は、掌程の大きさの深い器を盆に載せている。
その器が、ナプキンと什器に続いてヒスイの前に置かれた。
「どうぞ、マンティコアのテールスープです」
ヒスイはジェイドを仰ぎ見る。
「マンティコアって」
「実は、城に肉を供出した時に、尻尾だけここに残しておいたんですよ。尻尾は下拵えにも調理にも時間がかかります。城では捨てられるだけだと思ったので」
「良かったの、そんな事して」
「どうせ捨てられるなら、ここで誰かに食べてもらう方が良いに決まっています。ほら、冷めない内にどうぞ」
ヒスイは器の中を覗き込んだ。
澄んだ琥珀色のスープと、そこにたゆたう円柱状の白い塊がいくつか見える。
スプーンでスープを掬って口に運んでみた。
「あっつ!」
ジェイドが呆れた顔をする。
「温かいものを口にする時の事を、少しは学習してください」
「……はい」
今度は、慎重に息を吹き掛けてからスープを口に入れた。
澄んだ見た目に似合わぬ濃厚な旨味が、程良い塩気と共に舌を刺激する。
それでいて、飲み口はすっきり、喉越しは柔らかだ。
温かさが喉から胃に伝わって、ヒスイは思わず感嘆の声を漏らした。
続いて、スープの中を泳ぐ白い塊を口に運ぶ。
歯応えはありながら、噛むとほろほろ口の中で解け、溶けて無くなる様に喉に入った。
今までにヒスイが体験した事の無い感覚だ。
手を止めて、ヒスイはジェイドを見つめる。
「魔物って、こんなに美味しいの?」
その反応に、ジェイドは満足気だ。
「このマンティコアの尻尾は、手間を掛ければ掛ける程美味しいと言われます。外皮を剥いで一日水に晒し、三日間灰汁を取りながら煮込んだものが、それですよ」
この味も食感も、それだけの手間をかけてこそなのだろう。
「そんな手間をかけたものを、どうして私に食べさせてくれたの?」
「言ったでしょう、魔物料理を食べないのは勿体無いと。魔物の味を知って欲しかったんですよ」
それが本心かどうかヒスイには分からなかったが、このスープが美味しいのは紛れもない事実だ。
ヒスイはここにやって来た時とは違う、会心の笑みを浮かべた。
「ありがとう、とっても美味しい」
ジェイドは一瞬戸惑う様に目を見開いたが、直ぐに口角を上げる。
「こちらこそ、気に入ってくれてありがとうございます」
ヒスイは残りのスープを平らげると、満足そうにお腹をさすった。
そこである事を思い出す。
「そう言えば、アンから家に手紙が来たのよ」
ヒスイがポケットを探って取り出したのは、高級そうな紙の束だった。
「教えてないと思ったけど、何で私の家の場所を知ってたのかしら」
料理教室の日に、アンが暗くなったからと、ジェイドにヒスイを家まで送らせたのだ。
ヒスイの家の場所が筒抜けなのは、当然である。
「手紙の内容はどうでした?」
「今日こんな事があったよ、とかそんな感じ」
他愛も無い内容らしい。
「でも、最後に指輪の相手と進展はあったかって書いてあるの。あれからまだ三日しか経ってないのに、勘弁して欲しかったわ」
ジェイドは苦笑する。
「彼女も、新たな友人が出来て嬉しいのでしょう。手紙には付き合ってあげてください。指輪の話は、外れるまでの辛抱ですから」
「そうね。私もこの街に来て初めての友達だし、アンは面白いから好きよ。指輪を外す方法、早く探さなきゃだわ」
頑張ろう、と決意を新たにしたヒスイは、勢い良く立ち上がって言った。
「スープご馳走様。お代は?」
「要りませんよ。作った量が少ないので、店では出せませんし」
「それじゃあ、料理教室代として受け取ってよ」
「料理教室は中止になりましたから、お代は必要ありません」
「えー、でも」
「そんなに気にするなら、今度店を手伝ってくれませんか。女手があると喜ぶお客様もいますので」
「分かったわ、任せといて!」
元気にそう言って、ヒスイは店を後にした。