光の魔法
横倒しになった馬車から顔を出したヒスイが、目を丸くしてその様子を眺めている。
「凍っちゃった」
続いて馬車から顔を覗かせたアンは、纏め髪を整えながら言った。
「久し振りに彼の魔法を拝みましたわ。流石ですわね。道具も魔法陣も呪文も無しに、あれだけの事が出来るんですのよ」
「え? 呪文もって、私が聞き取れなかっただけかと思ったのに」
「わたくしの騎士ですもの。それ位は当然ですわね」
ヒスイに片目を瞑って見せ、アンは馬車の上によじ登る。
彼女が地面に降りるのを助けながら、ジャスパーが言った。
「二人とも怪我は無さそうだな、良かった」
「危なかったのですよ。わたくしのスカートがクッションにならなければ、擦り傷では済まなかったかも知れませんわ。以後お気を付けになって」
「ああ、悪かったな」
続いて馬車から引っ張り出されたヒスイは、大蛇の傍に歩み寄る。
凍った大蛇から冷気が地面に落ちて、足元が煙っていた。
霜の化粧を纏う鱗に触れようとしたヒスイの手を、ジェイドが取る。
「そんな事をすると、手が凍って離れなくなりますよ」
「え、そうなの?」
慌てて手を引っ込めて後退ると、ヒスイは改めて大蛇を見上げた。
突つけば倒れてしまいそうに絶妙なバランスで立つ大蛇は、動かなければ大きな枯れ木の様でもある。
少々首がだるくなって来たヒスイは、後ろ向きに歩き出した。
見上げなくても蛇の全体像が把握出来る距離に来てようやくヒスイは満足し、歩みを止めた。
と、何かに足元を掬われる。
ヒスイは、小さく悲鳴を上げて尻餅を付いた。
その目が、赤いたてがみを捉える。
「何だ、マンティコアだったの」
そこには、先程馬車が轢いたマンティコアが横たわっていた。
ヒスイは、ピクリとそれが動いた気がして首を傾げる。
ジェイドが目を剥いた。
「いけない!」
血相を変えてこちらに駆け寄ろうとするジェイドを見て、ヒスイは視線をマンティコアに戻す。
眼前には三列に連なる鋭い歯と、揺れる喉仏が迫っていた。
時間がやけにゆっくりと流れる。
死の瞬間とはそう言うものであるとは、誰の言葉だったか。
ヒスイの頭に過ぎったのは、そんなどうでも良い事だった。
もっと他に思い出す事がある筈だ。
必死に思考を巡らせる。
そうしてヒスイはようやく、母親から教えられた呪文を記憶の引き出しの奥から引っ張り出した。
今の自分に使えるかは分からないが、悩んでいる暇も無い。
ヒスイは両手を前に突き出し、ありったけの気合いを込めて呪文を唱えた。
「『神聖なる契約』!」
ヒスイの全身が淡く光る。
刹那、光は両手の間に凝縮され、前方に向かって放たれた。
それはマンティコアを呑み込む
筈だった。
実際、光に呑み込まれたのは、マンティコアを氷で覆った拳によって凍らせつつ吹っ飛ばしたジェイドである。
「……え?」
目を丸くしたヒスイの前で、ジェイドを包んだ光は段々と彼の左手に収束し、薬指に輪を形作った。
反射的に閉じていた目をジェイドが開き、左手薬指の違和感に眉を顰める。
「は……?」
光が完全に収まると、そこには深緑色に輝く翡翠製の指輪が収まっていた。
不愉快そうに、ジェイドはヒスイを見る。
「どう言う事ですか、これは」
「さあ」
「今のは、光魔法ですよね」
「……さあ」
ヒスイには、何がどうしてどうなったのか見当も付かなかった。
他人事の様に首を傾げたヒスイを、ジェイドは睨む。
「あなたがやったんでしょう。何の属性のどう言った効果の魔法ですか」
「そう言われても、分からないわ」
確かに魔法を使ったのはヒスイだが、彼女が母親から教えられたのは、呪文と「本当にピンチになったらこの魔法を使いなさい」との言葉だけだった。
魔法が何の属性なのか、使った結果が何をもたらすのかは全く聞いていない。
困惑顔のヒスイに、これ以上問い詰めても答えは出ないと察したジェイドは、深い溜め息を吐く。
「属性も効果も知らずに魔法を使えるとは、大層な潜在能力ですね」
「全く、その通りですわ」
二人がやり取りしている間に傍まで来ていたアンが、ジェイドの皮肉に相槌を打った。
「普通、魔法は属性と効果を知って初めて使えるものですのに。何も知らずに、呪文を唱えるだけで術が発動してしまうなんて、いくら何でも乱暴過ぎますのよ」
「そう言うもんなの?」
「そう言うもんなのですわ」
ヒスイはそうなんだ、と呟き自分の手を見る。
彼女の母親は、炎の属性を持つ彼女が使える初歩的な生活魔法と、ピンチの時に使う魔法だけを教えてくれた。
母親が不要だと判断したものは、一切教えられなかったのである。
ヒスイ自身もそれで良しとしていたのを、今更後悔しても遅かった。
そんなヒスイの心中を知る由も無く、アンは称賛の言葉をヒスイに贈る。
「先程のは、どう見ても光魔法でしたわね。炎に加えて光の属性もあるとは、何て素敵なんでしょう」
アンは地べたに座り込んだままのヒスイの前にしゃがみ、その両肩に手を置いた。
「あなた、わたくしの下で働きません事?」
「え?」
顔を上げたヒスイを見つめて、アンは微笑む。
「わたくしには、あなたの力が必要ですわ。わたくしの為に聖女となって、わたくしと共に参りましょう」
参りましょうって、どこへ? と聞きかけて首を振り、ヒスイは声を上げた。
「無理! 絶対嫌! だって結婚出来なくなるから!」
何の為にヒスイが料理教室にやって来たのか、それは出来るだけ早く結婚する為だ。
この国では、大方の女性が二十五歳までに結婚し、子供を儲けている。
聖女と呼ばれる女性達は、それに比べると押し並べて結婚が遅い。
少女の頃から教会や組織や国に仕え、その教義や人や国の為に死力を尽くすからである。
結婚しないまま、若くしてその命を散らす者も少なくない。
怪我や病気を切っ掛けに引退し、生涯を独身で過ごす者、結婚しても子供に恵まれない者も多くいた。
ヒスイの母親、ルシアも例外ではない。
ルシアが結婚したのは三十を過ぎた頃だ。
幸いヒスイという子に恵まれはしたものの、産後の肥立ちが悪く、もっと早くに産んでいればと後悔していた。
結局そのまま身体を壊した彼女の、ヒスイへの遺言が、聖女にだけはならないで、だ。
ヒスイはだから、聖女にだけはなる訳に行かなかった。
「聖女だけは、無理」
必死なその様子に、アンもたじろぐ。
「そ、そうですの」
一旦思案する仕草をしてから、アンは言った。
「では、ジェイドと結婚しましょう」
「はあ!?」
ヒスイも驚いたが、ジェイドの方が物凄い形相でアンを見る。
しかしアンは涼しい顔だ。
「その指輪、丁度良い塩梅に左手の薬指でしょう。婚約指輪と言う事で宜しいんじゃないかしら」
ヒスイとジェイドは同時に叫んだ。
「「宜しくない!」です!」
アンは、断られた事が心外だと言う風に首を傾げる。
「あら、そう?」
「そうですよ。私は今、魔物料理の研究に忙しくて結婚などしている暇はありませんし」
「そんなもの、ヒスイに手伝って貰えば良いんですわ」
「そんなものって。いえ、私と彼女は今日が初対面で、年齢も離れていますし」
「お見合いだと思えば、今日が初対面でもおかしくはない筈ですわ。それにジェイド、あなた二十四でしょう? ヒスイは十六でしたわね。八つしか違わなくてよ。あなたが五十の時ヒスイは四十二、六十なら五十二、釣り合いは取れるでしょう」
「そんな先の話はしていません。そもそも、この指輪は意図したものではありませんし、それ以前に、聖女が結婚出来ますか?」
アンは一つ瞬きをした。
「聖女が結婚出来ないなんて法は、存在しませんわ」
「……っ」
口での敗北を悟り、ジェイドは項垂れる。
代わりにヒスイが口を開いた。
「アン、私は確かに早く結婚したいけど、結婚は私が決めた人とするわ。誰かに伴侶を決められたくはないの」
断固たる決意を込めたその眼差しに、アンは残念そうに眉尻を下げる。
「分かりましたわ。ではお二人、お友達から始めましょう」
「全然分かってないわよね!」
あら、と口元を手で覆い、アンは難しいですわ、と呟いた。
それ以上アンが説得の言葉を思い付かない内に、ジェイドが言う。
「さて、街へ戻りましょうか」
「え、でも馬車は転けちゃって」
と視線を巡らせたヒスイは、寝っ転がっていた筈の馬車が、元通り車輪を下にしている事に目を剥いた。
その横で、ジャスパーが息を切らしている。
「な、何とか立て直したぜ。車輪は回る。馬も無事だ」
三人が不毛な遣り取りをしている間、彼は一人で馬車を復元していたらしい。
袖の無い服から見える筋肉は、伊達ではなかったと言う事だ。
「凄い。一人で馬車を持ち上げたの?」
「まあな。これ位はどうって事ないさ」
格好を付けてはいるが、ジャスパーはまだ息が上がっていた。
それがおかしくて笑いを噛み殺しながら、立ち上がったヒスイはアンに聞く。
「あの人も、アンの騎士なの?」
「いいえ、彼はただのジェイドの友人ですわ」
意外な答えに、ヒスイはジェイドを振り返る。
ジェイドは肩を竦めた。
「友人ではありません。ただの居候です」
三人の良く分からない関係に、今はこれ以上突っ込むまいと口をつぐみ、ヒスイは氷漬けのマンティコアに目を向ける。
「あれ、持って帰るの?」
ジェイドは首を振った。
「いいえ。凍った魔物の肉は味が格段に落ちますので、あれはここに置いて行きます。その内、他の魔物が餌にするでしょう。折角の毛皮も勿体無いですが、溶かすのに時間がかかりそうですし」
「あ、じゃあ私が溶かすわ。魔法で」
「火事になるといけないで、今回はやめておきましょう」
確かに、慣れない事をして火事になる可能性もある。
ヒスイは大人しく引き下がった。
ジャスパーが筋肉を伸ばしながら呟く。
「あーあ。今回は収穫無しか」
「お前がワームを引き連れて戻って来なければ、大きな収穫だったんですがね」
「ははは、悪かったよ」
「悪いと思ってないでしょうが」
こうして、魔物を使った料理教室は食材が調達出来なかった為中止となり、四人は帰途に付いたのであった。




