魔物
初めにその気配を察したのは、馬車に繋がれた馬だった。
いななき、落ち着きを無くした二頭の馬を、パンを咥えたままのジャスパーが宥めにかかる。
作り終えたサンドイッチをアンとヒスイに手渡し、ジェイドも立ち上がった。
「二人は馬車の中へ。ジャスパー、馬は大丈夫ですか」
「ああ、落ち着いた」
「では行ってください」
「了解」
馬車からなるべく離れた位置に移動しながら、ジェイドは森の中に向けて言う。
「そんな所にいないで、出て来てはいかがですか」
その声を受けてか、獲物の的を絞ったのか、それは陽の光の当たる場所へ姿を表した。
赤い毛に全身を覆われた、人間よりも二回りは大きな獣だ。
頭から首筋にかけて、見事なたてがみを生やしている。
ヒスイが幼い頃、一度サーカスで見た事のあるライオンに似た姿だが、その顔は人間に似て扁平で、その尻尾は節のある殻に覆われ、先端が鉤状に尖っていた。
その姿を目の当たりにして、ジェイドが何故か恍惚の表情を浮かべる。
「いつ見ても、雄のマンティコアのたてがみは素敵ですねえ。是非とも触らせていただきたい」
マンティコア、そう呼ばれた獣は喉から低い声を響かせながら、ゆっくりとジェイドに詰め寄った。
その隙に、馬車に辿り着いた二人を乗せて、ジャスパーは馬に鞭を振るう。
「ち、ちょっと!」
馬車を森に突入させるジャスパーに、ヒスイが叫んだ。
「あの人ここに置いてくの!」
「そうだ。あいつ一人で充分だからな」
「何が充分なの!」
マンティコアに食べられるのは、一人で充分だとでも言うのだろうか。
しかし、ちらりとヒスイを振り返ったジャスパーの顔には、余裕の笑みが見える。
「あいつ一人で倒せる。心配するな、俺達が傍にいると逆に邪魔なんだよ」
「そんな事言われても」
憮然とするヒスイに、アンが言った。
「大丈夫ですわ、彼はとても強いんですの。ジェイド・グリーンと言う名前、聞いた事がありません?」
無い。
彼は、ただの魔物料理研究家ではないのか。
首を振ったヒスイを、アンはおかしそうに見る。
この状況で何故笑えるのか分からないヒスイは、眉間に皺を寄せた。
「そうですわね、知らなくて当たり前でしたわ。緘口令を出させたのはわたくしでした」
サンドイッチは手放さずに居住まいを正したアンは、ヒスイにもこちらに向き直る様促す。
ヒスイもサンドイッチを手にしたまま座り直すと、アンは口を開いた。
「確か一年半前ね。街にワームの侵入を許した事がありましたの。その時、彼はたった一人でワームを綺麗に輪切りにして見せたのですわ。彼が強いのはお分かりいただけて?」
「ワームって、でっかいミミズみたいな魔物?」
森の近くの農村に、たまに顔を出しては村人総出で退治され、畑の肥やしにされる魔物ならばヒスイも知っている。
人間の胴体より太く、大人三人分の長さだが、魔力を持たない人間でも寄って集れば倒せる魔物である。
それを一人で倒したならば、強いとは言えるが余りパッとしない。
しかしアンは首を振った。
「あの時現れたのは、ドラゴンの仲間の方でしたわ。硬い鱗に覆われた、大きな蛇でしたの」
「そっちなの?」
前述のワームの二倍はある魔物だ。
どこかの街が襲われ、全滅しかけたと言う話もある。
それを一人で倒したとなれば、王都の騎士にでもなっている程の腕前ではなかろうか。
「そんな人が、どうして酒場なんかやってるの?」
素朴な疑問に、アンは頷く。
「その時に、わたくしの騎士として仕える約束をしましたのよ。普段は好きにして良いと言ったら、酒場を始めてしまったのですわ」
ジェイドの酒場経営はアンにとっても予想外だった様だが、それ以前にヒスイは、彼が彼女の騎士となった経緯が気になった。
ジェイドは、一筋縄で人の言う事を聞く人間に思えない。
しかし、問いを口にする前に、ジャスパーが情けない声を上げた。
「おかしいな、ここどこだ?」
ヒスイはギョッと振り返り、アンはあらあら、と頬に手をやる。
「ここ、森のど真ん中よね! 迷ったの? どうすれば良いの!」
「ヒスイ、落ち着くんですのよ。サンドイッチでもお食べになって」
そんな事してる場合か、と言いかけたヒスイの口に、サンドイッチが捻じ込まれた。
モゴモゴと咀嚼すると、肉の旨味とチーズの塩気が口の中に広がる。
「美味しい」
「でしょう? ジェイドの料理の腕前は、城のお抱えシェフよりも良いと思いますのよ」
城のお抱えシェフの腕前をヒスイは知らないが、目の前のサンドイッチが美味しいのは確かだ。
取り急ぎそれを平らげてから、ヒスイは改めてジャスパーを振り返った。
「方角の見当も付かないの?」
「馬車と歩きって景色が違うもんだな。全然違う森に見える」
呑気にそんな事を言うジャスパーには、焦りの色も不安も見えない。
アンも心配している様子は無い。
二人が落ち着いているなら大丈夫なのだろう。
ヒスイはようやく心に余裕を持てた。
「そんな時は、真っ直ぐ進むのよ。真っ直ぐ進めば、必ず光は見えて来る!」
ヒスイは人差し指をビシッと前方に向ける。
それを見遣って、ジャスパーが笑った。
「だな、真っ直ぐ進むか」
アンも笑って、自分のサンドイッチを平らげる。
それから幾ばくもしない内に、馬車が大きく揺れた。
何かを踏んだ様だ。
左手でのそりと影が蠢く。
三人は一様にそちらを向いた。
「ワームだ」
「ワームね」
「ワームですわ」
鱗に覆われた青黒い肢体をくねらせて、口からチロチロと二股の青い舌を覗かせながら、大蛇が黒い瞳でこちらを見据えている。
大蛇は馬車ごと三人を呑み込もうとでも言う様に、大きな口を開けた。
「逃げるぞ、掴まれ!」
馬車が軋みながらスピードを上げる。
馬車の背後スレスレで、ガチンと蛇が顎を閉じる音がした。
ヒスイは蒼ざめてアンを見る。
しかし、今度はアンも顔を引き攣らせていた。
馬車は蛇行を繰り返し、その度に蛇の顎が鳴る音が響く。
二人は馬車の中で必死に踏ん張るしかなかった。
ジャスパーの目が前方に光を捉える。
更にスピードを上げ、馬車はそこに向かった。
視界が開けると、マンティコアと対峙するジェイドの姿が眼前に現れる。
「まずい、避けろジェイド!」
振り向いたジェイドに、文字通り馬車が突っ込んで来た。
すんでの所で飛び退ったジェイドを掠めて、馬車は横転する。
それに巻き込まれて、マンティコアが吹っ飛んだ。
「何をやってるんですか、ジャスパー」
立ち上がって服に着いた汚れを払いながら、ジェイドが言う。
馬と一緒に転がっていたジャスパーは、起き上がって唇を尖らせた。
「そっちこそ、まだ決着付いてなかったのかよ」
「毛皮と肉を傷付けない様、慎重にやってたんですよ。台無しですが」
倒れたまま動かないマンティコアを見遣って、ジェイドは溜め息を吐く。
ジャスパーは肩を竦めてから、ジェイドの背後を指差した。
「ついでだから、あれも片付けてくれ」
背後の邪悪な気配に、ジェイドは息を吐く。
「仕方ないですね。良いでしょう、私がお相手します」
ジェイドは鎌首をもたげる大蛇に背を向けたまま、右手を挙げた。
彼の周囲で、何かが無数に小さく煌めく。
それらは、見る間に大人の親指程の大きさにまで成長した。
鋭く尖った氷の刃だ。
ジェイドが一度下ろした腕を横に振るうと、それらは一斉に大蛇を襲う。
大蛇はその身で氷塊の群れを薙ぎ払った。
しかし次の瞬間、大蛇はその動きを止める。
ジェイドがその腹に手を触れたからだ。
「毛が無い動物に、興味は無いんですよ」
ピシ、と小さな音と共に額がひび割れても、大蛇はピクリともしない。
その全身は、程無く霜に覆われてしまった。