ショコラトル
困り顔のジャスパーに、ジェイドが聞く。
「どうかしましたか?」
「ああ、火打ち石を忘れて来た」
「何ですって」
ジャスパーは苦笑しながら頭を掻いた。
「ジェイド、魔法で何とかならないか?」
「私は炎の属性は持っていません。知っているでしょう」
「はは、だよな」
ジェイドに睨まれ、ジャスパーは肩を竦める。
「悪い」
「無いものは仕方がありません。お前が自力で火を起こしてください」
「分かったよ」
よっしゃ、と気合いを入れたジャスパーが窯と対峙した所で、ヒスイは顔を上げる。
「私、火を起こせるわ」
一同の視線がヒスイに向かった。
「炎の属性持ってるから」
「ホントか!」
ジャスパーの顔が一気に明るくなる。
ヒスイは頷いた。
火打ち石も無しに火を起こすとなると、下手すれば日が暮れる。
野営に慣れていそうなジャスパーでも、そこそこ時間はかかるだろう。
その間に魔物がやって来ては目も当てられない。
何より、ヒスイは身体を少しでも使う事で、いつ来るとも知れない魔物の恐怖から目を逸らしたかった。
「お嬢さん、魔法が使えるんだな」
「ええ、任せといて」
ヒスイは腕を捲りながら、ジャスパーの傍に歩み寄った。
右手の人差し指を、窯に敷かれた小枝の塊に向ける。
「『炎』」
指先から小さな火花が飛び出し、小枝に着地した。
それは炎となり、瞬く間に小枝を飲み込む。
小枝は時折パチパチと音を立てながら、勢い良く燃え出した。
ジャスパーが感嘆の声を上げる。
「流石だな、火打ち石使うより早えわ。ありがとな」
「どういたしまして」
火に当たって顔を綻ばせるジャスパーを見て、ヒスイは息を吐く。
これで少しは、心が解ける思いがした。
良い塩梅に火が回った窯の上で、ジェイドが小鍋を火にかける。
中にはまだ何も入っていない。
鍋の上に彼が手を翳すと、どこから現れたのか、氷の粒がポロポロと鍋の中に零れ落ちた。
「それも、魔法なの?」
鍋一杯になった氷の粒が、炎にじわじわ溶かされるのを眺めながら、ヒスイが聞く。
ジェイドは頷いた。
「ええ。『凍結』と言います。空気中の水分を凍らせる、氷属性の魔法ですよ」
「呪文、聞こえなかった気がしたけど」
「君も研鑽を積めば、初級の魔法位は無音で出来ますよ。君には見込みがありそうですし」
ヒスイを一瞥もせず、ジェイドは鍋を見つめたままだが、これは褒められたのだろうか。
ヒスイが首を捻っていると、アンがその肩を叩く。
「あなた、凄いですわね。杖無しに魔法を使えるなんて」
「え、普通じゃないの? ジェイドも杖なんて使ってないわよ」
「いいえ」
アンの瞳は、キラキラと音がしそうな程輝いていた。
「わたくし、杖無しに魔法を使える人間を、ジェイドと王都の宮廷付き魔法使い以外に知りませんわ」
杖は魔法の補助をするもので、魔力が込められた木の枝だ。
材質は、属性との相性による。
杖を使う事で魔法の威力が増し、また正確性も増す為、生活魔法が使える程度の魔力を持つ者は勿論、巷で魔法使いと呼ばれる者も、その殆どが杖を手にしている。
杖を用いずに魔法を使うのは、魔力を持つのに知識を持たない田舎者か、強力な魔力と強靭な精神力を持つが故、杖の力に頼る必要の無い者である。
ジェイドの言った見込みがありそうとは、後者を指すのだろう。
しかし、ヒスイは自分を前者だと認識していた。
相変わらず、アンは熱い眼差しでこちらを見つめている。
「あなた、どちらで魔法を習ったんですの?」
「母だけど」
「お母様は高名な魔法使いですの? お名前は?」
「それは、勘弁してくれないかしら」
「あら、どうして?」
「えっと」
母親の名前を出した時の反応が、ヒスイには容易に想像出来たからである。
しかしアンは諦めない。
「教えていただけないかしら。お願いよ」
ヒスイの手を取って、澄んだブルーの瞳を潤ませるアンに、ヒスイは根負けした。
「ルシア、よ」
アンの表情が一瞬驚きに固まり、次に満面の笑みが広がる。
「ルシアって、まさか聖女ルシアですの? 二十年前、王都に現れたドラゴンを、伝説の大剣士リチャードと共に倒したと言う」
ヒスイが頷くと、アンは飛び上がらんばかりの反応を見せた。
「光魔法を駆使して闘うその姿は、正に聖女と呼ぶに相応しかったと言われていますわ。わたくしは事件と同じ年の生まれなのでこの目では見ておりませんけれど、幼い頃にその話を聞いて以来、彼女が憧れですのよ。残念ながらわたくしには魔力がありませんでしたから、魔法使いにはなれませんでしたけれど。彼女の娘さんとこんな所で知り合えるなんて、感激ですわ」
やっぱりね、と独りごちて、ヒスイはこっそり肩を落とす。
母親の話をすると、必ず全て母親に持って行かれるのだ。
ヒスイはただの聖女の娘でしかない。
身分は違えど、街に来てから初めて、出自に拘らず友情を育めるかと思っていただけに、ヒスイは遣り切れない思いがした。
「あれ以来、ルシアはリチャードと共に表舞台に姿を現さなくなりましたのよね。お母様はご健在なの?」
「半年前に亡くなったわ。病気で」
「あら、そうだったの。お悔やみ申し上げますわ。是非とも一度、お会いしたかったのですけれど」
すっかり曇ったヒスイの顔に気付かないままのアンを見て、鼻白んだ様子のジェイドが間に入る。
「アン様、偉大な親の話は程々にしておく事です」
「あら」
改めてヒスイの顔を覗き込んで、アンは口元を押さえた。
「あらあら、ごめんなさい。わたくしったら、失礼な事をしてしまいましたわ」
ヒスイは首を振る。
「良いの。慣れてるから」
口ではそう言うものの、晴れない表情のままのヒスイを、アンは抱き締めた。
「え、ちょ、何?」
いきなりの行動に戸惑うヒスイの肩に弛んだ顎を載せながら、アンは言う。
「本当にごめんなさいね。わたくし、あなたとお友達になりたかったんですの。共通の話題になるかと先走ってしまいましたわ。そうよね、お母様はあなたじゃないものね」
香水と襟元のレースに鼻を擽られて、ヒスイは顔を顰めた。
しかしその顔に、もう落胆の色は無い。
「分かったわ、もう良いわよ。私もあなたと友達になりたいわ」
「あら、嬉しいですわ!」
ヒスイから離れたアンは、にっこりと微笑む。
ヒスイが微笑み返した所で、二人の間に木製のカップが差し出された。
「どうぞ。二人の友情の始まりに」
ジェイドの言葉にはにかみながら、二人はカップを受け取る。
カップからは湯気が立ち上り、甘い様な苦い様な、不思議な香りが辺りに広がっていた。
中身は、茶褐色のとろりとした液体だ。
ヒスイには馴染みの無い香りのそれは、恐らく高級な飲み物なのだろう。
アンの表情が蕩ける。
「早速作ってくださったのね。嬉しいですわ」
アンはヒスイにカップを掲げて見せた。
ヒスイがそれを真似ると、アンは早速カップに口を付ける。
対するヒスイは、カップを訝し気に見つめていた。
ジェイドが困った様に笑う。
「毒ではありませんよ。ショコラトルと言う、甘い飲み物です。南の国で採れる果実の種を加工した粉末を、アン様に先程いただきました。それを湯に溶かして、砂糖と粉乳を加えれば出来上がりです」
アンがジェイドに渡した包みの中身が、その粉末だったらしい。
その上、砂糖などと言う高級な調味料を使っている様だ。
これはお金持ちが口にする、お金持ちの為の飲み物なのだろう。
「熱いので気を付けてくださいね」
ヒスイは喉を鳴らすと、目を瞑ってカップの中身を煽ろうとした。
「あっつ!」
「だから気を付けてくださいと言ったでしょう」
ジェイドの呆れた顔に苦笑いを返し、ヒスイは改めてカップを慎重に傾ける。
口の中に液体が入ると、まずは甘味が広がり、まろやかな苦味がそれに続いた。
森の暗さに冷えてしまった身体が、じんわりと暖まる。
カップから口を離したヒスイは、口角を上げて息を吐いた。
「美味しい」
飲み物にこんなに感動したのは初めてだとでも言いたげに、ヒスイはジェイドを振り返る。
「美味しいわ、これ」
ジェイドは微笑んだ。
「それは良かったです」
「でも熱い」
「子供ですかあなたは。それは少しずつ楽しむものですよ」
物言いには刺があるものの、楽しそうに笑うジェイドに、アンが不思議そうな目を向ける。
しかし何も言わずに、彼女はカップに残ったショコラトルを飲み干す作業に戻った。
窯の守りをしていたジャスパーが言う。
「腹減った。パン食って良いか?」
「パンならそちらの袋の中に、ってもう食べてるじゃないですか」
「火で軽く炙ると旨いな」
「あ、わたくしもパンいただきますわ。後、ショコラトルのおかわりも」
「私もおかわり! パンも食べたいわ」
「待ってください。そのパン、干し肉とチーズを挟んでサンドイッチにしようと思っていたのに。あ、でもショコラトルには合いませんね」
「合う合わないは関係ありませんわ。早くサンドイッチをお作りになって」
いつの間にか、窯の前は戦場と化していた。
暗い木々の陰から様子を伺う二つの光る目に、誰も気付く様子は無い。