暗い森
二頭立ての箱型馬車は、外が金銀細工に覆われているのに対し、中は革張りの落ち着いた装飾が施されていた。
座面のクッション性のお陰か、サスペンションでも付いているのか、ヒスイが以前乗った事のある乗合馬車よりも、随分尻への負担が少ない。
意外と快適な道中になりそうで、ヒスイは表情を緩めて前に座るアンと横のジェイドを見た。
ジャスパーは、御者に代わって馬を走らせている。
街から出ると、一面小麦畑の農村地帯であった。
尤も、今は十月で丁度土を作り種籾を撒く時期の為、辺りは土色の平原である。
その所々に、土壁の素朴な家が建っていた。
最近農村から街へ越して来たばかりのヒスイは、懐かしそうに窓の外を眺める。
少し走った所で、ジェイドが口を開いた。
「では今回の食材、マンティコアについて軽く説明します。マンティコアは、人間を好んで食べる猫型の魔物です。人間の顔をして、たてがみが生えた猫の身体に蠍の尾が生えた生き物ですが、遭遇すると高確率で喰われてしまうので詳しい事は余り分かっていません。その肉が美味しいのは勿論、たてがみは魔物のアンゴラとも呼ばれる最高の手触りなのです。遭遇したら是非とも触りたいものです」
マンティコアの毛の感触を思い出しているのか、ジェイドはうっとりと自分の両手を眺める。
反応に困ったヒスイがアンを見ると、彼女は肩を竦めた。
「彼は毛の長い動物が大好きですの。さっきも馬を撫でていたでしょう? ふさふさした毛のある動物は、触りたくて仕方無いらしいですわ」
「そうだったのね」
物腰は柔らかいがどこか冷たそうに見えた彼に、そんな一面があったとは。
人は見かけに依らないものだ。
ヒスイはジェイドを横目で見る。
ジェイドはまだ、マンティコアのたてがみをその手で触る妄想に夢中であった。
もう一度アンを見ると、首を振った彼女はジェイドに呼び掛ける。
「それで、ジェイド。今回はどうしてマンティコアを食材になさったのかしら?」
ようやく現実に戻り、ジェイドは答えた。
「実は先日、運良くマンティコアの肉が手に入りまして、丁度良いからと教室の食材にしたのです。ですが、昨日お城での宴に使いたいとのお達しがあって供出してしまいました」
「あら、もしかして昨日のメインはそれだったのかしら。臭みが強いし、硬くていただくのに苦労したわ」
「何の肉でも同じですが、調理を間違えるととんでもなく味を損ねますからね。牛と同じ調理法では、マンティコアは美味しくなりません」
「調理も、あなたにお願いするべきでしたわね」
二人の会話を聞きながら、ヒスイは「お城の宴?」「昨日のメイン?」と呟いている。
そして意を決した様にアンに聞いた。
「アンは、お城に住んでるの?」
「ええ」
それが何か、と言いたげに首を傾げるアンの代わりに、ジェイドが補足する。
「彼女はダゴン家の御息女ですよ。領主、ミタラ・シ・ダゴンの娘です」
「ああ、領主様の」
ヒスイは言うなり固まってしまった。
どこのお金持ちかと思えば、この街で一番偉い人間の娘だったのである。
そんな高尚な身分の女性が、護衛の一人も寄越さず森へ入るなど、普通では考えられない。
否、護衛は魔物の倒し方を熟知しているジェイドと、いつも森へ出掛けているジャスパーなのか。
実は今、自分は大変場違いな所に足を踏み入れているのではないかと、ヒスイは戦慄した。
「あら、そんなに固くならなくても宜しくてよ。わたくしも彼等も、あなたを取って食ったりしませんわ」
そう言われても、とは返せずに、ヒスイはただ笑う。
それをどう受け取ったのか、アンはそう言えば、と話題を変えた。
「ヒスイは、どうしてこの料理教室にいらしたの?」
「あ、花嫁修行なの」
「花嫁修行?」
「そう。結婚するなら、まずは相手の胃袋を掴まなくちゃでしょう」
「お相手がもういらっしゃるの?」
「いないわ。でも、私ももう十六で結婚出来る歳だし、いつどこで出会いがあっても良い様に、料理の腕を磨いておきたくて」
「そうでしたの」
ヒスイは頷く。
結婚するには相手の胃袋を掴め、とは父親に言われた事であったのだが。
「アン、様は?」
「あら、アンで宜しくてよ」
「分かったわ。じゃあ、アンは?」
「わたくしは、食べるのが好きだからですわ」
そのふっくらとした体型から、答えは素直に納得出来た。
「でも、お城で沢山美味しいお料理が出るでしょう?」
「そうですわね。でも、魔物料理を極めた人間は中々おりませんのよ。魔物は儀式的に食する事が多いものですから、味は二の次になりがちですの。それを美味しくいただけるのなら、来ない理由はございませんわ」
恐らく、目の前のお嬢様が美味しい魔物料理が食べたいと言い出し、この料理教室はお膳立てされたのだ。
受講者募集はついでだったに違いない。
ヒスイはそこまで考えて、やっぱり自分は場違いだった様だと目を伏せる。
その様子を見ていたジェイドが言った。
「私が料理教室を開く事にしたのは、ジャスパーが言い出したからですよ。酒場は昼間お客様が来ないから、料理教室でも開けば良い。魔物料理の作り方を教えれば、物珍しさでお客様も増えるなどと言っていたので」
その目論見は、ものの見事に外れた様だ。
少し考えれば分かりそうなものだが、彼の店の経営は大丈夫なのだろうか。
いずれにせよ、ヒスイが勝手な想像を膨らませ、ここに来て後悔している事を汲んでのジェイドの発言だろう。
その優しさに、ヒスイはジェイドを感謝を込めた目を向ける。
ジェイドは銀の瞳を細めてそれを受け止めた。
その柔らかな表情に、ヒスイの胸が何故か高鳴る。
目を逸らして胸を押さえると、それは次第に落ち着いた。
今のは何だったのかと考えようとした矢先、ジェイドが窓の外を指差す。
「森が見えて来ましたよ」
小麦畑の向こうに、黒々と繁る樹々が姿を見せた。
それは近付くに連れ、異様な雰囲気を露わにする。
重たく、息が苦しくなる様な感覚だ。
中に入ると陽の光が届かず、更に空気が重く感じられた。
魔物が棲むのに相応しい、暗く湿気に満ちた場所である。
その薄寒さに、ヒスイは思わず身震いした。
そんな鬱蒼とした森でも、大きな馬車が通れるだけの余裕はあるらしい。
平地に比べると揺れは大きいものの、問題無く進む事が出来ている。
もしかするとそれは、物好きな先人達が作った道かも知れなかった。
しばらく進むと、森にぽっかりと穴が開いた様に、そこだけ陽光の差し込む場所に辿り着く。
大小の石がそこここに転がり、背の低い草に覆われた広場は、大人が十人程たむろしても充分な広さがあった。
馬車が停まる。
「ここで軽食にしましょう」
ヒスイは耳を疑った。
「ここで?」
少し開けた場所と言えども、森の中である。
魔物がいつ襲って来るか分からないのに、呑気に軽食など楽しんでいても良いのだろうか。
ヒスイが戸惑っている内に、アンは馬車を降りて行った。
「行きますよ」
「え?」
「ほら」
差し出された手を思わずヒスイが取ると、ジェイドはヒスイを立たせて馬車の外に連れ出す。
その手が意外とぶ厚く傷だらけな事に驚いて、ヒスイはジェイドの手と顔を見比べた。
「どうかしましたか?」
「えっ、あ、いや」
ヒスイは頬を染め、慌てて手を離す。
またも自分の鼓動が速くなるのを深呼吸で誤魔化しながら、ヒスイは聞いた。
「こんな所で休憩なんかして大丈夫なの? 魔物が襲って来たりしない?」
「まあ、実はそれを狙っているんですよ」
「へ?」
「何をしにここへ来たと思ってるんですか。魔物を捕まえにでしょう」
彼の表情は、冗談を言っている様に見えなくもない。
しかし状況から考えて、冗談だろうと笑う事はヒスイには出来なかった。
料理教室に来た筈なのに、自分が餌になるとは。
「大丈夫ですよ。お茶を頂く時間位はある筈ですから」
もう、ジェイドの優しい言葉も優しく聞こえない。
ヒスイは情けない顔で俯いた。
そんなヒスイをよそに、アンがそうだわ、と声を上げる。
馬車の積荷をしばらくガサゴソしていたアンは、小さな包みを取り出してジェイドに手渡した。
「これを持って来ましたの。どうぞお使いになって」
包みを開いたジェイドが目を見張る。
「これは珍しいですね。いただいて良いんですか?」
「ええ。昨日の宴は、この取り引きの為でしたのよ。取り引き相手が、マンティコアの肉をとても珍しいと気に入ってらしたの。わたくしの口には合わなかったですけれど。商談が上手く行ったのは、あなたにいただいたマンティコアのお陰でもありますわ。どうぞお受け取りになって」
「では、遠慮無くいただきます」
アンに頭を下げて、ジェイドはジャスパーを見遣った。
いつの間にかその辺の石で窯を拵えていたジャスパーが、何かを思い出した様にあっと声を上げたからである。